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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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れんれん

2012/05/01

れんれん【恋恋】
異性に対する恋慕の情を思い切れない様子だ。

 I wont you! I need you! I love you!
 校庭ではブラスバント部のトランペットがAKB48の「ヘビーローテーション」を吹き鳴らし、教室の隅であたしはファッション雑誌をめくりながら口ずさんでいた。まあ、別に、この歌が好きというわけじゃないんだけど。すると勇雄が勢いよく窓を開け放ち「うっせえんだよ、そのラッパいますぐ止めろ、止めねえとラッパに納豆つめるぞ、ばーか」と怒鳴り散らしたので、あたしも小声で「ばーか」と続けたけど、その「ばか」はトランペット吹きに向けた「ばか」ではなく勇雄に向けた「ばか」だった。
 勇雄は、赤く染めた毛を短く刈り込んでいる。
「あ? いまおれにばかって言ったか」
 勇雄は振り向いた。ばかなやつほど、やたら耳がいい。
「そうよ。だってばかなんだもん」
「ばか言うやつがばかなんだぜ」
「あんたが先にばかって言ったの。その口に納豆つめてやろうか、ばーか」
「うっせえ、ばか」
 「ばか」のローテーション。ばかとの口喧嘩ほど不毛な争いはこの世にない。
「ええ、そうです。あんたに指摘されるまでもなく私はばかです。ばかでなきゃどうしてあんたとふたりで世界史の追試なんか受けますか」
「言っておくがな、おれはおまえのせいで追試を受けるはめになったんだからな」
「あら偶然ね。あたしが追試を受けるはめになったのもあんたのせいだし」
「それにしても先生おっせえな。おまえ職員室に行って呼んでこいよ」
「あんたが行けば? 少々遅れたって、あたしはどうせ予定ないし」
「おれは大ありなんだよ。追試なんてさっさと終わらせて帰りたいんだよ」
「麻里奈とデートでしょ。知ってる? あいつ智也とも付き合ってるんだって」
「だからどうした。おまえに関係ねーだろ」
「バイト先の店長とも付き合ってるんだって。三十過ぎのおっさんだよ。すごい趣味」
「知るかよ。おれに関係ねーよ、そんなの」
 あ、動揺してる。あたしはさらに追い詰める。
「あんた、やらしてくれって土下座して麻里奈に頼んだんだって? しかも裸で」
「あ? 裸じゃねえよ」勇雄は口ごもった。
「じゃあ土下座はしたんだ」あたしは笑った。
「してねえよ。誰から聞いたんだよ」
「麻里奈が言いふらしたに決まってんじゃん」
「あの嘘つき」勇雄はいきり立って床を踏み鳴らした。
 でも、本当の嘘つきはこのあたしだ。あたしが彼女から聞いたのは、お願いだからやらしてくれと勇雄が手を合わせて麻里奈を拝んだという話で、裸と土下座はあたしが即興で盛り込んだ創作だ。でも、やらしてくれと彼女頼んだのは本当らしい。情けない。あんまり情けなくって涙が出てくる。
「結局させてもらえなかったんだよね」
「今日だよ、今日で決まりなんだよ。くそう。おまえがおれの消しゴムを盗むから」
「ごちゃごちゃいっぱい書いてあったけど、あれ、ほとんどヤマは外れてたからね。あんなの見たって同じこと。あんたは落第点を取って追試を受けてたのよ」
「ばっかだな。ちげえんだよ。消しゴムはカンニングっていうよりお守りなわけ。持ってれば安心できんだよ。小細工した消しゴムを持ってるつうだけで頭の血のめぐりがよくなってぐんぐん問題が解けるわけ。一種の心理的効果ってわけ。消しゴムに書いたことが使えなくたって役には立つんだから」
「あの程度のテストにお守りが必要?」
「お、言ってくれるね。じゃあ、カサエルがルビコン川を渡ったのは何年?」
「BC四九年。ちなみにカサエルじゃなくてカエサル。誰よカサエルって。傘得る? 雨に降られてずぶ濡れになってたら親切な誰かが傘を貸してくれたの? よかったわね」
「ばかにしやがって。おれの消しゴムを盗んでカンニングしたくせに」
「あんな、役立たずの消しゴム」
「休み時間に必死で書き込んだのによ」
「トイレに行くなら消しゴムを隠してから行くべきだったわね」
「まさか盗まれるなんて思わないだろ」
「盗んでなんかいないでしょ。代わりの消しゴムを筆入れに入れておいたでしょ」
「あんな、バナナの形した消しゴム」
「あんたの消しゴムよりはましよ。あんな耳なし法一みたいな消しゴム」
「盗っ人がえらそうに」
「じゃあ先生にそう言えば? あの消しゴムはぼくのですって。こいつに盗まれたんですって。言っておくけどね、もしあんたがカンニングして見つかったら追試じゃすまなかったのよ。ねえ聞いてる? あんた自覚してんの、自分が崖っぷちだってこと。ちょっと肩を押されただけで崖の下に真っ逆さまよ。それくらいやばいのよ」
「知ってるよ。だからあのテストは大事だったの。だから念入りに小細工したのに。おまえもさ、おれの消しゴムでカンニングしようってんなら慎重にやれっての。先生が後ろに立ってんのも知らずに、おれの消しゴムをぼけっと見ていやがって」
 ああ。それだけは悔やまれる。どうしてあたしは勇雄の消しゴムをぼんやり眺めていたのだろう。完璧に書けたテスト用紙を裏返して、つい油断したのだ。
「カンニングと違う。ことわっておくけど、あたしは自力で満点だったの」
「でも、おれの消しゴムを見てたんだろ」
「ぜんぶ書き終わってテスト用紙は裏返してたの。あんまり暇だったもんで、つい」
「つい、じゃねえよ。もし消しゴムの字がおれの字だって先生にばれたら」
「だから、あたしが書いたって言い張ったじゃない」
「先生は疑ってるぜ」
「信じたわよ。あたしが追試になったのがなによりの証拠よ」
「カンニングが見つかったらふつうは停学だ」
「初犯だから大目に見たんでしょ。前科のあるあんたと違う。どっちにしても、あたしが黙ってればあんたの消しゴムだってばれないから」
「恩に着せるくらいならばらせよ。そのほうがいっそすっきりする」
「だから、あんたは崖っぷちなんだって。停学がただの停学じゃすまなくなるんだから」
「あ、退学はまずいな」
「でしょ。あんたがよくても親が泣くよ」
「しかしさあ、ミステリーだよな。おれは消しゴムをおまえに盗まれたおかげで追試になって、おまえはおれの消しゴムを盗んだおかげで追試になって、ふたりして放課後に残されちまうんだもんな。悲劇だよなあ」
「それのどこがミステリーよ、ばか」
 あたしの悲劇は勇雄と幼馴染みであることに始まるのだ。どうしてよりによって、こんなばかと。
 あたしは呆れ返って話をするのも嫌になり、再びファッション雑誌をめくり始めた。
「しかしおっせえな先生のやつ。ひょっとしておれたちのこと忘れて家に帰ったんじゃねえのかな」
「まさかでしょ」しかし、そのまさかかもしれない。
 着信音が鳴り、携帯電話を開いた勇雄は、メールになにが書いてあったのか「うがあ」と変な叫び声をあげ、「だめだ、これ以上は待ってらんねえ。おれ先に帰るから。先生が来たらよろしく言っといてくれ」と、鞄をつかみさっさと教室から出ていった。どうせ麻里奈からのメールだろう。ふられるために会いに行くのだ。そして思いっきり後悔するがいい。知るか、あんなやつ。奈落に落ちろ。
 あたしはひとり教室に残された。先生はなかなか来ない。永遠に来ないかもしれない。ああ、自分がばかみたいだ。
 I wont you! I need you! I love you!
 校庭ではブラスバント部のトランペットが「ヘビーローテーション」をしつこく吹き鳴らしている。なにさ、AKBなんて。よく見りゃブスばっかじゃん。
 あたしは雑誌を置いて立ち上がった。窓をがらっと開き校庭に向かって大声で叫んだ。
「うっせえんだよ、この下手くそ。ラッパに納豆つめるぞ。なあにがアイラブユーよ、このばっかやろう」

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