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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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をや

2012/07/09

をや
〔雅〕①〔格助詞「を」+副助詞「や」〕その動作・作用の及ぶ対象を特に強調して示す。②〔終助詞「を」+終助詞「や」〕感動の気持をこめて文を終始することを表わす。③〔終助詞「を」+副助詞「や」〕比較的程度の軽い前件と対比して、後件は問題なく成立することを表わす。

 「日本の文学は言文一致体になって頽廃しました」
 なに言ってんだよ。意味わかんねえよ。
 俺はよ、小説の書き方を教えるっつうからこの授業をとったわけ。「小説創作科」っていったらそういう意味だろ、ふつう。俺はライト・ノベルの作家になりてえんだよ。いじめられっ子がふとしたことで特殊な能力を身につけ謎の美少女に助けられながら冒険するっていう、そういう夢あふれる小説のね、ストーリーはできてんだけど文章にできねえから勉強しようと思ってこの授業とったんだけどおい、おいおい、あれが先生かよ、どこの老人ホームで見つけてきたんだよ。ったく、てめえは遺書の書き方でも教えてろっての。俺はファンタジー大賞を狙ってんだからさ。
「いわゆる口語体。これがいけません。日本語が本来持っていた艶、色艶の艶ですね、この艶が口語体の登場で失われてしまいました、永遠にです」
 でさ、俺のはさ、ただのファンタジーじゃないわけ、深いんだよ、ちゃんと。ある王国のね、お姫様が革命軍に拉致されてね、それで主人公が助けに行くわけだけど武器が足りなくてさ、それで盗賊一味と手を組もうかって話になるんだけど盗賊って悪人じゃん。そこで主人公は悩むわけ。正義とはなにか、とかね。そっから先はいま考え中だよ。
「たとえばです。『善人なほもちて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』この言葉を現代文に訳してごらんなさい。ほれ、そこの君」
 うわっ、びっくりした。一瞬指されたかと思った。隣の席だったよ。紙一重でかわしたってやつだね。次、俺くんなよ。後ろにいけ後ろに。間違っても右くんなよ。あ、よし、後ろにいった。とうぶん安泰だな。しかしまあ、小説家になりたいって奴は馬鹿ばっかりなんかな、高校のとき習ったろ、有名だぜこの言葉。親鸞だよな、たしか。あれ、違ったっけ。法然だっけ。日蓮は違うよな。日蓮はナムミョウホウレンゲキョウだもんな。
「ああ、駄目ですね。ぜんぜん駄目です。現代文に訳しては、どうしても親鸞の思想は伝えきれません」
 ああ、やっぱ親鸞でよかったんだ。頭いいよな俺って。それよっか俺の小説だよ。主人公が盗賊と手を組むかだよ。わははは、正義のためには悪に染まることも必要なんだよ。お、いいねこのセリフ。忘れないようノートに書いておこ。
「いいですか。重要なのは『いわんや悪人をや』の『をや』です。この二文字に親鸞の思想が凝縮されているといっても過言ではありません。そこの君、『をや』を現代語にしてみなさい」
「え、俺?」
「『をや』をどう訳しますか?」
「いや、違うだろ。順番でいったら次あいつだろ。なんでいきなり俺を指すんだよ」
「なにを言っているのですか、あなたは」
「だから順番が違うだろって言ってんだよ。あいつが答える番なんだよ」
「ああ、もうけっこうです。わかりました。もうあなたを指しません。永遠にです。だからご安心ください」
 なにが永遠だよ。老い先短いくせに。てめえの永遠はあと四、五年ってとこだろ。それよっか俺の小説。あれ? わははは、の次なんだっけ? なに書こうとしたんだっけ? わははは、いわんや悪人をや。違うな。くそう、先生が急に俺を指すから。
「君の名前は?」
「は?」
「君の名前を聞いているのです」
「うっせえんだよ、このジジィ」
 うわっ、軽く押しただけなのにすっ飛んじまった。死んでねえよな。あ、生きてる生きてる。よかった、あやうく殺人犯になるとこだったよ。小説のためなら先生も殺すってね。悪人だな俺は。善人だって小説を書く、いわんや悪人をや、だよ。

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