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谷隆一の「僕だってこんな本を読んできたけど…」

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『壊れる日本人――ケータイ・ネット依存症への告別』 柳田邦男

2009/11/27

モニターの心拍数ばっかり見て、死にゆく人の顔は見ない…
機械依存症の日本人、ディズニーランドにはケータイ持ってくるな!

東京ディズニーランドでは、見えないものがあるんです。尊敬する経済評論家の伊藤洋一さんがおっしゃっていました。そして、つい先日、実際に行って確認してきました。

確かにない。ありませんでした。電線が。

それはもう徹底していて、駐車場からも電線が見えませんでした。さすが、年間2500万人以上を集客する日本一のテーマパーク。「夢空間」を作るために、そのぐらい徹底して取り組んでいるのだそうです。

それなのに......。その日、園内のとあるアトラクションで40分待ちの行列に加わっていた際、私のすぐ後ろに並んでいた40代くらいの女性が、突然、携帯電話で話し始めたんです。それも、保険の営業の方のようで、かなり具体的な金額や条件なんかを大胆に口にするんです。正直、興ざめですよ。

そりゃ、待っている時間をどう使おうと自由ですよ。そもそも、他人の電話に耳をそばだたせるな、と"逆切れ"されるかもしれません。でもね......、そりゃあルール違反ですよ、やっぱり。私だって経営者の端くれで、いつ大事な電話がかかってくるか分からない毎日を送っているわけですが、それでも(というか、だからこそ)遊ぶときは遊ぶ、と決めて、携帯電話はあえて自宅に置いていくようにしているんです。それなのにすぐそばで仕事の話をされたら、私だって、自分の仕事を思い出しちゃうじゃないですか。でも、言っちゃ悪いけど、よほどのVIPでもなければ、半日くらい電話がつながらなくてもどうってことないでしょ?

なんて思っていたところ、書店で平積みされていた『壊れる日本人』(新潮文庫)を手に取りました。見出しに惹かれただけですが、柳田さんの著書だし、信頼して即購入。一気に読みました。

著作自体は月刊誌『新潮45』で2004年に連載されたものらしく、長崎県の小学校で起きた小学6年生の少女による同級生殺人など、当時、世間を騒がせた子どもの事件、生態、電子メディアをめぐる環境などがレポートされています。その中身はともかくとして、柳田さんの視点は「得るものがあれば、失うものがある」として、現代のケータイ依存、テレビ、ネット漬けを憂い、その一方で、日本語や方言の復権などを取りかかりに、言うなれば情操教育に目を向けていきます。

特に印象的だった指摘は人が死ぬ場面の描写で、柳田さんは、「死期に立ち会いながら、人はモニターを通して死を知る」という何とも象徴的なことを書きます。以下、本文から抜粋します。

「いよいよ死期が近づくと、病室に詰めている家族の眼は、どうしてもモニターに向けられてしまう。心拍数が減り、心拍の波形がだんだん平坦に近づいてくると、家族の眼はモニターに釘づけになる。患者の枕許で手を握り、顔を見つめて、別れの言葉をかけるという、古来誰もがやってきた大事な別れの行為を忘れているということに、誰も気付かない。そして、心拍がなくなり、波形が平になり、医師がご臨終ですと言うと、家族はようやく《ああ、死んだのだ》と思い、死者のほうに顔を向けることになる」

確かに私たちは、機械に依存し過ぎ、大事なものを見失っているのかもしれません。

そんななか、柳田さんが提唱するのは、ノーケータイデー、ノーテレビデーです。週に1日でも、携帯電話やテレビを使わない日を作ろうと訴えます。

一応付記しますが、柳田さんは、携帯電話やネットの便利さを認めています。そのうえで、便利さの代償で失うものがあるから、それを取り戻す日を作ろうよというわけです。私に言わせれば、テーマパークに携帯電話を持ち込むな! ということですね。

ちなみに同書には、「再生編」もあるようです。この正月には、テレビを消して、ぜひそれを読んでみようと思います。

※冒頭の伊藤洋一さんの発言については、記憶で述べています。文献等を確認しているわけではありません。万一、誤りでしたら、ご指摘ください。

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