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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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れいよう

2012/05/01

れいよう【羚羊】
ウシ科の哺乳類のうち、一般に鹿に似て走るのに適した体型を持つ一群の動物の総称。種類が多い。主にアフリカの草原にすむ。草食性。アンテロープ。〔「かもしか」の意の漢語的表現としても用いられる〕

 小学三年生のとき、わたしは東京の叔父さんの家に引き取られました。品川区というところで、近くに競馬場があります。風向きによっては馬と干し藁のにおいが窓から流れてきます。
 わたしが生まれたのは静岡です。ある日、「引っ越しをする」とお父さんがいい出し、家の中にあるものをすっかりトラックに積み込みました。ほんとに、なにもかもです。「すぐ迎えにくるから」と、お父さんとお母さんはトラックに乗り、わたしを置いて出ていきました。それきりでした。わたしはからっぽの家に取り残され、夜になると畳の上で寝ました。次の日の朝、目を覚ますと、お父さんが庭先に立っていました。でもそれは寝ぼけまなこの見間違いで、本当は東京の叔父さんでした。「お父さんお母さんは?」ときいたら、「死んだ」と叔父さんはいいました。それでわたしは叔父さんに引き取られることになったのです。
 夏でした。東京の学校にはクーラーがありました。どの教室もぜんぶです。それがいちばんびっくりしたことでした。静岡の学校では窓から海風が入ってきて、白いカーテンがふわっと浮いたりしたものですが、東京の学校は窓を閉めきっています。クーラーの効いた教室は涼しいけれど、空気は死んでいます。勝手に窓を開けると叱られます。先生にではなくて教室のみんなにです。
 静岡の学校では紙飛行機を折って窓から飛ばすいたずらをよくしました。東京の学校ではほんものの飛行機が窓の外を飛んでいるので、最初のころはめずらしくて、よく授業中に空を見ていました。先生がいうには、わたしは「うわの空」なのだそうです。わたしの席は窓ぎわのいちばん前にあったのです。「うわの空子さん」と先生はわたしにあだ名をつけました。みんなが笑って、わたしは赤くなりました。少しほっとしました。あだ名で呼ばれて、わたしはやっと、みんなの仲間入りができたような気がしました。
 あれは、夏休み前のことです。算数の時間で、先生は黒板に分数の式を書いていました。カツカツいうチョークの音も、メトロノームのように聞こえて、なんだか眠気をさそうようでした。
 わたしはまたうわの空になって窓の外に目をやりました。
 誰もいない校庭はしずかで、まひるのひざしが照りつけて、地面がこんがりとしたパンケーキのようでした。
 そこに、一頭のカモシカがひょこひょこと現れたのです。カモシカはまだ子どもみたいでした。頭に生えている二本のツノがちっちゃかったからです。
「あ」
 わたしは声をあげてしまいました。みんなが笑いました。
「どうかしましたか、うわの空子さん」
 先生がきつい目でわたしをにらみました。
「でも、校庭にカモシカが」
 先生はつかつかと窓ぎわに寄って、ひょいと首を伸ばしました。先生の首すじに青い血管が浮き出ました。指でつまめそうなくらい太い血管です。
「あれはカモシカではありませんよ。インパラという、グウテイもくウシ科の動物です」先生はいいました。「テストには出ませんが」ひと言つけくわえると、みんながどっと笑いました。
 インパラなんてめずしくもないというようすでした。
 でもここは東京で、大きなビルが学校のまわりを囲んでいるのです。あんな動物がどこでどうやって生きていけるのか、不思議でなりませんでした。
 インパラは校庭のまんなかあたりで足を止めました。ひろびろとした校庭に、ぽつんと落ちた影がやけにくっきりとして、まるで焼け焦げのようでした。前脚で地面を掻き、土のにおいをかいだりしていましたが、もちろん食べる草なんてありません。群れからはぐれたのでしょうか。インパラは、とてもかよわく、ひどく頼りなげで、神さまの子どものようにひとりぼっちです。やがて首をすっと伸ばし、耳をひくひくふるわすと、それきり動かなくなりました。まわりの静けさを全身に集めて、じっと気配をうかがっています。なにか、危険がせまっているのでしょうか。青空はつるんとした大きなレンズのようで、太陽の光を集め、インパラの体の毛がちりちりと焦げていくのがわかります。
 とつぜん、インパラはぴょんと跳ね上がり、地面を蹴って駆け出しました。いつの間にか、すぐ後ろをライオンが追いかけていました。それは、本当に、なにもない所からいきなり現れたのです。
「あ」
 わたしはまた、大きな声をあげてしまいました。おまけに机を揺らしてしまい、がたんと大きな音を立ててしまいました。今度は誰もわたしにかまいませんでした。わたしなんかいないかのようでした。
 金色のたてがみが風を巻き込み、ライオンはインパラを猛烈に追いかけます。乾いた地面に土ぼこりが舞い上がります。
 身軽なインパラは、右から左へじぐざぐに走ってライオンの追跡をかわそうとします。ライオンのするどい爪が前に伸びては、あやういところで空を切ります。大きな柳の木をめぐり、ひまわりの花壇を飛び越え、鉄棒から吊り輪へ、すべり台からブランコへと必死に逃げ回りますが、ライオンを引き離すことはできません。バックネットの前に追い詰められるとインパラはふり返り、飛びかかってくるライオンの頭上をジャンプして飛び越えました。後は死にものぐるいで、一直線に校庭を横切っていきます。ライオンの力強い走りはいっこうに衰えません。見る見るうちにライオンとの距離は縮まっていき、ライオンの前脚がインパラのお尻を引っかくと、とうとう校庭のまんなかで横倒しにされました。
 わたしは目をそらしました。空を蹴ってひくひくするインパラの後ろ足が、目に焼きつきました。教室の中が変に薄暗く感じられました。先生の質問する声も、答える子どもの声も、みんな遠のいていきました。わたしは机につっぷしました。ライオンが肉をむさぼるむしゃむしゃいう音が、耳のすぐ後ろで聞こえてなりませんでした。
 放課後になって、わたしは校庭に出ると、インパラが食べられた所まで歩いていきました。けれど、どこを探しても、骨どころか一滴の血も落ちてはいません。
 わたしのまわりにはたくさんの子どもが飛び跳ねていました。
「ねえ、ここでインパラの子が殺されたんだよ」わたしは大声をあげました。
「本当だよ、本当に殺されたんだよ」
 こたえてくれる子は誰もいませんでした。

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