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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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にげみず

10/07/15

にげみず【逃(げ)水】
夏の草原やアスファルト道路などで、遠くに水があるように見え、近づけば、遠退いて見える現象。

 逃げ水については、あまり書くことがない。
 子供の頃、逃げ水を見るのが好きだった。と、これだけで良さそうな気がする。
 大人になった今でも好きだ。事情が許すなら、いつまでも眺めて、きっと見飽きない。
 なぜ好きなのか、問われても困る。あれが蜃気楼だという知識くらいあるから、格別に不思議とは思わない。
 たぶん、逃げ水という現象だけでなく、逃げ水が現れる状況、つまりかんかん照り、乾いたアスファルトの道、静かな気配、それに加えてぼうっと立っている自分もひっくるめて、全体が好きなのだと思う。
 逃げ水を見ている時の自分は、だいたいぼうっとしている。暑さにやられてぼうっとした目に逃げ水が見えてくるのか、逃げ水に心を吸われてぼうっとしてしまうのか、どちらとも言えない。気がつくとぼうっとしている。
 逃げ水が好きというより、逃げ水を眺めている時の、心がからっぽの状態が好きなのだろう。夏の光に炙られながら、遠い一点をじっと見つめていると、空気が希薄になり、景色が平板になり、物音が遠くなる。気を失いかける直前の感覚に近いものが、現れる。

 今日も逃げ水を見た。
 地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅を上がると、新宿通りと外苑東通りが交わる交差点に出る。交通量の多い新宿通りに比べると、神宮外苑に向かう外苑東通りの道はたいてい空いていて、真昼時となると、やたら幅の広い道がすっからかんになることもある。
 朝方、その交差点の横断歩道を渡った時には、逃げ水はなかった。
 正午を過ぎて陽射しがきつくなり、汗ばみながら、同じ横断歩道を逆向きに渡っていると、神宮外苑のほうから救急車のサイレンが聞こえてきて、振り向いたら、陽の照り返しで白っぽくなった道に、逃げ水が現れていた。警告灯の光を逃げ水に映しながら、救急車は逃げ水を踏んで走ってきた。
「おっ」と心の中で思う。思っただけで口には出さない。
「救急車が来る」と、いっしょに歩いていた同僚に見たままのことを言うが、逃げ水のことは黙っている。同僚も「そうだね」としか言わない。同僚の目に逃げ水が見えているのかわからないし、たしかめようとも思わない。
 一般に人は逃げ水が見えてもそれを口にしない。なぜなのだろう。
 たとえばこれが、砂漠の地平線に浮かぶオアシスだったり、水平線の浮島だったりしたら、きっと話題にする。なんとなく得した気分になるからだ。なのに同じ蜃気楼でも、逃げ水に関してはみな黙っている。見ていないような態度をとる。
 ありふれた現象なのに、ことさら不思議がっているようで、大人げないと思われそうだからか。でも、子供の頃だって言わなかった気がする。なぜだか、口にしてはいけないような感じだった。

 文芸作品にも、逃げ水はあまり出てこない。少なくとも私は読んだ記憶がない。「逃げ水」は夏の季語だが、逃げ水を詠んだ俳句にいいものがない。追いかければ逃げるだの、逃げ水にあの世が垣間見えるだの、たいてい陳腐だ。
 夏の光の中で、目に見える風景が薄っぺらくなり、その中で逃げ水だけが妙にぎらぎらと、見ているこちらに切り込んでくる。あの鮮烈な感覚を、よけいな意味や象徴をともなわずに、そのまま取り出せないものか。
 芥川龍之介に『蜃気楼』という小説がある。あれは海の蜃気楼を見に行く話だ。芥川の精神が相当病んでいた時期の作品で、たしか、人の無意識には何があるかわからないとかいう内容の、つかみどころがない、無気味な話だった。あの小説は好きだ。たぶん、海、という舞台がよかったのだろう。

 見る、という行為は、ただ眼前の光景を見ているだけではなくて、脳に記憶されたいくつもの光景を重ね合わせて見ている。人は現在の光景を見ながら同時に、過去に見た光景も無意識に見てもいるらしい。
 逃げ水を初めて意識的に見た時のことを覚えている。何歳だったかは忘れた。うんと小さい頃だ。道の遠くのほうに水たまりみたいなのがあって、自動車がどんどん、それを踏んで走り抜けていくのに、タイヤの濡れた様子がないのを変だと思いながら見ていた。そのうち消えてしまったのも不思議だった。
 けれど不思議は不思議のままに受け入れて、あれは何だったのだろうと、深く考えはしなかった。それでなくても世界は不思議であふれていたから、ありのままを受け入れるので精一杯だった。
 あれが逃げ水という、光の屈折で起こる現象だと知ったのは、小学校五、六年生の時だったと思う。友だちの家にあった図鑑を読んで知った。掲載されていた写真まで覚えている。
 その頃、私は自転車でひとり、田舎道をあてもなく走るのが好きだった。
 ある夏の日、海へ向かうゆるい坂道を下っていて、前方にちらちら逃げ水が見えだし、ブレーキをかけた。両側を田んぼにはさまれた長い一本道で、彼方まで車はおろか人影もない。じっくり観察したいという気を起こしたのだが、見ているうち、自分があそこに立ったらどう見えるだろうと好奇心が湧いた。それで自転車を走らせ、逃げ水が現れていたと思しき地点で立ち止まったが、当然、逃げ水は消えている。
 自転車にまたがったままで、後ろをふり返った。さっき自分がいた地点に自分の視点を想定し、その目に自分がどう映っているか想像してみた。
 自分が自分自身から遠くなったような気がした。なんだか、自分が自分自身から突き放されてしまったような感じだった。
 でも、それは今だからこうして言葉にできるのであって、当時は何が自分を不安にさせるのかわからなかった。わからないまま、さっさとその場を離れたのだった。

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にょごがしま

10/07/15

にょごがしま【女護が島】
女性だけ居るという想像上の島。

 むかしむかし―。
どうしても「むかしむかし」から始まっちゃうな。どうしてだろう。
これからお話しが始まりますよっていう、一種の呪文? みたいなもの? 「むかし」とは言っても、本当の昔じゃないからね。はるか遠い未来の時点から見た昔。つまり、今この現在から見たら少し先の未来。わかる? ねえ、ちゃんと聞いてよ。
 南太平洋の島々のひとつに、キャリコという小さな島がありました。キャリコというのは、島の言葉で蛇という意味。その島をまあるく取り巻く珊瑚礁の岩が、引き潮になると浮き上がって、その姿が蛇に似ていることから、この名がついたの。蛇が自分のしっぽを噛んで、輪を描いて島を守っていたのよ。
 島は小さいの。そうね、東京ドーム二十個分くらいかな。人口は二百人をちょっと超えるていど。高い山はなくて、ほとんどがジャングルに覆われて、男たちは海へ漁に出て、女たちは畑を耕して、子供たちは海辺で貝を拾ったり、バナナやヤシの実を集めたり。ほとんど自給自足の生活よ。
 男たちは捕れた魚を本国の市場で売って現金にして、それで洋服やこまごまとした生活用品を買って帰るんだけど、必要以上のものは買わない。あまったお金はみんな村長さんにあずけてしまう。村長さんは帳簿もつけないであずかったお金を庭に埋めてしまう。それが島のしきたりなの。お金は人を狂わすから。島にお金はいらないのよ。なんでも物々交換ですましちゃう。それで問題なかった。電気も水道もない。自動車もない。借金取りが玄関のドアを叩くこともないし、お役人が税金の徴収に来ることもない。
ね、いいでしょ、こういう島。それはそれは楽園みたいな島だったのよ。
 ところがね、悲しいことに、楽園が楽園のままだったら永遠に物語は始まらない。
 地球温暖化で海面が上昇して、キャリコ島はだんだん沈んでいき、海辺に住んでいた人たちは家や畑を失ってしまいました。村長さんは丘に住んでいる人たちに、自分の土地を分け与えるように命じました。新たにジャングルを切り開くことは島のしきたりで許されなかったのよ。ジャングルはね、精霊たちの領分だから。
 土地の割り当ては、村長さんの努力にもかかわらず、公平にはいきませんでした。分け与えた人にも、与えられた人にも、不平不満はつのりました。キャリコ島で初めて、貧富の差が生まれたのよ。こんなんじゃ暮らせないって、島を出て本国に移ろうとする人たちが村長さんの家に押しかけて、庭に埋めたお金を掘り起こす騒ぎが起こりました。お金の奪い合いはね、とうとう殺し合いに発展しちゃった。もめ事なんて、まして殺人なんて、それまでキャリコ島には縁がなかったのに。悲しいよね。昨日までいっしょに歌ったり踊ったりしてた仲間が、顔を赤くして、歯を剥き出していがみ合って。
でもさ、人間って、ひと皮剥けばみんなそういうものかもしれない。ねえ、あなたもそう思うでしょ?
 村長さんはね、殺された。村長さんがいないとお祭も開けない。キャリコ島は住む人が減って、だんだん寂しくなっていった。そうして島の半分くらいが沈んじゃうと、本国が島民に移住命令を出したものだから、島に残ったのは老人だけになってしまった。どうせ老い先みじかいんだから、生まれた島で死にたいって強く願って、だから残ったのよ。
 三十人くらいの老人が集まって、わずかな畑を耕したり、海辺で貝を拾ったりして細々と暮らしました。老人ばかりになって、やっと島は平和を取り戻したって感じ。長く中断していたお祭もまた始めて。どんなお祭かって? そうね、ジャングルの精霊たちを讃える歌と踊りが夜通し続く、そんなお祭よ。
 ねえ、聞いてる? だめよ眠っちゃ。このお話、まだまだ先が長いんだから。
 それでね、ええと、どこまで話したっけ。ああそう。人間ってさ、男のほうが先に死ぬよね。男って基本的に弱い生き物なんだよね。キャリコ島も例外ではありませんでした。男のほうから先に死んでいって、あ、これみんな老衰よ、いつの間にかお婆さんだけの島になってしまいました。
「女だけの島」という噂が船乗りの間に広まって、変な誤解をした船乗りがキャリコ島に寄ってみて、すごくがっかりして帰っていったりもしました。
 島には月に一回、本国の船が支援物資を届けに来たの。たけど、お婆さんたちは荷物を浜辺で受け取るだけで、男たちを島には上げようとしませんでした。男たちがみにくい争いを起こした記憶が強烈だったから、もう島に男はいらないって決めていたわけ。男は島に災いをもたらすっていう理由で。男さえ入れなければ島は平和を保てるってお婆さんたちは信じて。実際、平和だったし。
 あの事件が起きるまではね。そう、あの事件までは。
 でもこんな言い方って、なんか思わせぶりで、あんまり好きじゃない。
 その事件というのはね、以前、島を出て行った娘が一人、支援船に乗って島に帰ってきちゃったことでした。娘のお腹は大きかったの。本国に移住して結婚したのはいいけど、妊娠したとたん夫が浮気を始めて、虐待もひどくなって、それで逃げてきたんだって。お婆さんたちは話し合って、娘を受け入れはするけど、生まれてきた子がもし男だったら本国に帰す。女だったら親子で島に住んでいい、ということに決めました。
 娘は祈る気持ちで出産の日を迎えました。さいわいにして、生まれたのは女の子。島のみんなが大事に大事にその子を育てました。
 その子は美しい少女に育ちました。それはそれは美しい少女でしたから、男がひと目見たら狂ってしまうと心配して、島のみんなは、支援船が来るたびに少女をジャングルに隠しました。だから、男ってどういうものだか、少女は生まれてから一度だって見たことがありませんでした。
 それがね、ある夜のこと、大嵐があって、一隻の漁船が難破してキャリコ島に流れ着いたの。島のみんなは大慌てで少女をジャングルに隠した。そのうえで、漁師たちにはじゅうぶんな水と食料を与えて、船の修理が終わるまで島に滞在することを許したのよ。ジャングルには絶対に立ち入らないことを条件にね。
 でもね、そうはいかないの。タブーは破られるためにあるの。ある日、好奇心の強い若者がこっそりジャングルに入ってみたら、どこからか美しい歌声が聞こえてくるではありませんか。若者は歌声に誘われるようにして、ジャングルの奥へ奥へと分け入っていきました。そしてね、滝の下で水浴びをしている少女とばったり出会ってしまったのよ。少女は恥ずかしいなんてことを知らないから、もちろん全裸よ。男を見たのは生まれて初めてで、だからすごくびっくりしたけど、本能でね、体の中がかっと熱くなっちゃったの。
 若者はいったん仲間のところに引き上げたけど、少女のことがもう忘れられない。夜中にこっそり起きだして、少女を求めてジャングルの奥へと戻りました。後はお決まりよ。ふたりは滝のそばで結ばれたの。濡れた岩の上で、月光を浴びながらね。
 それから間もなくして、漁船の修理が終わって漁師たちは本国に帰って行きました。もちろんあの若者もいっしょに。少女はお腹の中に若者の子供を宿していました。だんだん膨れていく少女のお腹を見て、お母さんはたいそう嘆き悲しみましたが、できてしまったものは仕方ありません。お婆さんたちと話し合って、生まれてくる子が女の子だったらこの島で育てる、男の子だったら支援船に頼んで本国へ養子に出す、と決めたの。
 少女は祈るような気持ちで出産の日を迎えました。果たして、残念ながら生まれたのは男の子でした。少女は一生懸命抵抗したけど、お母さんは強引に子供を奪い取って、支援船に渡してしまった。母と娘は激しく争った。そして、すさまじい喧嘩の末に、少女はうっかりお母さんを殺してしまった。残酷だなんて思わないでよ。彼女は純粋すぎたの。それまで喧嘩なんてしたことがなかったから、力の加減がわからなかっただけ。暴力なんて知らなかった。こうすれば血が出て人が死ぬんだなんて知識がなかったのよ。
 ああ、やっぱり男が災いをもたらしたのだと、お婆さんたちは悲しみにくれて、ひとりまたひとりと死んでいきました。それで、とうとう少女はひとりぼっちになっちゃった。その頃、キャリコ島はかつての三分の一くらいの大きさ。支援船に乗って本国に渡れば、自分の子供に会えるかもしれない。そう考えもしたけど、お母さんを殺した手で子供を抱くことが、なんだか恐ろしいことに思えてね、できなかった。
 支援船が来るたび少女は隠れた。呼びかけても誰も出てこないから、もうみんな死んだのだなと支援船の乗組員は考えた。それ以来、支援船は来なくなった。キャリコ島はどんどん沈んで、東京ドーム一個分くらいになってしまった。蛇に似た珊瑚礁の輪もとうに海の底に沈んで、二度と海面に浮き上がることはなかったの。
 少女はひとりぼっち、畑を耕したり貝を拾ったりして暮らしました。夜になると海岸に出て、たったいちど結ばれたきりの若者を思い、また子供のことを思いながら歌を歌った。のびやかな歌声は、島の近くを通る船に届くことさえありました。
 でも船乗りたちは、キャリコ島は無人島になったと思い込んでいたから、あれは島の女の幽霊が歌っているのだと信じたの。いつしか、あの歌声を聞くと船が沈むという噂が広まって、どの船も島を避けて通るようになり、人々から忘れられていきました。
 それでも少女は、若者を思い、子供を思って歌い続けたのよ。
 ねえ、だめよ眠っちゃ。聞いてる? ちゃんと聞いてる? このお話し、私が自分で作ったのよ。これで終わりじゃないからね。まだまだ続くのよ。少女が年老いてお婆さんになっても続くの。しわくちゃのお婆さんになっても歌い続けて、若者や自分の子供を待ち続けるの。キャリコ島が完全に海に沈むまで、えんえんとお話しは続くのよ。
 私は毎晩話し続けるから。あなた、おしまいまでちゃんと聞くのよ。たまには感想を聞かせて。死人に口なしなんて、そんな言い訳ゆるさないから。どんなになってもあなたはあなた。誰にも渡さないんだから。この部屋から出すもんですか。
 私は私がお婆さんになってもこの部屋を離れない。毎晩あなたにお話しを聞かせ続ける。そしてね、お話しは永遠に続くのよ。

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にんぎょ

10/07/15

にんぎょ【人魚】
①胴から上は若い女性で、魚の尾を持つという、想像上の動物。②ジュゴンの別称。

 かれこれ六、七年前のこと。それまで勤めていた会社をリストラされ、新しい仕事を探したところでろくな仕事がないのは火を見るより明らかで、それなら自分で会社を作って就職すればいいんだと考え一人で出版社を立ち上げたまではよかったがなにしろ基本がいい加減だからまるで先行きが見えない。このまま立ち腐れてしまうのか。旅をすれば何か掴めるだろうと祈る思いで沖縄に飛んだ。日本を南端から攻める計画だった。北海道の北端から攻めてもよかったのだが沖縄を選んだのはたまたまだった。
 沖縄は本土とまるで違った。何が違うといって、ひと口で言うなら神が違った。日本と切れている。沖縄という土地が神なのだった。ビルにせよ道路にせよみんな沖縄という神の上に載っかっていて、アスファルト一枚コンクリート一枚めくればたちどころに神は剥き出しの顔を見せる。
 誤解されそうなので断っておくと僕は神を信じる人ではない。なのに沖縄の神だけは素直に信じられた。信じるというか神の方から僕の中にえぐりこんできたのだった。それで何か悟ったということはなく僕は僕のままだが、沖縄にいる間は常に神の気配を肌で感じた。沖縄の神は生々しい。体温がある。那覇の中心街だろうと基地の街だろうとやんばるの森だろうとそれは変わらなかった。
 那覇にいる間は民宿で借りた自転車で走り回り、人と会ったり出版社を訪ねたりした。ジュゴン保護団体ともそうして出会った。人から人への縁で半ば偶然につながった。ジュゴン? 知らなかった。沖縄の海にジュゴンがいることを初めて知った。
 それを皮切りに何度も沖縄に飛んだが行き先はもっぱら辺野古で、目的は辺野古の海に棲むジュゴンの保護活動だ。辺野古というのは普天間基地の移設先に目された土地で、当時は海上基地建設に先立つボーリング調査を実力で阻止しようと沖縄内外から人が集まり辺野古港で座り込みを続けていた。毎日やって来る防衛施設局の局員を追い返していた。初めのうち僕はジュゴンに対して何の思い入れもなく、実際に自分の目で見たわけでもないものに思い入れを抱けるわけがなく、たまに自分のしていることに違和感を抱いた。国と闘うのは楽しい。申し訳ないが楽しいものは楽しい。けれどなぜ自分が、と考えると必然性はないような気がした。沖縄のためジュゴンのためというのはきれい事で本当は自分のためで、つまり僕はそうやって沖縄とつながっていたかった。
 辺野古の近くに「ジュゴンの見える丘」と呼ばれる丘があり、でもその丘からジュゴンを見たという人は一人もなく、だから正確には「ジュゴンを見たい丘」だがそれはともかくジュゴンのいる海を一望できるのはたしかで、一週間そこに通い大学生といっしょに海を眺めジュゴンを探した。しかし地元の漁師でさえ滅多に見られないものを一週間かそこら頑張ったところで見られるわけがないのだ。見られたとすれば奇跡だ。奇跡を頼りに茫洋とした海を見続けるのは一種の信仰に近い。信じる者が救われるわけではないが信じながら眺める海は一日中でも飽きなかった。
 ジュゴンが見えたとか見えなかったとかいうのもどうでもよくなって、海を眺めていると海が自分の中に入ってくる感覚があり、それだけで心がいっぱいになった。ジュゴンが見られなくてもジュゴンがそこにいると信じられるだけで幸せだった。ある意味そういう心の働きこそ信仰なのだ。無神論者の信仰というものがあるのならその時の僕の心がそうだった。
 個人的には、なぜジュゴン保護活動を保護するのかというとジュゴンは神の使いだからだ(そういう伝説がある)。僕がそう言うと人はきょとんとする。ひどい場合は聞かなかったことにされる。たしかに論理的でない。論理的でないから説得力がない。日米政府を相手にしようというのに神を持ち出されても困る。もっともな話だ。
 けれど僕の論理では沖縄を沖縄たらしめるのはその風土であり、風土というものは(仮定の)神という精神的なものによって性格づけられているのだから神の使いのジュゴンが消滅すれば神の死につながる。神が死ねば沖縄も死んでしまう。沖縄が沖縄でなくなる。たとえ見た目はきれいだろうと死んだ海だ。もぬけの殻なのだ。
 そんなふうに何年か過ぎて、出版社も非力ではあるけれどなんとか活動は続いて、そうしているうち僕の書いた小説が新人賞を取るという大事件が起きて生活は一変した。すべてを捨てて作家生活に入った。
 二作目は沖縄を舞台に、ジュゴンの津波伝説を題材に取り上げ書き上げた。僕の沖縄体験を精一杯盛り込んだが政治的な部分はすべて削られた。書き直しに継ぐ書き直しで苦労したものの、出版してみると期待したほど評判にはならなかった。なぜだかわからなかった。それを境に僕はジュゴンから離れていった。その後結婚したこともあって日々の生活に追われる身となりジュゴン保護団体とも離れていった。青春が終わったと感じた。青春といっても、沖縄と東京を往復していた頃の僕は四十歳を過ぎていたのだけれど。

 それが昨年(二00九年)夏、ジュゴン保護団体から沖縄ツアーに参加しませんかという誘いの葉書があった。僕は作家として行き詰まっていた。沖縄の日々を思い返すと遠い昔に感じた。あの頃は若かったなあ、なんて。実際はほんの三、四年前なのに。
 ツアー初日。最近ジュゴンが現れたという古宇里島を見てから美ら海水族館に入った。何度も沖縄に来ていたが美ら海水族館に入るのは初めてだった。
 そこでマナティーを見た。大水槽のある本館とは別の、マナティー館というところに彼はいた。マナティーはジュゴンの親戚で見た目ほとんど同じだがどこが違うかというと尾びれの形が違う。ジュゴンは三日月形でマナティーは団扇形だ。
 美ら海水族館にマナティーがいると知らなかった。ジュゴンとの見分け方は知っているし、入り口に「マナティー館」としっかり書かれていて、それを見ていたはずなのにジュゴンと思い込んだ。
「ジュゴンがいたんですね」と僕は団体の東京支部長に話しかけ、彼が僕の間違いを聞き流し訂正しなかったので僕の思い込みはより強固になった。
 やっぱり、変な生き物だった。風船みたいに浮いたり沈んだりしていた。体長は三メートルくらい、灰色の肌をした、ずんぐりむっくりで、顔つきはというとどのクラスにも必ず一人はいた、愛想はいいけど鈍くさい、不器用で、愚直で、先生に指されると口ごもり、球技が苦手で、でも清掃は真面目で、生き方下手の、影は薄いのにいないと気になる、そんなタイプを彷彿させて、どこかで見た顔と思ったら宮沢賢治の風貌に似ていた。宮沢賢治に似た生き物がぬうぼうと水の中にいるのだった。
 僕はジュゴンを、その弱さにおいて好きなのだった。初めて沖縄に来た時、僕の心も相当弱っていたから。そして今も僕は相当弱っている。ジュゴンが絶滅危惧種なら純文学作家だって絶滅危惧種なのだ。
 水槽で泳ぐジュゴン(と、思い込みは続いていた)は、自分が絶滅危惧種だと知らない。もし仮に、ジュゴンの減数がこのまま進んで自分が世界で最後の一頭となったら、地球的規模の孤独を彼は本能で知るのだろうか。もし知るとすればどんな心境になるのだろう。それとも、種の絶滅も個体の死も本人にとっては違いはない、それだけのことだろうか。ジュゴンの中に入り込んで考える。水槽の外側から見たジュゴンはふわふわしたお化けみたいだが、水槽の内側から外を見た人間は幽霊みたいだ。
 こんなふうに考えるのは感傷だろうか。ジュゴンはジュゴンで人間は人間だ。けれどたとえば梅と桜は違う種類だけど同じ春という現象の一部であるように人間と他の動物も地球という現象の一部であって、視点を高くしていけば人間とジュゴンの境が消えてしまう高度は必ずある。それを仮に神の視点と言ってもいい。問題は神がいるかどうかではなく、そういう抽象的な視点を仮定できるかどうか想像力の問題なのだ。
 ジュゴンを探して丘の上から海を眺めていた日々が思い返されて、そのジュゴン(と、まだ思い込んでいる)が当たり前のように目の前を泳いでいる。繰り返し夢の中で見ていた相手とばったり現実で出会ったような妙な懐かしさで胸がいっぱいになり、しかしそれは同時に夢の終わりを示してもいて、少し寂しかった。
 外に出ると夕暮れで、いつの間にか雨が降っていて、灰色をした海の向こうに伊江島が煙って見えた。帰り道にガチャポンが置いてあり魚やなんかの模型を売っていて、ふだん僕はこういうのに手を出さないのだがこの時はおみくじ気分でためしてみた。出てきたのはウミガメの赤ちゃんが卵を割って生まれた場面だった。
「おみくじだと小吉ってとこかな」と僕は言った。
 ツアーに参加していた若い女性が「あ、かわいい」と言って自分もためしてみたら出てきたのはサメで、彼女は複雑な表情になった。
「いいじゃん、かっこいいじゃん」と僕は若者言葉で言ったが、たぶん慰めにはならなかったろう。

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なきりゅう

10/07/01

なきりゅう【鳴(き)竜】
壁・天井などに向かって手をたたいたりすると特有の反響を起こす現象。日光輪王寺の薬師堂のものが有名。

「竜が飛んでいる」と思ったのは、飛行機雲だった。
 飛行機雲が珍しいわけではない。横田基地と厚木基地を結ぶ直線コースの真下にリュウの住む街はあるから、自衛隊のジェット機は頻繁に飛び、空に白い航跡を残していく。見慣れた景色だ。ただ、この日の飛行機は格別だった。
 夕焼けの終わり。空は透明な藍色に染め上げられ、しかし山の端には埋み火のような夕焼けが残っていて、飛行機雲は夜の色に変わりゆく空の中で、夕陽の余光に照らされ赤々と燃えている。輪郭がぼやけて膨れ、風に吹かれて少々歪んでいるのも、竜らしかった。生き物めいて、力強くて、艶めかしくもあった。
 暮れていく空に、竜が吠えている。次第に力を失いながらも、精一杯の咆吼を空に広げている。
「おい、竜。ぼくもリュウだ」
 リュウは息を吸い込んだ。吠えたいくらいだ。ランドセルに立てたそろばんを鳴らしながら、新興住宅地の坂道をしゃかしゃか上った。リュウの家は丘の上にある。

 リュウはそろばんが好きだ。ハマッテいると言っていい。学校の友だちはそろばんなんて時代遅れだと口をそろえるが、それは違う。友だちの電卓と計算競争をしたって負けない。0,1秒単位の戦い。そろばんの珠がぱちぱち火花を散らす。そろばんは数字の格闘技だ。ダイブし、キックし、投げ飛ばす。ゲームの敵キャラを倒すように数式をやっつけていく。そろばんはエキサイティングだ。
 ネットで全国珠算競技大会の動画を見たのが始まりだった。上級者の指さばきは神業だった。TVゲームなんて目じゃなかった。
 そろばんを習うとリュウが宣言した時、アニメオタクの両親は目を白黒させた。自分の子供がいきなり外国語を話し出したような顔だった。特に父は、息子を空手道場に通わせたかったので、無言のまま、頭の上に?マークを五つも六つも並べたものだ。
 リュウの両親は『北斗の拳』にイカレていた。二人が出会ったのも『北斗の拳』のイベント会場だ。父の名は憲一郎で、母は由里。二人は「ケンシロウ」、「ユリヤ」と呼び合った。結婚してもそれは変えなかった。
 ケンシロウは北斗真拳で悪者を懲らす世紀末の救世主で、ユリヤは彼の麗しき婚約者。名前こそ似ているものの、そこは現実の悲しさで、憲一郎は色白のやさ男、由里は小太りときている。それでも夢は夢として守り合い、生まれてきた子供に「リュウ」と名づけた。『北斗の拳』のリュウは、ケンシロウによって北斗真拳の次代後継者に選ばれた男だ。
 両親は、リュウが片言をしゃべり始めた時から、自分たちをケンシロウ、ユリヤと呼ぶようしつけた。家の内でも外でも、パパ、ママとは呼ばせなかった。生まれてきた子を、自分たちの仲に加わった新しい友だちと考えていた。
 両親はリュウに強くあれと願った。できれば格闘技を習わせたかった。しかしリュウ自身は、筋肉を鍛えるよりも頭脳を鍛えるほうが好きだった。だからそろばんを友とし、ちまちました計算の世界を自分の戦場に決めたのだ。
 塾帰りだった。ランドセルには五級の合格証書が入っていた。今日、塾で先生から手渡された。合格は前から知っていたし、進級のお祝いもすんでいるが、合格証書をもらうと実感が違う。自分がひと回り大きくなった気がする。
「やったな!」と、そろばんが背中でしゃかしゃか騒ぐ。自然、足も速まる。自宅の真下まで来ると坂道から外れ、リュウは近道になる長い階段を勇んで駆け上がった。

 玄関のドアを開け、靴を脱ぎ捨ててすぐ、リュウはぎすぎすした空気を肌で感じた。高ぶっていた胸が一気にすくんだ。
「ただいま、ユリヤ」声まで沈んでしまう。
 ぎすぎすした空気の中にユリヤがいた。腕組みし、難しい顔で天井をにらんでいた。
「お帰り、リュウ」ユリヤはリュウを見向きもしない。
 スーパーの買い物袋が食料を入れたままテーブルに置いてある。ぐたっとした袋から、ネギ。白ネギが突き出ている。
「ケンシロウ、いるの?」リュウは天井を見上げた。悪い予感がした。
「いるってゆうか、引きこもってんの」
「またぁ?」
「またなんて言わないでよ。今度のは重症かも」
 ユリヤの目は天井を突き抜け屋根裏部屋を見ている。ケンシロウの書斎兼寝室。建て売り住宅の天井裏をケンシロウが日曜大工で改造した。『北斗の拳』のグッズやフィギュアであふれたそこは、いわばケンシロウの聖域だ。
 リュウは椅子に腰かけ、買い物袋に指をかけ中身をのぞいた。
「今日、塾で五級の合格証書もらった。見る?」
「入り口に鍵かけちゃって。いくら呼んでもうんともすんとも言わない」
「あ、レーズンパイ。食べていい?」
 ユリヤはいきなり両手を打ち鳴らした。ぱあんとリビングに音がはじけた。
 リュウは肩をすくめた。天井でごとごと音がした。
 白い天井に二つの赤黒い染み。以前、ケンシロウが屋根裏部屋で酔っぱらい、赤ワインをこぼして作った跡だ。その二点を両眼に見立てれば、天井に竜が浮き出てくる。雲を割って恐ろしい顔を突き出し、リュウを見下ろす。
 ユリヤの柏手が竜を召喚した。まるで鳴き竜だ。
 鳴き竜。遠足で見たことがある。お寺の天井に巨大な竜の絵があった。手を叩くと音が反響し、竜がうわんうわん鳴いたのだ。あれと同じだ。
 ユリヤに続き、リュウも手を叩いた。
「やめなさい」ユリヤが叱った。「遊びじゃないんだよ」
「遊んでないよ」
「ケンシロウにはそう聞こえるの」
 ケンシロウの足音がした。見えない竜が胴をくねらせ、天井をのたうっていた。

 夕食の仕度ができても、ケンシロウは引きこもっていた。ためしにリュウは、ケンシロウの携帯電話に電話をかけてみた。ソファの上で呼び出し音が鳴った。
 屋根裏部屋の出入り口は天井の一角に四角く切ってある。扉の留め金に鈎付き棒を引っ掛ければ、扉が開いてアルミの梯子がメカニックな音を立てて飛び出す仕掛けだ。秘密基地のゲートらしい見事な装置で、鍵さえかければ難攻不落だ。
 ユリヤは鈎付き棒を手に、なんとか扉をこじ開けようとがちゃがちゃいわせたが、首や腕が疲れるばかりで、おまけにホコリが目に入った。
「ああもう」ユリヤは鈎付き棒を投げだし目をこすった。完全に腐っていた。
「今度はぼく、やってみようか」リュウは腰を上げかけた。
「いいよもう。お腹がすいたら下りてくるでしょ」
 ユリヤはケンシロウのぶんの食料もテーブルに並べた。リュウはケンシロウのご飯茶碗を箸でちんちん鳴らした。「やめなさい」ユリヤは叱った。「仏さまじゃないんだから」
「今日、塾で合格証書をもらったんだよ」
「ああ、そうだったわね。後でちょうだい。額に入れておくから」
「今日、五級の合格証書もらった」リュウは天井に向けて声を張り上げた。
 天井は沈黙していた。ケンシロウの気配だけが重かった。
「仕事がうまくいってないの。先月に引き続き今月も売り上げゼロだって。不景気だし、世の中全体が自動車離れだし。新車が売れないのは当然って言えば当然」
 ユリヤは箸を持った手でテーブルに肘をついている。給食で同じことをすると先生は叱る。先生に叱られることをユリヤはしている。そう言おうかどうか迷って、リュウは口をつぐんだ。
「いまの若い人ってわかんないなあ。あたしが若い時なんか、自動車がない人とはデートしなかったもん。電車でデートだなんて言われたら涙が出た」
「ケンシロウはなんて車に乗ってたの?」
「真っ赤なフェアレディ。暴走族だって振り切ったのよ。あたし、暴走族の頭に投げキッスをしてやったんだから。すごいでしょ」
 ケンシロウは大学を卒業して不動産会社に就職した。地価が高騰していた時代で、面白いように土地が売れた。地価が頭打ちになるとゴルフ会員権を売る会社に転職した。景気は下降していたが、口八丁で売りさばいた。その会社が検察に睨まれていると知り、慌てて退職した直後に会長が詐欺容疑で逮捕された。次に就職したのが現在の自動車販売会社だ。ユリヤと知り合ったのもその頃だった。
 ユリヤにとってケンシロウは王子様だった。三十代前半で大金持ちだった。ローンも組まずに新築の家を購入した。そんな人と結婚したのは、女子大の同級生でユリヤだけだった。なのに今、ケンシロウは仕事に行き詰まりウツ状態だ。少なくなった収入の埋め合わせに、ユリヤはパートの仕事を始めた。
「当分は友だちを家に連れてこないでよ。わかってるわね」ユリヤは言った。
 ユリヤは五級の合格証書を、六級に重ねて額に入れ、リュウの部屋の壁にかけた。
「ケンシロウ。ちょっと下りて見に来なさいよ。リュウの合格証書を飾ったのよ」
 ユリヤは天井に向けて声を張り上げた。反応はなかった。

 彼らの家は、一階にガレージと、コミックばかりの書庫があり、二階にリビングとキッチン、リュウの部屋とユリヤの部屋がある。リュウの部屋は、元はケンシロウの部屋だった。リュウが小学校に上がるとケンシロウは部屋をゆずり、屋根裏に自分の居場所を移したのだ。まさか、その時から引きこもりを想定していたわけでもないだろうけど。
「ねえ、いつまでいじけてんのよ」深夜、ユリヤの怒鳴り声でリュウは目が覚めた。自分が叱られているように、リュウは縮こまり毛布の端を握った。
「不景気なんだから車が売れないのは仕方ないじゃない。あんたのせいじゃないわよ。あたし、あんたを責めた? お金のことで愚痴こぼした? ないでしょ。あんたがそうやってるから家の中が暗いの。空気が重いの。あたしもう耐えらんない。明日も休みたいなら休んでいいから。あたしが会社に電話しとくから。でもね、有給とるなら病院で診断書もらわないと。どの病院に行けばいい? あたし付き添うから。ケンシロウがどの病院にするか決めてよ。いい? 自分で決めてよ」
 病院って? 精神科?
 翌朝になっても状況は変わらなかった。天井にケンシロウがいると思うだけで朝食が暗くなった。ユリヤは箸を休めては溜め息を吐いた。溜め息は空中で無数のトゲに変わり、リュウの手元に降り注いだ。リュウも、うんざりした。
 夕方、学校から帰っても同じだった。ケンシロウは屋根裏部屋から下りずに、病院にも行かなかった。
「お腹すかないのかな」
「あたしがパートに出てる間にこそこそ食べてるのよ。冷蔵庫の食料、減ってるもん」ユリヤは答えた。「トイレは、そうね。簡易トイレにしてるのかも。ほら、リュウも使ったことあるでしょ。車が渋滞した時の緊急用で、袋にするやつ。いやだ、食事中なのに思い出しちゃった」ユリヤは眉間に皺を立てて笑った。
「ぼくが空手習わなかったから、こうなっちゃったのかな」
 学校にいる間に、ふとそう思ったのだ。
「バカね、関係ないじゃん」ユリヤは言った。そして天井を見上げ、「リュウがね、自分のせいじゃないかって悩んでるわよ」大声を出した。
 リュウはびっくりしてスープをこぼした。こんなこと、いつまで続くんだろ。

 五日たっても、ケンシロウは屋根裏部屋から出てこなかった。姿は見えないのに、家中がケンシロウの気配で満ちていた。家自体が、頭痛でずきずきしてるみたいだ。
 天井の染みが竜の目となり、いつでもリュウたちを見下ろしていた。竜の目は恨んでいた。リュウたちを責めていた。ぼくらの何がいけないんだろう。リュウは考えた。リュウを嫌っているのかもしれない。あるいは、家族というかたちそのものを。
 家族が壊れかけてきた。その日、学校から帰るとテーブルに宅配ピザや寿司やうな丼のチラシが載っていた。携帯電話が鳴り、出てみると、ユリヤからだった。
「一階の書庫にいるのよ」ユリヤはふて腐れていた。「あたしも引きこもるから。夕ご飯は宅配好きなの頼んで勝手に食べていいから。お財布のある場所、知ってるよね。あたしだけ損してるみたいで、もう嫌なの。泣きたいくらい」
 泣きたいのはこっちだ。リュウは電話に吠えた。地団駄踏んで吠えまくった。しかし、電話が切れてしまえば虚しいだけだった。ピザをとって食べた。泥の味がした。
 もっとも、ユリヤの引きこもりは半日も続かなかった。「ごめんね」と言って、翌朝には書庫を出て、朝食の仕度をしていた。「あたしはもう大丈夫。あたしまで病んじゃったら、リュウひとりぼっちだもんね」そう言ってリュウを抱きしめた。
 ユリヤに抱きしめられるのは何年ぶりだろう。けれど、温かい抱擁ではなかった。息苦しいだけだった。ユリヤはぼくを抱きしめているのではなくて、自分の寂しさを抱きしめているんだ。リュウはそう感じた。
 夜になって外に出てみると、屋根から突き出した明かり取りの窓に光がともっているのが見えた。屋根裏部屋の光だ。「あっ、あそこにいるんだ」と、いるのはわかっているのに、光を見ると安心した。物音は気配だけど、光は生命だ。光を見ていると、まだ間に合いそうな気がした。
 そうか、ケンシロウに会いたいなら屋根に上ればいいんだ。
 リュウはひらめいた。
 問題はどうやって屋根に上るかで、ざっと見たところ取っ掛かりになりそうなものはない。電柱も離れている。どう見ても、隣の屋根から飛び移るしかない。隣の屋根に上るにはそのまた隣の屋根に上るしかなく、そこへは坂道の上から飛び移るしかない。
 本当にできるか。転げ落ちたら死ぬぞ。でも、それしか手段がないならやるしかない。

 翌日、リュウは計画を実行した。一番目の屋根。これは簡単だった。崖崩れ防止のフェンスから車庫の屋根に移り、家の屋根によじ上ればよかった。二番目の屋根。あまり離れてはいないが、つるつるした瓦の屋根で怖かった。瓦を割ったり落としたり、自分が足を滑らせて落っこちる危険もある。しかし、ここまで来たら引き返せない。思い切って飛んだ。足が滑ったが、かろうじて雨樋につま先を引っかけた。
 三番目が目指す屋根だ。最も離れている上に、瓦屋根で助走をつけると大きな音がして家の人に気づかれる怖れがある。かといって、一足飛びで飛び移れる自信もない。地上にはスチールのフェンスがあり、落ちれば間違いなく複雑骨折だ。
 自衛隊のジェット機が飛んできた。はるか上空なのに爆音が激しく、ソニック・ブームで空気がびりびり震える。この音を利用しよう。リュウは屋根の頂上に上った。ジェット機が上空を通過する瞬間を狙い、音が立つのもかまわず一気に瓦屋根を駆け下り加速をつけて空中に飛んだ。
 成功。リュウの家はスレートの屋根だ。蛙のかっこうで屋根にへばりつき、リュウは首を上げた。ひと筋の雲を鋭く引いてジェット機は彼方の空へ飛んで行った。
 明かり取りの窓を叩いた。ベッドに寝そべっていたケモノのようなものが、むっくり頭をもたげた。リュウは目を疑い、たじろいだ。ケンシロウはまるで別人だった。生気が抜けると、こんなにも人相は変わるものか。いや、人相ですらない。のっぺらぼうに目鼻口を描いた、出来の悪いラバーマスクだ。こいつは本当に父だろうか。別人の変装じゃないのか。父と認めたくない。リュウは逃げ出したくなった。
 表情のない目に力が入り、ぐぐっと寄り目になった。それが驚きの表現らしかった。
 ケンシロウはのそのそと這い寄り、窓を開けた。一週間分の無精髭が眼前に迫って、思わずリュウは首を引いた。物が腐ったような異臭がケンシロウの体から漂ってきた。
「どうしてここにいる」抑揚のない声でケンシロウは言った。
「会いに来たんだ。話をしたかったから」
「元気だったか」
「まあね。なんとかやってる」
「ユリヤは」
「ちょっとやばいかも」
「そうか」
 ケンシロウは窓枠に顎を載せて目を閉じた。これだけ話すのも、やっとの感じだった。
「ぼく、そろばんをやめるよ。空手の道場に通う。それでいいだろ」リュウは言った。
「何の話だ」
「ケンシロウは、ぼくが空手をやらずに、そろばんなんて始めちゃったから、がっかりして生きる気がなくなったんだろ。だったらいいよ。ケンシロウの望みどおりにする。体を鍛えて強くなるから」
 しばらく、ケンシロウは沈黙していたが、唐突に「リュウはカツアゲってされたことがあるか」と訊いた。「ううん」と、リュウは首を振った。「ケンシロウはある?」
「しょっちゅう。中学と高校時代な。おれは体が弱かったから。拒めば殴られ、チクるともっと殴られ。弱いからだ。強くなればな。そのためには金。いや、ちがうな。金が力だ。大人になれば腕力なんていらない。金のあるやつが強い」
 ケンシロウはそこで言葉を切り、ひと休みした。「でも、大人になっておれのしたことって、年寄りや弱い者をいじめたり、だましたりで、金をかせぐことだ。カツアゲよりひどいや。おれがこんなになったのは当然だ。報いだ。誰かに秘孔を突かれた。七年殺し。もっと前かな。誰だろう。いまごろ利いてきた」
「死ぬの?」
「先のことはわからん。しかしな、人間いつか死ぬ。どう生きようが死ぬまでの間だ。強いも弱いもない。正しいも悪いも。あるのは好きか嫌いか、それだけ。リュウは、自分が好きと思うことをしろ。それがいちばんいい」
 それからは、二人して黙った。黙って、飛行機雲を眺めた。
 飛行機雲は逞しかった。希望なんてなくても生きていける。そう思わせる姿だった。

 ケンシロウの引きこもりは続いた。
 十三日目。夕方になってもユリヤがパートから帰ってこなかった。
 何があったのだろう。胸騒ぎを抑えながら待っていると、家の電話が鳴った。ユリヤからだ。声が震えていた。感情を押し殺しながら、どこか切羽詰まっていた。
「リュウ? お母さんよ」お母さん? ユリヤが口にすると、珍妙な言葉に聞こえる。
「いまどこ? いつ帰ってくる?」尋ねても、要領を得ない。
「お父さんを出してちょうだい」お父さん? お父さんって?
「無理だよ。知ってるだろ」
「いいから出して。無理でも引っ張り出して。お父さんでなきゃ駄目なの、早くして」
「わかった。やってみる。でもすぐは無理だよ」
「じゃあ、いい。伝言頼むわ。お母さんはいま、駅前の鈴成スーパーにいます。そこの事務所に来て下さい。いいわね。なるだけ早くしてよ」
 電話は切れた。何が起きたのだろう。でも、困っていたことは確かだ。
 リュウは柏手を叩いた。竜を召喚するために。何度も何度も叩いた。やっと、鳴き竜がどすどす鳴った。けれど、それきりだった。リュウが叫んでも、喚いても、応答はなかった。ユリヤの一大事だ、と怒鳴った。さらわれて監禁されてる、と嘘をついた。今すぐ鈴成スーパーに行かないと殺されちゃう。応答なし。励まし、罵り、金切り声を上げ、応答がないと、仕方なしにリュウは自分で鈴成スーパーへ出かけた。
 ユリヤはスーパーの事務室でしょぼくれていた。テーブルの中央に細かいお菓子が積まれていた。駄菓子ばかりだ。ユリヤの正面には水色のジャケットを着た女の人がいる。部屋の隅には、スーパーのエプロンを付けた男の人。なんだか、前に見たことがある。そうだ、テレビで見た。「万引きGメンの事件簿」。あれそっくりだ。
 ユリヤはリュウを見るなり、驚いて首をそむけた。怒りと悲しみで肩がふるえていた。
 万引きGメン、だろうか。女の人も、リュウを見て困惑していた。
「息子さんですか?」Gメンがユリヤに尋ねた。ユリヤは首を横に振った。激しく。
「この人は、お母さん?」今度はリュウに尋ねた。リュウはうなずいた。
「奥さん、息子さんがお迎えに来ましたよ」Gメンは皮肉っぽく話しかけた。「息子さんがあなたの身元引受人ですか? 子供が身元引受人とは、ちょっと困りましたねえ」
「父は病気なんです。起き上がれないから、代わりにぼくが来ました。ぼくじゃ駄目ですか」リュウは言った。
「坊やは小学生だね」隅に立っていた男の人がにこりとした。作り笑顔は醜い。嫌いだ。
「坊やじゃありません」声に、敵意がこもった。「この人の息子です」
「お母さんが何をしたか、想像つくわね」Gメンがリュウを見据えた。「はっきり言って犯罪よ。身元引受人は、犯罪者に責任を持てる人でないといけません」
「難しいことはわかりません。でも家族です」
 家族、という言葉が、自分でも意外なくらい、強く胸に響いた。犯罪者だろうと悪人だろうと知ったこっちゃない。家族なら守らなくちゃならない。そのために来たんだ。
「しっかりした息子さんじゃないですか。奥さん、こんな立派な息子さんに恥をかかせちゃいけませんよ」男の人が言った。
 ユリヤは背中を丸めて小さくなった。こんなに弱い母を見るのは初めてだった。
 あらかじめ用意してあった宣誓書に、リュウはユリヤと連名でサインし、拇印を押した。
 上下に並んだ真っ赤な指紋を見て、まるで共犯者だ、とリュウは思った。でも、これは絆だ。共犯の絆が、ぼくたち親子の絆なんだ。
「帰ろう、ユリヤ」リュウは言った。
「ユリヤ?」Gメンが冷笑的な笑みを浮かべた。「お母さんをそう呼んでるの?」
「ええ。お母さんの名前ですから」リュウは答えた。

 帰り道、ユリヤはずっと黙っていたが、人通りの少ない道まで来ると突然泣き出した。むしゃくしゃしてつい万引きしてしまったこと。子供の時から盗み癖があったこと。でも結婚してからはずっとしていなかったことを、泣きながら告白した。
 泣きじゃくるユリヤの手を引いて歩いた。通りすがりの人が変な目で二人を見た。
 見るなら見ろ。リュウは心で叫んだ。もっと見ろ。これがぼくたち親子だ。
 自宅のある丘の下まで来て、坂道をよたよたと下りてくるケンシロウを見つけた。
 スーツ姿だが、ワイシャツの裾がはみ出していたり、ネクタイの結び目がおかしかったり、スラックスなのにスニーカーを履いていたり、生まれて初めてスーツを着たホームレスみたいだ。一歩ごとに体が揺れて、今にも膝から崩れそうで、それでも、一生懸命に歩いていた。
「今頃迎えに来たって遅いよ」リュウは手を振った。ケンシロウは手を振り返した。
「かっこ悪いケンシロウ」ユリヤは泣きながら笑った。「弱っちいね」
「人間って、ちょっと弱いくらいがちょうどいいんだと思うよ」リュウは言った。
 バス停まで来て、ケンシロウはベンチに倒れ込んだ。顔が白い。二百メートルもない距離なのに、精も根も尽き果てたような顔だ。しかし、その顔には表情が戻っていた。
「すまん。なかなか起き上がれなくて」ケンシロウは詫びた。
「謝るのはあたしだよ」ユリヤはケンシロウの横に座り、背中を撫でた。「リュウがね、助けに来てくれたんだよ」
「おれも、リュウのおかげで屋根裏から抜け出せた」
 はは、と笑った。苦しみから絞り出すような笑いだった。でも本物の笑いだ。
 みっともない家族だ。でも、許し合えるから家族なんだ。人間は、みっともなさでつながることだってできるんだ。
 三人で手をつなぎ、長い坂道をゆっくりと上った。飛行機雲の消え残りが空に浮かび、夕陽を浴びていた。竜が空に帰っていく姿に、リュウの目には映った。

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なみまくら

10/07/01

なみまくら【波枕】
〔雅〕旅に出て、船の中や海岸近くの宿で泊まること。

「病気で動けないお客さんからお代をいただくのは失礼だと女将さんが申しまして」
 どう見ても八十過ぎの仲居が、大儀そうに運んできたお盆には、市販の風邪薬と吸い飲み。枕元に置いて、「そういうわけですから、このお薬はサービスということでして。はい、お代はけっこうでございます」
 仲居は出ていった。畳をすって歩く白足袋の、かかとの黒ずみが目に残った。
 吸い飲みなんて、見るのも何十年かぶりだ。理科の実験用具を思わせる、冷たく取り澄ましたガラスの容器。細く長い吸い口がにゅっと延びて、先がすぼまり。透明な水が、熱で浮腫んだ目にはつらい。
 女将の気遣いはうれしく、半面で心苦しい。客室には魔法瓶もコップもある。立って歩けないわけでもない。吸い飲みなんて置いて行かれて、このうえ尿瓶でも持ってこられたら、身体が勘違いして病を重くしてしまいそうな。ただの風邪なのに。
 とにかくも腹這いになり、吸い飲みで錠剤を飲み下す。ぬるい水が顎にたれて、タオルでぬぐう動作も、どことなく演技めく。なにごとも形から入れってことか。こうして重い病を演じているうちに、本当に動けなくなったりして。
 咳をしても一人、か。それにしてもみんな薄情な。

 海辺の町に来ていた。
 田舎の高校を卒業し、東京に本社のある電子器機メーカーに就職して、最初に配置されたのがこの町の工場だった。かれこれ三十年も前のことになる。
 先月、その工場の閉鎖が本決まりとなり、それでは見納めに行こうじゃないかと、いまは本社で役職についている同期の仲間四、五人と休暇を利用して見学旅行に出た。
 三十年前とは製作している製品も工程も違う。我々が働いていた当時は、戦時中に軍需工場だった頃の暗い影を残していたが、いまは隅々まで明るくなり近代化されていた。それはいいのだが、ベルトコンベヤの半分も稼働していなかったのは悲しかった。
 工場見学が終われば、特に観光名所のある土地ではなく、旅館に入って早めに湯に浸かり夕食をすませ、酒場を求めて夜の町に繰り出したのだが、どうやら湯冷めしたらしい。変に酔いが回ると思っていたら、朝方には風邪をひいていた。体温計を借りて測ってみたら四十度近い熱だった。
「二、三日ゆっくりしてけよ。疲れが出たんだよ。ものの本によれば風邪っていうのは身体の調節なんだそうだ。なんでも、崩れたバランスを熱を出して整えるらしいな」
「四十度の熱ならかえって安心だ。がっと上がってがっと下がるってもんだ。俺たちの年代で危ないのは微熱のほうだ。甘く見てると、こいつが重病の兆候だったりするから」
 同じ部屋で朝食を食いながら話しかけるのを寝床で聞いていた。虚ろに笑いながら応じていたが、彼らがどやどやと次の目的地へ出発してしまうと、悪寒の走る身体に寂しさが迫り、天井は高くなり、畳も広くなり、さすがに心細くなってきた。
 そこへ、年老いた仲居が風邪薬を持ってやって来たのだった。

 旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる、と芭蕉の辞世の句ではないが、旅先で病むと魂が離れやすくなることはあるのかもしれない。熱に浮かされた心が夢に見るのは枯れ野ではなく、三十年前の海だった。
 海辺の町といっても、三十年前とは様変わりし、海は遠くなっていた。
 変われば変わるものだ。夏は海水浴でにぎわい、冬は冬で釣り船が出ていた海は埋め立てられ、工場地帯に変貌していた。
 国道の向こうがすぐ砂浜だった。砂浜が消えたいまも防砂林は途切れ途切れに残り、国道のこちら側で、アカマツと白砂の公園となって海辺の風情を濃くとどめているのは、海そのものが見えないだけに妙なものだった。
 旅館はその公園の隣にあった。大正時代から続く老舗旅館だというが、我々の誰も、この旅館を覚えてはいなかった。田舎出の少年職工にはまるで縁がなかったからか。人の記憶とは身勝手なものだ。土建屋の資材置き場なんかを懐かしがって、門構えも立派な老舗旅館をみながみな忘れて、こんな建物があったのかと首をかしげたくらいだ。
 商店街もさびれていた。工場地帯のおかげで町の人口は増えたはずなのに、町を歩いているのはジジババばかり。未成年の身で遊んだ裏路地の飲屋街も殺風景になり、形ばかり看板が出ているものの、どの店が開いていてどの店が閉まっているのかもわからい有り様だった。昨夜は、懐かしさの置き所が見つからないままさまよい歩いた。見覚えのある看板を見つけて飛び込んでも、店の中はすっかり変わっている。酔いの勢いでやけくそになり、何年も前から閉じたままのようなシャッターを叩き、身も世もないような声で昔の女の名を呼んだりしていた。

 あの錯乱が鎮まらないまま病熱に変わったのか。五十近くになって年甲斐もない。
 薬を飲んだ後は、開き直って病人に徹した。こうなったからには、むしろ病を寝床に根付かせるくらいの覚悟で寝込んでやろうと、汗ばみながら、ひたすら目を閉じていた。
 しばらくして、さっきの仲居がまたやって来た。今度は水枕を抱いている。
「お休みのところすみません。どうですかご気分は。女将さんがね、これを持って行きなさいと申すもので」
「水枕ですか。なんだか懐かしいな」
「今の若い人はあまり使いませんでしょう。冷えぴたシートっていうんですか、私の孫も熱を出すとあれを額に貼りつけまして。ええ、便利ですが無愛想なものです」
「女将さんはずいぶん親切な方ですね」
「昔は長逗留のお客さんが多かったので。都会から療養に来るお客さんもいましたし」
「女将さんはこの土地の人ですか」
「ここの箱入り娘ですよ。他所の土地に出たことは一度もなかったでしょうね。お婿さんは早くにお亡くなりになって、それからは女手ひとつで。はい、どうもすいません頭をお上げになって。はい、けっこうでございます。これで少しはお楽になるでしょう。ではでは。ごゆっくりお休みくさだいまし」
 頭を動かすと水枕の中で氷が揺れて、ガバリと音がした。熱を帯びた目蓋の裏で、凄惨なくらいに白い波がしらの幻影が浮かび、砕けながら落ちていった。
 水枕ガバリと寒い海がある
 と、西東三鬼のあの有名な句が、頭にあったらしい。
 水枕の冷たさが後頭部に染みてくる。ゴムを通して頭に当たるごつごつした感触からして、冷蔵庫の製氷器の氷ではなく、かち割りの氷らしい。頭を動かすたび、氷のこすれ合うくぐもった音が鳴る。たすきがけの女将が、ぶ厚い氷に千枚通しを振り下ろし砕いていく、勝手なイメージが浮かんだ。
 昔、実家に冷蔵庫がなかった時代、子供が熱を出すたび母親が近所の氷屋から氷を買ってきて台所で砕いていた。その姿が女将に重なったのだが、いま時そんな手間をかけずとも、かち氷くらいスーパーでも売っている。
 女将の姿は昨日、玄関のロビーで我々一行に挨拶をした姿を見たきりだ。我々より十は年上か。色白で、目元のきりりと引き締まった美人だった。どこかで見た顔だと思った。しかし旅館の存在自体を覚えてないのに女将を知るはずがない。三十年前なら三十歳前後だろうか。当時を思い返しても、彼女との接点があるとは思えなかった。

 熱にさいなまれ、あえぎながら、眠りに沈み、また浮き上がり、うつらうつら時を過ごした。昼には粥をすすり、また薬を飲み、水枕を換えてもらうと、ガバリという氷の音は新鮮な響きを取り戻し、頭の中にまた海が現れる。消耗した身体を削るように、波がしらはいっそう鮮烈に、残忍なほどの凄まじさで打ち寄せてきた。
 しかし、どうしようもなく衰弱しながらも、案外、身体の核の部分に潜んでいた艶めいたものが、防御を解かれて露わになったりするものだ。病の底から頭をもたげてくる情欲は、それ自体が病のようなものだった若い頃の性欲と、同質のものかもしれない。
 この町で働き始めた当時、我々はまだ女を知らず、獣めいた性欲を持て余していた。いつ暴れ出すかもわからない。かくなる上はしかるべき店で女を買うしかないと夜に宿舎を抜け出し、砂浜で車座になって話し合った。職場の先輩から聞き集めた情報をもとに、どの店に行くか議論し、腹を決めて立ち上がった。
 防砂林を抜けながら、偶然、交尾している猫に出くわした。あられもない姿を目の当たりにして、急に羞恥心が込み上げた。そんなつまらないことまで覚えている。
 初めての女性はだから、本職の女性なのだった。伊豆大島の、波浮港の生まれだと言っていた。『伊豆の踊子』のモデルも波浮港の生まれなんだと、まるで親戚のように話していた。縁で結ばれた相手でもないのに、肉付きから肌触りまで覚えている。
 女は、死ぬと初めての男に手を引かれて三途の川を渡るのだと、聞いたことがある。男が先に死ぬと決めてかかっているのだから、考えてみれば理不尽な話だ。
 女が先に死んでいた場合はどうなのだろう。男は、初めての女に手を引かれて三途の川を渡ってはいけないのだろうか。それとも男はみな、先導なしでとぼとぼ三途の川を渡らねばならないのだろうか。

 埒のないことを考えているうち、部屋は翳っていた。起き上がり、窓を開ける。国道をまたぐ歩道橋を渡り、工場から帰っていく労働者の群が見えた。
 ふらつく足で階段を下り、ロビーの電話を借りて妻に連絡を入れた。泊まり客は自分だけと聞いていたが、旅館の中はなにやら慌ただしく、宴会の準備をしているようだった。工場関係者のお偉い方が集まるらしい。さびれながらも、こうした宴会などでこの旅館はもっているのだろう。
 電話を終えて腰を上げる。事務室のドアが開いて女将が出てきた。メモ書きのようなものを手に調理場へ急ぐ様子だったが、こちらに気づいて足を止め、軽く頭を下げた。
「ご気分はいかがですか。お薬はお体に合いましたでしょうか」
 何があったのか。かすかに眉をひそめた微笑に、背筋がぞくりとした。
「おかげさまで。けれど、なかなか熱は下がりません」
「水枕はいかがしましょう。あまり冷やしすぎると返って良くないといいますが」
「お願いします」
「夕食はまたお粥にしましょうか。それとも精のつくものを」
「お粥で」
「かしこまりました。これから少々騒がしくなりますが、ごゆっくりお休みください」
 ゆったりとした物言いながら、芯にはぴんと張り詰めたものがあった。

 夕食の粥を運んできたのは老女の仲居ではなく、忙しい時だけ手伝いをする近所の主婦と思える人で、無愛想に用事をすませ、さっさと出ていった。水枕を換えたのも同じ人だった。
 薬を飲んでからトイレに立ち、部屋に戻れば、寝汗に湿った蒲団が身体の形のままに皺寄り、寝ていた本人よりも生々しく、身悶えしているようで、その醜悪さに目をそむけ、枕元を素通りして窓際の椅子に腰かけた。咳き込みながら煙草に火をつける。窓を開ければ、黒々とした松林の向こうに、工場のタンクや煙突が妖しい色で夜陰に浮かんでいる。夜風は微かに潮の匂いをふくんでいた。
 ひと昔前の流行歌を歌う声が真下の宴会場から立ち上ってくる。その歌声に誘い出されて、三十年前、浜辺で焚き火を囲み仲間と歌った春歌が甦ってきた。打ち寄せる波に向かい、歌うというより叫んでいた。くるぶしを舐める波の泡にも欲情した。若かったとはいえ、あられもなく卑猥な歌を、よくも大声で歌えたものだ。

 夜更けにふと、目覚めた。後頭部の冷ややかさに、水枕と違う感触があり、見上げれば青白い女の顔があった。いつの間にか膝枕をされていた。固く閉ざした太腿の間に、自分の後頭部がある。それにしても、この冷たさはどうしたことだ。
 誰なのだ。顔を確かめようとして仰向けた目を、覆うように女の手が下りてきた。その手もまた、冷ややかだった。
 誰の手だろう。不明のまま、懐かしさが瞼に染みてくる。
 波音が、くっきりとした輪郭をもって耳に迫る。ひたひたと、着物の裾を広げるようにして、さざ波が部屋の中に及んでくる。
 いや、女の身体を中心に、さざ波は四方に広がるような。女の身体から波は立ち、広げてはまた引き寄せるような。
 気がつけば、膝枕をされたまま夜の海を漂っていた。女の手を透かして満月が見えていた。