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	<title>Stand &amp; Fight! スタンド・アンド・ファイト - 志賀泉の「新明解国語辞典小説」アーカイブ</title>
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	<updated>2010-07-15T12:08:12Z</updated>
	<subtitle>スタンド・アンド・ファイトは、市販の書籍から企業のＰＲ媒体、ウエブサイトの編集記事まで、いろいろなかたちの「コンテンツ」を制作する会社です。トップメッセージ制作、ブランドブック（社史）制作、パノラウンドムービー（QTVR）制作なども提供します。</subtitle>
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	<title>にげみず</title>
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	<published>2010-07-15</published>
	<updated>2010-07-15T03:08:12Z</updated>
	<summary> にげみず【逃（げ）水】 夏の草原やアスファルト道路などで、遠くに水があるように見え、近づけば、遠退いて見える現象。 　逃げ水については、あまり書くことがない。 　子供の頃、逃げ水を見るのが好きだった...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>にげみず【逃（げ）水】<br />
夏の草原やアスファルト道路などで、遠くに水があるように見え、近づけば、遠退いて見える現象。</p></blockquote>

　逃げ水については、あまり書くことがない。
　子供の頃、逃げ水を見るのが好きだった。と、これだけで良さそうな気がする。
　大人になった今でも好きだ。事情が許すなら、いつまでも眺めて、きっと見飽きない。
　なぜ好きなのか、問われても困る。あれが蜃気楼だという知識くらいあるから、格別に不思議とは思わない。
　たぶん、逃げ水という現象だけでなく、逃げ水が現れる状況、つまりかんかん照り、乾いたアスファルトの道、静かな気配、それに加えてぼうっと立っている自分もひっくるめて、全体が好きなのだと思う。
　逃げ水を見ている時の自分は、だいたいぼうっとしている。暑さにやられてぼうっとした目に逃げ水が見えてくるのか、逃げ水に心を吸われてぼうっとしてしまうのか、どちらとも言えない。気がつくとぼうっとしている。
　逃げ水が好きというより、逃げ水を眺めている時の、心がからっぽの状態が好きなのだろう。夏の光に炙られながら、遠い一点をじっと見つめていると、空気が希薄になり、景色が平板になり、物音が遠くなる。気を失いかける直前の感覚に近いものが、現れる。

　今日も逃げ水を見た。
　地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅を上がると、新宿通りと外苑東通りが交わる交差点に出る。交通量の多い新宿通りに比べると、神宮外苑に向かう外苑東通りの道はたいてい空いていて、真昼時となると、やたら幅の広い道がすっからかんになることもある。
　朝方、その交差点の横断歩道を渡った時には、逃げ水はなかった。
　正午を過ぎて陽射しがきつくなり、汗ばみながら、同じ横断歩道を逆向きに渡っていると、神宮外苑のほうから救急車のサイレンが聞こえてきて、振り向いたら、陽の照り返しで白っぽくなった道に、逃げ水が現れていた。警告灯の光を逃げ水に映しながら、救急車は逃げ水を踏んで走ってきた。
「おっ」と心の中で思う。思っただけで口には出さない。
「救急車が来る」と、いっしょに歩いていた同僚に見たままのことを言うが、逃げ水のことは黙っている。同僚も「そうだね」としか言わない。同僚の目に逃げ水が見えているのかわからないし、たしかめようとも思わない。
　一般に人は逃げ水が見えてもそれを口にしない。なぜなのだろう。
　たとえばこれが、砂漠の地平線に浮かぶオアシスだったり、水平線の浮島だったりしたら、きっと話題にする。なんとなく得した気分になるからだ。なのに同じ蜃気楼でも、逃げ水に関してはみな黙っている。見ていないような態度をとる。
　ありふれた現象なのに、ことさら不思議がっているようで、大人げないと思われそうだからか。でも、子供の頃だって言わなかった気がする。なぜだか、口にしてはいけないような感じだった。

　文芸作品にも、逃げ水はあまり出てこない。少なくとも私は読んだ記憶がない。「逃げ水」は夏の季語だが、逃げ水を詠んだ俳句にいいものがない。追いかければ逃げるだの、逃げ水にあの世が垣間見えるだの、たいてい陳腐だ。
　夏の光の中で、目に見える風景が薄っぺらくなり、その中で逃げ水だけが妙にぎらぎらと、見ているこちらに切り込んでくる。あの鮮烈な感覚を、よけいな意味や象徴をともなわずに、そのまま取り出せないものか。
　芥川龍之介に『蜃気楼』という小説がある。あれは海の蜃気楼を見に行く話だ。芥川の精神が相当病んでいた時期の作品で、たしか、人の無意識には何があるかわからないとかいう内容の、つかみどころがない、無気味な話だった。あの小説は好きだ。たぶん、海、という舞台がよかったのだろう。

　見る、という行為は、ただ眼前の光景を見ているだけではなくて、脳に記憶されたいくつもの光景を重ね合わせて見ている。人は現在の光景を見ながら同時に、過去に見た光景も無意識に見てもいるらしい。
　逃げ水を初めて意識的に見た時のことを覚えている。何歳だったかは忘れた。うんと小さい頃だ。道の遠くのほうに水たまりみたいなのがあって、自動車がどんどん、それを踏んで走り抜けていくのに、タイヤの濡れた様子がないのを変だと思いながら見ていた。そのうち消えてしまったのも不思議だった。
　けれど不思議は不思議のままに受け入れて、あれは何だったのだろうと、深く考えはしなかった。それでなくても世界は不思議であふれていたから、ありのままを受け入れるので精一杯だった。
　あれが逃げ水という、光の屈折で起こる現象だと知ったのは、小学校五、六年生の時だったと思う。友だちの家にあった図鑑を読んで知った。掲載されていた写真まで覚えている。
　その頃、私は自転車でひとり、田舎道をあてもなく走るのが好きだった。
　ある夏の日、海へ向かうゆるい坂道を下っていて、前方にちらちら逃げ水が見えだし、ブレーキをかけた。両側を田んぼにはさまれた長い一本道で、彼方まで車はおろか人影もない。じっくり観察したいという気を起こしたのだが、見ているうち、自分があそこに立ったらどう見えるだろうと好奇心が湧いた。それで自転車を走らせ、逃げ水が現れていたと思しき地点で立ち止まったが、当然、逃げ水は消えている。
　自転車にまたがったままで、後ろをふり返った。さっき自分がいた地点に自分の視点を想定し、その目に自分がどう映っているか想像してみた。
　自分が自分自身から遠くなったような気がした。なんだか、自分が自分自身から突き放されてしまったような感じだった。
　でも、それは今だからこうして言葉にできるのであって、当時は何が自分を不安にさせるのかわからなかった。わからないまま、さっさとその場を離れたのだった。

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	<title>にょごがしま</title>
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	<published>2010-07-15</published>
	<updated>2010-07-15T03:11:00Z</updated>
	<summary> にょごがしま【女護が島】 女性だけ居るという想像上の島。 　むかしむかし―。 どうしても「むかしむかし」から始まっちゃうな。どうしてだろう。 これからお話しが始まりますよっていう、一種の呪文？　みた...</summary>
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		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>にょごがしま【女護が島】<br />
女性だけ居るという想像上の島。</p></blockquote>

　むかしむかし―。
どうしても「むかしむかし」から始まっちゃうな。どうしてだろう。
これからお話しが始まりますよっていう、一種の呪文？　みたいなもの？　「むかし」とは言っても、本当の昔じゃないからね。はるか遠い未来の時点から見た昔。つまり、今この現在から見たら少し先の未来。わかる？　ねえ、ちゃんと聞いてよ。
　南太平洋の島々のひとつに、キャリコという小さな島がありました。キャリコというのは、島の言葉で蛇という意味。その島をまあるく取り巻く珊瑚礁の岩が、引き潮になると浮き上がって、その姿が蛇に似ていることから、この名がついたの。蛇が自分のしっぽを噛んで、輪を描いて島を守っていたのよ。
　島は小さいの。そうね、東京ドーム二十個分くらいかな。人口は二百人をちょっと超えるていど。高い山はなくて、ほとんどがジャングルに覆われて、男たちは海へ漁に出て、女たちは畑を耕して、子供たちは海辺で貝を拾ったり、バナナやヤシの実を集めたり。ほとんど自給自足の生活よ。
　男たちは捕れた魚を本国の市場で売って現金にして、それで洋服やこまごまとした生活用品を買って帰るんだけど、必要以上のものは買わない。あまったお金はみんな村長さんにあずけてしまう。村長さんは帳簿もつけないであずかったお金を庭に埋めてしまう。それが島のしきたりなの。お金は人を狂わすから。島にお金はいらないのよ。なんでも物々交換ですましちゃう。それで問題なかった。電気も水道もない。自動車もない。借金取りが玄関のドアを叩くこともないし、お役人が税金の徴収に来ることもない。
ね、いいでしょ、こういう島。それはそれは楽園みたいな島だったのよ。
　ところがね、悲しいことに、楽園が楽園のままだったら永遠に物語は始まらない。
　地球温暖化で海面が上昇して、キャリコ島はだんだん沈んでいき、海辺に住んでいた人たちは家や畑を失ってしまいました。村長さんは丘に住んでいる人たちに、自分の土地を分け与えるように命じました。新たにジャングルを切り開くことは島のしきたりで許されなかったのよ。ジャングルはね、精霊たちの領分だから。
　土地の割り当ては、村長さんの努力にもかかわらず、公平にはいきませんでした。分け与えた人にも、与えられた人にも、不平不満はつのりました。キャリコ島で初めて、貧富の差が生まれたのよ。こんなんじゃ暮らせないって、島を出て本国に移ろうとする人たちが村長さんの家に押しかけて、庭に埋めたお金を掘り起こす騒ぎが起こりました。お金の奪い合いはね、とうとう殺し合いに発展しちゃった。もめ事なんて、まして殺人なんて、それまでキャリコ島には縁がなかったのに。悲しいよね。昨日までいっしょに歌ったり踊ったりしてた仲間が、顔を赤くして、歯を剥き出していがみ合って。
でもさ、人間って、ひと皮剥けばみんなそういうものかもしれない。ねえ、あなたもそう思うでしょ？
　村長さんはね、殺された。村長さんがいないとお祭も開けない。キャリコ島は住む人が減って、だんだん寂しくなっていった。そうして島の半分くらいが沈んじゃうと、本国が島民に移住命令を出したものだから、島に残ったのは老人だけになってしまった。どうせ老い先みじかいんだから、生まれた島で死にたいって強く願って、だから残ったのよ。
　三十人くらいの老人が集まって、わずかな畑を耕したり、海辺で貝を拾ったりして細々と暮らしました。老人ばかりになって、やっと島は平和を取り戻したって感じ。長く中断していたお祭もまた始めて。どんなお祭かって？　そうね、ジャングルの精霊たちを讃える歌と踊りが夜通し続く、そんなお祭よ。
　ねえ、聞いてる？　だめよ眠っちゃ。このお話、まだまだ先が長いんだから。
　それでね、ええと、どこまで話したっけ。ああそう。人間ってさ、男のほうが先に死ぬよね。男って基本的に弱い生き物なんだよね。キャリコ島も例外ではありませんでした。男のほうから先に死んでいって、あ、これみんな老衰よ、いつの間にかお婆さんだけの島になってしまいました。
「女だけの島」という噂が船乗りの間に広まって、変な誤解をした船乗りがキャリコ島に寄ってみて、すごくがっかりして帰っていったりもしました。
　島には月に一回、本国の船が支援物資を届けに来たの。たけど、お婆さんたちは荷物を浜辺で受け取るだけで、男たちを島には上げようとしませんでした。男たちがみにくい争いを起こした記憶が強烈だったから、もう島に男はいらないって決めていたわけ。男は島に災いをもたらすっていう理由で。男さえ入れなければ島は平和を保てるってお婆さんたちは信じて。実際、平和だったし。
　あの事件が起きるまではね。そう、あの事件までは。
　でもこんな言い方って、なんか思わせぶりで、あんまり好きじゃない。
　その事件というのはね、以前、島を出て行った娘が一人、支援船に乗って島に帰ってきちゃったことでした。娘のお腹は大きかったの。本国に移住して結婚したのはいいけど、妊娠したとたん夫が浮気を始めて、虐待もひどくなって、それで逃げてきたんだって。お婆さんたちは話し合って、娘を受け入れはするけど、生まれてきた子がもし男だったら本国に帰す。女だったら親子で島に住んでいい、ということに決めました。
　娘は祈る気持ちで出産の日を迎えました。さいわいにして、生まれたのは女の子。島のみんなが大事に大事にその子を育てました。
　その子は美しい少女に育ちました。それはそれは美しい少女でしたから、男がひと目見たら狂ってしまうと心配して、島のみんなは、支援船が来るたびに少女をジャングルに隠しました。だから、男ってどういうものだか、少女は生まれてから一度だって見たことがありませんでした。
　それがね、ある夜のこと、大嵐があって、一隻の漁船が難破してキャリコ島に流れ着いたの。島のみんなは大慌てで少女をジャングルに隠した。そのうえで、漁師たちにはじゅうぶんな水と食料を与えて、船の修理が終わるまで島に滞在することを許したのよ。ジャングルには絶対に立ち入らないことを条件にね。
　でもね、そうはいかないの。タブーは破られるためにあるの。ある日、好奇心の強い若者がこっそりジャングルに入ってみたら、どこからか美しい歌声が聞こえてくるではありませんか。若者は歌声に誘われるようにして、ジャングルの奥へ奥へと分け入っていきました。そしてね、滝の下で水浴びをしている少女とばったり出会ってしまったのよ。少女は恥ずかしいなんてことを知らないから、もちろん全裸よ。男を見たのは生まれて初めてで、だからすごくびっくりしたけど、本能でね、体の中がかっと熱くなっちゃったの。
　若者はいったん仲間のところに引き上げたけど、少女のことがもう忘れられない。夜中にこっそり起きだして、少女を求めてジャングルの奥へと戻りました。後はお決まりよ。ふたりは滝のそばで結ばれたの。濡れた岩の上で、月光を浴びながらね。
　それから間もなくして、漁船の修理が終わって漁師たちは本国に帰って行きました。もちろんあの若者もいっしょに。少女はお腹の中に若者の子供を宿していました。だんだん膨れていく少女のお腹を見て、お母さんはたいそう嘆き悲しみましたが、できてしまったものは仕方ありません。お婆さんたちと話し合って、生まれてくる子が女の子だったらこの島で育てる、男の子だったら支援船に頼んで本国へ養子に出す、と決めたの。
　少女は祈るような気持ちで出産の日を迎えました。果たして、残念ながら生まれたのは男の子でした。少女は一生懸命抵抗したけど、お母さんは強引に子供を奪い取って、支援船に渡してしまった。母と娘は激しく争った。そして、すさまじい喧嘩の末に、少女はうっかりお母さんを殺してしまった。残酷だなんて思わないでよ。彼女は純粋すぎたの。それまで喧嘩なんてしたことがなかったから、力の加減がわからなかっただけ。暴力なんて知らなかった。こうすれば血が出て人が死ぬんだなんて知識がなかったのよ。
　ああ、やっぱり男が災いをもたらしたのだと、お婆さんたちは悲しみにくれて、ひとりまたひとりと死んでいきました。それで、とうとう少女はひとりぼっちになっちゃった。その頃、キャリコ島はかつての三分の一くらいの大きさ。支援船に乗って本国に渡れば、自分の子供に会えるかもしれない。そう考えもしたけど、お母さんを殺した手で子供を抱くことが、なんだか恐ろしいことに思えてね、できなかった。
　支援船が来るたび少女は隠れた。呼びかけても誰も出てこないから、もうみんな死んだのだなと支援船の乗組員は考えた。それ以来、支援船は来なくなった。キャリコ島はどんどん沈んで、東京ドーム一個分くらいになってしまった。蛇に似た珊瑚礁の輪もとうに海の底に沈んで、二度と海面に浮き上がることはなかったの。
　少女はひとりぼっち、畑を耕したり貝を拾ったりして暮らしました。夜になると海岸に出て、たったいちど結ばれたきりの若者を思い、また子供のことを思いながら歌を歌った。のびやかな歌声は、島の近くを通る船に届くことさえありました。
　でも船乗りたちは、キャリコ島は無人島になったと思い込んでいたから、あれは島の女の幽霊が歌っているのだと信じたの。いつしか、あの歌声を聞くと船が沈むという噂が広まって、どの船も島を避けて通るようになり、人々から忘れられていきました。
　それでも少女は、若者を思い、子供を思って歌い続けたのよ。
　ねえ、だめよ眠っちゃ。聞いてる？　ちゃんと聞いてる？　このお話し、私が自分で作ったのよ。これで終わりじゃないからね。まだまだ続くのよ。少女が年老いてお婆さんになっても続くの。しわくちゃのお婆さんになっても歌い続けて、若者や自分の子供を待ち続けるの。キャリコ島が完全に海に沈むまで、えんえんとお話しは続くのよ。
　私は毎晩話し続けるから。あなた、おしまいまでちゃんと聞くのよ。たまには感想を聞かせて。死人に口なしなんて、そんな言い訳ゆるさないから。どんなになってもあなたはあなた。誰にも渡さないんだから。この部屋から出すもんですか。
　私は私がお婆さんになってもこの部屋を離れない。毎晩あなたにお話しを聞かせ続ける。そしてね、お話しは永遠に続くのよ。
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	<title>にんぎょ</title>
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	<published>2010-07-15</published>
	<updated>2010-07-15T03:13:14Z</updated>
	<summary> にんぎょ【人魚】 ①胴から上は若い女性で、魚の尾を持つという、想像上の動物。②ジュゴンの別称。 　かれこれ六、七年前のこと。それまで勤めていた会社をリストラされ、新しい仕事を探したところでろくな仕事...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>にんぎょ【人魚】<br />
①胴から上は若い女性で、魚の尾を持つという、想像上の動物。②ジュゴンの別称。</p></blockquote>

　かれこれ六、七年前のこと。それまで勤めていた会社をリストラされ、新しい仕事を探したところでろくな仕事がないのは火を見るより明らかで、それなら自分で会社を作って就職すればいいんだと考え一人で出版社を立ち上げたまではよかったがなにしろ基本がいい加減だからまるで先行きが見えない。このまま立ち腐れてしまうのか。旅をすれば何か掴めるだろうと祈る思いで沖縄に飛んだ。日本を南端から攻める計画だった。北海道の北端から攻めてもよかったのだが沖縄を選んだのはたまたまだった。
　沖縄は本土とまるで違った。何が違うといって、ひと口で言うなら神が違った。日本と切れている。沖縄という土地が神なのだった。ビルにせよ道路にせよみんな沖縄という神の上に載っかっていて、アスファルト一枚コンクリート一枚めくればたちどころに神は剥き出しの顔を見せる。
　誤解されそうなので断っておくと僕は神を信じる人ではない。なのに沖縄の神だけは素直に信じられた。信じるというか神の方から僕の中にえぐりこんできたのだった。それで何か悟ったということはなく僕は僕のままだが、沖縄にいる間は常に神の気配を肌で感じた。沖縄の神は生々しい。体温がある。那覇の中心街だろうと基地の街だろうとやんばるの森だろうとそれは変わらなかった。
　那覇にいる間は民宿で借りた自転車で走り回り、人と会ったり出版社を訪ねたりした。ジュゴン保護団体ともそうして出会った。人から人への縁で半ば偶然につながった。ジュゴン？　知らなかった。沖縄の海にジュゴンがいることを初めて知った。
　それを皮切りに何度も沖縄に飛んだが行き先はもっぱら辺野古で、目的は辺野古の海に棲むジュゴンの保護活動だ。辺野古というのは普天間基地の移設先に目された土地で、当時は海上基地建設に先立つボーリング調査を実力で阻止しようと沖縄内外から人が集まり辺野古港で座り込みを続けていた。毎日やって来る防衛施設局の局員を追い返していた。初めのうち僕はジュゴンに対して何の思い入れもなく、実際に自分の目で見たわけでもないものに思い入れを抱けるわけがなく、たまに自分のしていることに違和感を抱いた。国と闘うのは楽しい。申し訳ないが楽しいものは楽しい。けれどなぜ自分が、と考えると必然性はないような気がした。沖縄のためジュゴンのためというのはきれい事で本当は自分のためで、つまり僕はそうやって沖縄とつながっていたかった。
　辺野古の近くに「ジュゴンの見える丘」と呼ばれる丘があり、でもその丘からジュゴンを見たという人は一人もなく、だから正確には「ジュゴンを見たい丘」だがそれはともかくジュゴンのいる海を一望できるのはたしかで、一週間そこに通い大学生といっしょに海を眺めジュゴンを探した。しかし地元の漁師でさえ滅多に見られないものを一週間かそこら頑張ったところで見られるわけがないのだ。見られたとすれば奇跡だ。奇跡を頼りに茫洋とした海を見続けるのは一種の信仰に近い。信じる者が救われるわけではないが信じながら眺める海は一日中でも飽きなかった。
　ジュゴンが見えたとか見えなかったとかいうのもどうでもよくなって、海を眺めていると海が自分の中に入ってくる感覚があり、それだけで心がいっぱいになった。ジュゴンが見られなくてもジュゴンがそこにいると信じられるだけで幸せだった。ある意味そういう心の働きこそ信仰なのだ。無神論者の信仰というものがあるのならその時の僕の心がそうだった。
　個人的には、なぜジュゴン保護活動を保護するのかというとジュゴンは神の使いだからだ（そういう伝説がある）。僕がそう言うと人はきょとんとする。ひどい場合は聞かなかったことにされる。たしかに論理的でない。論理的でないから説得力がない。日米政府を相手にしようというのに神を持ち出されても困る。もっともな話だ。
　けれど僕の論理では沖縄を沖縄たらしめるのはその風土であり、風土というものは（仮定の）神という精神的なものによって性格づけられているのだから神の使いのジュゴンが消滅すれば神の死につながる。神が死ねば沖縄も死んでしまう。沖縄が沖縄でなくなる。たとえ見た目はきれいだろうと死んだ海だ。もぬけの殻なのだ。
　そんなふうに何年か過ぎて、出版社も非力ではあるけれどなんとか活動は続いて、そうしているうち僕の書いた小説が新人賞を取るという大事件が起きて生活は一変した。すべてを捨てて作家生活に入った。
　二作目は沖縄を舞台に、ジュゴンの津波伝説を題材に取り上げ書き上げた。僕の沖縄体験を精一杯盛り込んだが政治的な部分はすべて削られた。書き直しに継ぐ書き直しで苦労したものの、出版してみると期待したほど評判にはならなかった。なぜだかわからなかった。それを境に僕はジュゴンから離れていった。その後結婚したこともあって日々の生活に追われる身となりジュゴン保護団体とも離れていった。青春が終わったと感じた。青春といっても、沖縄と東京を往復していた頃の僕は四十歳を過ぎていたのだけれど。

　それが昨年（二００九年）夏、ジュゴン保護団体から沖縄ツアーに参加しませんかという誘いの葉書があった。僕は作家として行き詰まっていた。沖縄の日々を思い返すと遠い昔に感じた。あの頃は若かったなあ、なんて。実際はほんの三、四年前なのに。
　ツアー初日。最近ジュゴンが現れたという古宇里島を見てから美ら海水族館に入った。何度も沖縄に来ていたが美ら海水族館に入るのは初めてだった。
　そこでマナティーを見た。大水槽のある本館とは別の、マナティー館というところに彼はいた。マナティーはジュゴンの親戚で見た目ほとんど同じだがどこが違うかというと尾びれの形が違う。ジュゴンは三日月形でマナティーは団扇形だ。
　美ら海水族館にマナティーがいると知らなかった。ジュゴンとの見分け方は知っているし、入り口に「マナティー館」としっかり書かれていて、それを見ていたはずなのにジュゴンと思い込んだ。
「ジュゴンがいたんですね」と僕は団体の東京支部長に話しかけ、彼が僕の間違いを聞き流し訂正しなかったので僕の思い込みはより強固になった。
　やっぱり、変な生き物だった。風船みたいに浮いたり沈んだりしていた。体長は三メートルくらい、灰色の肌をした、ずんぐりむっくりで、顔つきはというとどのクラスにも必ず一人はいた、愛想はいいけど鈍くさい、不器用で、愚直で、先生に指されると口ごもり、球技が苦手で、でも清掃は真面目で、生き方下手の、影は薄いのにいないと気になる、そんなタイプを彷彿させて、どこかで見た顔と思ったら宮沢賢治の風貌に似ていた。宮沢賢治に似た生き物がぬうぼうと水の中にいるのだった。
　僕はジュゴンを、その弱さにおいて好きなのだった。初めて沖縄に来た時、僕の心も相当弱っていたから。そして今も僕は相当弱っている。ジュゴンが絶滅危惧種なら純文学作家だって絶滅危惧種なのだ。
　水槽で泳ぐジュゴン（と、思い込みは続いていた）は、自分が絶滅危惧種だと知らない。もし仮に、ジュゴンの減数がこのまま進んで自分が世界で最後の一頭となったら、地球的規模の孤独を彼は本能で知るのだろうか。もし知るとすればどんな心境になるのだろう。それとも、種の絶滅も個体の死も本人にとっては違いはない、それだけのことだろうか。ジュゴンの中に入り込んで考える。水槽の外側から見たジュゴンはふわふわしたお化けみたいだが、水槽の内側から外を見た人間は幽霊みたいだ。
　こんなふうに考えるのは感傷だろうか。ジュゴンはジュゴンで人間は人間だ。けれどたとえば梅と桜は違う種類だけど同じ春という現象の一部であるように人間と他の動物も地球という現象の一部であって、視点を高くしていけば人間とジュゴンの境が消えてしまう高度は必ずある。それを仮に神の視点と言ってもいい。問題は神がいるかどうかではなく、そういう抽象的な視点を仮定できるかどうか想像力の問題なのだ。
　ジュゴンを探して丘の上から海を眺めていた日々が思い返されて、そのジュゴン（と、まだ思い込んでいる）が当たり前のように目の前を泳いでいる。繰り返し夢の中で見ていた相手とばったり現実で出会ったような妙な懐かしさで胸がいっぱいになり、しかしそれは同時に夢の終わりを示してもいて、少し寂しかった。
　外に出ると夕暮れで、いつの間にか雨が降っていて、灰色をした海の向こうに伊江島が煙って見えた。帰り道にガチャポンが置いてあり魚やなんかの模型を売っていて、ふだん僕はこういうのに手を出さないのだがこの時はおみくじ気分でためしてみた。出てきたのはウミガメの赤ちゃんが卵を割って生まれた場面だった。
「おみくじだと小吉ってとこかな」と僕は言った。
　ツアーに参加していた若い女性が「あ、かわいい」と言って自分もためしてみたら出てきたのはサメで、彼女は複雑な表情になった。
「いいじゃん、かっこいいじゃん」と僕は若者言葉で言ったが、たぶん慰めにはならなかったろう。
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	<title>なきりゅう</title>
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	<published>2010-07-01</published>
	<updated>2010-07-01T01:34:47Z</updated>
	<summary> なきりゅう【鳴（き）竜】 壁・天井などに向かって手をたたいたりすると特有の反響を起こす現象。日光輪王寺の薬師堂のものが有名。 「竜が飛んでいる」と思ったのは、飛行機雲だった。 　飛行機雲が珍しいわけ...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>なきりゅう【鳴（き）竜】<br />
壁・天井などに向かって手をたたいたりすると特有の反響を起こす現象。日光輪王寺の薬師堂のものが有名。</p></blockquote>

「竜が飛んでいる」と思ったのは、飛行機雲だった。
　飛行機雲が珍しいわけではない。横田基地と厚木基地を結ぶ直線コースの真下にリュウの住む街はあるから、自衛隊のジェット機は頻繁に飛び、空に白い航跡を残していく。見慣れた景色だ。ただ、この日の飛行機は格別だった。
　夕焼けの終わり。空は透明な藍色に染め上げられ、しかし山の端には埋み火のような夕焼けが残っていて、飛行機雲は夜の色に変わりゆく空の中で、夕陽の余光に照らされ赤々と燃えている。輪郭がぼやけて膨れ、風に吹かれて少々歪んでいるのも、竜らしかった。生き物めいて、力強くて、艶めかしくもあった。
　暮れていく空に、竜が吠えている。次第に力を失いながらも、精一杯の咆吼を空に広げている。
「おい、竜。ぼくもリュウだ」
　リュウは息を吸い込んだ。吠えたいくらいだ。ランドセルに立てたそろばんを鳴らしながら、新興住宅地の坂道をしゃかしゃか上った。リュウの家は丘の上にある。

　リュウはそろばんが好きだ。ハマッテいると言っていい。学校の友だちはそろばんなんて時代遅れだと口をそろえるが、それは違う。友だちの電卓と計算競争をしたって負けない。０，１秒単位の戦い。そろばんの珠がぱちぱち火花を散らす。そろばんは数字の格闘技だ。ダイブし、キックし、投げ飛ばす。ゲームの敵キャラを倒すように数式をやっつけていく。そろばんはエキサイティングだ。
　ネットで全国珠算競技大会の動画を見たのが始まりだった。上級者の指さばきは神業だった。ＴＶゲームなんて目じゃなかった。
　そろばんを習うとリュウが宣言した時、アニメオタクの両親は目を白黒させた。自分の子供がいきなり外国語を話し出したような顔だった。特に父は、息子を空手道場に通わせたかったので、無言のまま、頭の上に？マークを五つも六つも並べたものだ。
　リュウの両親は『北斗の拳』にイカレていた。二人が出会ったのも『北斗の拳』のイベント会場だ。父の名は憲一郎で、母は由里。二人は「ケンシロウ」、「ユリヤ」と呼び合った。結婚してもそれは変えなかった。
　ケンシロウは北斗真拳で悪者を懲らす世紀末の救世主で、ユリヤは彼の麗しき婚約者。名前こそ似ているものの、そこは現実の悲しさで、憲一郎は色白のやさ男、由里は小太りときている。それでも夢は夢として守り合い、生まれてきた子供に「リュウ」と名づけた。『北斗の拳』のリュウは、ケンシロウによって北斗真拳の次代後継者に選ばれた男だ。
　両親は、リュウが片言をしゃべり始めた時から、自分たちをケンシロウ、ユリヤと呼ぶようしつけた。家の内でも外でも、パパ、ママとは呼ばせなかった。生まれてきた子を、自分たちの仲に加わった新しい友だちと考えていた。
　両親はリュウに強くあれと願った。できれば格闘技を習わせたかった。しかしリュウ自身は、筋肉を鍛えるよりも頭脳を鍛えるほうが好きだった。だからそろばんを友とし、ちまちました計算の世界を自分の戦場に決めたのだ。
　塾帰りだった。ランドセルには五級の合格証書が入っていた。今日、塾で先生から手渡された。合格は前から知っていたし、進級のお祝いもすんでいるが、合格証書をもらうと実感が違う。自分がひと回り大きくなった気がする。
「やったな！」と、そろばんが背中でしゃかしゃか騒ぐ。自然、足も速まる。自宅の真下まで来ると坂道から外れ、リュウは近道になる長い階段を勇んで駆け上がった。

　玄関のドアを開け、靴を脱ぎ捨ててすぐ、リュウはぎすぎすした空気を肌で感じた。高ぶっていた胸が一気にすくんだ。
「ただいま、ユリヤ」声まで沈んでしまう。
　ぎすぎすした空気の中にユリヤがいた。腕組みし、難しい顔で天井をにらんでいた。
「お帰り、リュウ」ユリヤはリュウを見向きもしない。
　スーパーの買い物袋が食料を入れたままテーブルに置いてある。ぐたっとした袋から、ネギ。白ネギが突き出ている。
「ケンシロウ、いるの？」リュウは天井を見上げた。悪い予感がした。
「いるってゆうか、引きこもってんの」
「またぁ？」
「またなんて言わないでよ。今度のは重症かも」
　ユリヤの目は天井を突き抜け屋根裏部屋を見ている。ケンシロウの書斎兼寝室。建て売り住宅の天井裏をケンシロウが日曜大工で改造した。『北斗の拳』のグッズやフィギュアであふれたそこは、いわばケンシロウの聖域だ。
　リュウは椅子に腰かけ、買い物袋に指をかけ中身をのぞいた。
「今日、塾で五級の合格証書もらった。見る？」
「入り口に鍵かけちゃって。いくら呼んでもうんともすんとも言わない」
「あ、レーズンパイ。食べていい？」
　ユリヤはいきなり両手を打ち鳴らした。ぱあんとリビングに音がはじけた。
　リュウは肩をすくめた。天井でごとごと音がした。
　白い天井に二つの赤黒い染み。以前、ケンシロウが屋根裏部屋で酔っぱらい、赤ワインをこぼして作った跡だ。その二点を両眼に見立てれば、天井に竜が浮き出てくる。雲を割って恐ろしい顔を突き出し、リュウを見下ろす。
　ユリヤの柏手が竜を召喚した。まるで鳴き竜だ。
　鳴き竜。遠足で見たことがある。お寺の天井に巨大な竜の絵があった。手を叩くと音が反響し、竜がうわんうわん鳴いたのだ。あれと同じだ。
　ユリヤに続き、リュウも手を叩いた。
「やめなさい」ユリヤが叱った。「遊びじゃないんだよ」
「遊んでないよ」
「ケンシロウにはそう聞こえるの」
　ケンシロウの足音がした。見えない竜が胴をくねらせ、天井をのたうっていた。

　夕食の仕度ができても、ケンシロウは引きこもっていた。ためしにリュウは、ケンシロウの携帯電話に電話をかけてみた。ソファの上で呼び出し音が鳴った。
　屋根裏部屋の出入り口は天井の一角に四角く切ってある。扉の留め金に鈎付き棒を引っ掛ければ、扉が開いてアルミの梯子がメカニックな音を立てて飛び出す仕掛けだ。秘密基地のゲートらしい見事な装置で、鍵さえかければ難攻不落だ。
　ユリヤは鈎付き棒を手に、なんとか扉をこじ開けようとがちゃがちゃいわせたが、首や腕が疲れるばかりで、おまけにホコリが目に入った。
「ああもう」ユリヤは鈎付き棒を投げだし目をこすった。完全に腐っていた。
「今度はぼく、やってみようか」リュウは腰を上げかけた。
「いいよもう。お腹がすいたら下りてくるでしょ」
　ユリヤはケンシロウのぶんの食料もテーブルに並べた。リュウはケンシロウのご飯茶碗を箸でちんちん鳴らした。「やめなさい」ユリヤは叱った。「仏さまじゃないんだから」
「今日、塾で合格証書をもらったんだよ」
「ああ、そうだったわね。後でちょうだい。額に入れておくから」
「今日、五級の合格証書もらった」リュウは天井に向けて声を張り上げた。
　天井は沈黙していた。ケンシロウの気配だけが重かった。
「仕事がうまくいってないの。先月に引き続き今月も売り上げゼロだって。不景気だし、世の中全体が自動車離れだし。新車が売れないのは当然って言えば当然」
　ユリヤは箸を持った手でテーブルに肘をついている。給食で同じことをすると先生は叱る。先生に叱られることをユリヤはしている。そう言おうかどうか迷って、リュウは口をつぐんだ。
「いまの若い人ってわかんないなあ。あたしが若い時なんか、自動車がない人とはデートしなかったもん。電車でデートだなんて言われたら涙が出た」
「ケンシロウはなんて車に乗ってたの？」
「真っ赤なフェアレディ。暴走族だって振り切ったのよ。あたし、暴走族の頭に投げキッスをしてやったんだから。すごいでしょ」
　ケンシロウは大学を卒業して不動産会社に就職した。地価が高騰していた時代で、面白いように土地が売れた。地価が頭打ちになるとゴルフ会員権を売る会社に転職した。景気は下降していたが、口八丁で売りさばいた。その会社が検察に睨まれていると知り、慌てて退職した直後に会長が詐欺容疑で逮捕された。次に就職したのが現在の自動車販売会社だ。ユリヤと知り合ったのもその頃だった。
　ユリヤにとってケンシロウは王子様だった。三十代前半で大金持ちだった。ローンも組まずに新築の家を購入した。そんな人と結婚したのは、女子大の同級生でユリヤだけだった。なのに今、ケンシロウは仕事に行き詰まりウツ状態だ。少なくなった収入の埋め合わせに、ユリヤはパートの仕事を始めた。
「当分は友だちを家に連れてこないでよ。わかってるわね」ユリヤは言った。
　ユリヤは五級の合格証書を、六級に重ねて額に入れ、リュウの部屋の壁にかけた。
「ケンシロウ。ちょっと下りて見に来なさいよ。リュウの合格証書を飾ったのよ」
　ユリヤは天井に向けて声を張り上げた。反応はなかった。

　彼らの家は、一階にガレージと、コミックばかりの書庫があり、二階にリビングとキッチン、リュウの部屋とユリヤの部屋がある。リュウの部屋は、元はケンシロウの部屋だった。リュウが小学校に上がるとケンシロウは部屋をゆずり、屋根裏に自分の居場所を移したのだ。まさか、その時から引きこもりを想定していたわけでもないだろうけど。
「ねえ、いつまでいじけてんのよ」深夜、ユリヤの怒鳴り声でリュウは目が覚めた。自分が叱られているように、リュウは縮こまり毛布の端を握った。
「不景気なんだから車が売れないのは仕方ないじゃない。あんたのせいじゃないわよ。あたし、あんたを責めた？　お金のことで愚痴こぼした？　ないでしょ。あんたがそうやってるから家の中が暗いの。空気が重いの。あたしもう耐えらんない。明日も休みたいなら休んでいいから。あたしが会社に電話しとくから。でもね、有給とるなら病院で診断書もらわないと。どの病院に行けばいい？　あたし付き添うから。ケンシロウがどの病院にするか決めてよ。いい？　自分で決めてよ」
　病院って？　精神科？
　翌朝になっても状況は変わらなかった。天井にケンシロウがいると思うだけで朝食が暗くなった。ユリヤは箸を休めては溜め息を吐いた。溜め息は空中で無数のトゲに変わり、リュウの手元に降り注いだ。リュウも、うんざりした。
　夕方、学校から帰っても同じだった。ケンシロウは屋根裏部屋から下りずに、病院にも行かなかった。
「お腹すかないのかな」
「あたしがパートに出てる間にこそこそ食べてるのよ。冷蔵庫の食料、減ってるもん」ユリヤは答えた。「トイレは、そうね。簡易トイレにしてるのかも。ほら、リュウも使ったことあるでしょ。車が渋滞した時の緊急用で、袋にするやつ。いやだ、食事中なのに思い出しちゃった」ユリヤは眉間に皺を立てて笑った。
「ぼくが空手習わなかったから、こうなっちゃったのかな」
　学校にいる間に、ふとそう思ったのだ。
「バカね、関係ないじゃん」ユリヤは言った。そして天井を見上げ、「リュウがね、自分のせいじゃないかって悩んでるわよ」大声を出した。
　リュウはびっくりしてスープをこぼした。こんなこと、いつまで続くんだろ。

　五日たっても、ケンシロウは屋根裏部屋から出てこなかった。姿は見えないのに、家中がケンシロウの気配で満ちていた。家自体が、頭痛でずきずきしてるみたいだ。
　天井の染みが竜の目となり、いつでもリュウたちを見下ろしていた。竜の目は恨んでいた。リュウたちを責めていた。ぼくらの何がいけないんだろう。リュウは考えた。リュウを嫌っているのかもしれない。あるいは、家族というかたちそのものを。
　家族が壊れかけてきた。その日、学校から帰るとテーブルに宅配ピザや寿司やうな丼のチラシが載っていた。携帯電話が鳴り、出てみると、ユリヤからだった。
「一階の書庫にいるのよ」ユリヤはふて腐れていた。「あたしも引きこもるから。夕ご飯は宅配好きなの頼んで勝手に食べていいから。お財布のある場所、知ってるよね。あたしだけ損してるみたいで、もう嫌なの。泣きたいくらい」
　泣きたいのはこっちだ。リュウは電話に吠えた。地団駄踏んで吠えまくった。しかし、電話が切れてしまえば虚しいだけだった。ピザをとって食べた。泥の味がした。
　もっとも、ユリヤの引きこもりは半日も続かなかった。「ごめんね」と言って、翌朝には書庫を出て、朝食の仕度をしていた。「あたしはもう大丈夫。あたしまで病んじゃったら、リュウひとりぼっちだもんね」そう言ってリュウを抱きしめた。
　ユリヤに抱きしめられるのは何年ぶりだろう。けれど、温かい抱擁ではなかった。息苦しいだけだった。ユリヤはぼくを抱きしめているのではなくて、自分の寂しさを抱きしめているんだ。リュウはそう感じた。
　夜になって外に出てみると、屋根から突き出した明かり取りの窓に光がともっているのが見えた。屋根裏部屋の光だ。「あっ、あそこにいるんだ」と、いるのはわかっているのに、光を見ると安心した。物音は気配だけど、光は生命だ。光を見ていると、まだ間に合いそうな気がした。
　そうか、ケンシロウに会いたいなら屋根に上ればいいんだ。
　リュウはひらめいた。
　問題はどうやって屋根に上るかで、ざっと見たところ取っ掛かりになりそうなものはない。電柱も離れている。どう見ても、隣の屋根から飛び移るしかない。隣の屋根に上るにはそのまた隣の屋根に上るしかなく、そこへは坂道の上から飛び移るしかない。
　本当にできるか。転げ落ちたら死ぬぞ。でも、それしか手段がないならやるしかない。

　翌日、リュウは計画を実行した。一番目の屋根。これは簡単だった。崖崩れ防止のフェンスから車庫の屋根に移り、家の屋根によじ上ればよかった。二番目の屋根。あまり離れてはいないが、つるつるした瓦の屋根で怖かった。瓦を割ったり落としたり、自分が足を滑らせて落っこちる危険もある。しかし、ここまで来たら引き返せない。思い切って飛んだ。足が滑ったが、かろうじて雨樋につま先を引っかけた。
　三番目が目指す屋根だ。最も離れている上に、瓦屋根で助走をつけると大きな音がして家の人に気づかれる怖れがある。かといって、一足飛びで飛び移れる自信もない。地上にはスチールのフェンスがあり、落ちれば間違いなく複雑骨折だ。
　自衛隊のジェット機が飛んできた。はるか上空なのに爆音が激しく、ソニック・ブームで空気がびりびり震える。この音を利用しよう。リュウは屋根の頂上に上った。ジェット機が上空を通過する瞬間を狙い、音が立つのもかまわず一気に瓦屋根を駆け下り加速をつけて空中に飛んだ。
　成功。リュウの家はスレートの屋根だ。蛙のかっこうで屋根にへばりつき、リュウは首を上げた。ひと筋の雲を鋭く引いてジェット機は彼方の空へ飛んで行った。
　明かり取りの窓を叩いた。ベッドに寝そべっていたケモノのようなものが、むっくり頭をもたげた。リュウは目を疑い、たじろいだ。ケンシロウはまるで別人だった。生気が抜けると、こんなにも人相は変わるものか。いや、人相ですらない。のっぺらぼうに目鼻口を描いた、出来の悪いラバーマスクだ。こいつは本当に父だろうか。別人の変装じゃないのか。父と認めたくない。リュウは逃げ出したくなった。
　表情のない目に力が入り、ぐぐっと寄り目になった。それが驚きの表現らしかった。
　ケンシロウはのそのそと這い寄り、窓を開けた。一週間分の無精髭が眼前に迫って、思わずリュウは首を引いた。物が腐ったような異臭がケンシロウの体から漂ってきた。
「どうしてここにいる」抑揚のない声でケンシロウは言った。
「会いに来たんだ。話をしたかったから」
「元気だったか」
「まあね。なんとかやってる」
「ユリヤは」
「ちょっとやばいかも」
「そうか」
　ケンシロウは窓枠に顎を載せて目を閉じた。これだけ話すのも、やっとの感じだった。
「ぼく、そろばんをやめるよ。空手の道場に通う。それでいいだろ」リュウは言った。
「何の話だ」
「ケンシロウは、ぼくが空手をやらずに、そろばんなんて始めちゃったから、がっかりして生きる気がなくなったんだろ。だったらいいよ。ケンシロウの望みどおりにする。体を鍛えて強くなるから」
　しばらく、ケンシロウは沈黙していたが、唐突に「リュウはカツアゲってされたことがあるか」と訊いた。「ううん」と、リュウは首を振った。「ケンシロウはある？」
「しょっちゅう。中学と高校時代な。おれは体が弱かったから。拒めば殴られ、チクるともっと殴られ。弱いからだ。強くなればな。そのためには金。いや、ちがうな。金が力だ。大人になれば腕力なんていらない。金のあるやつが強い」
　ケンシロウはそこで言葉を切り、ひと休みした。「でも、大人になっておれのしたことって、年寄りや弱い者をいじめたり、だましたりで、金をかせぐことだ。カツアゲよりひどいや。おれがこんなになったのは当然だ。報いだ。誰かに秘孔を突かれた。七年殺し。もっと前かな。誰だろう。いまごろ利いてきた」
「死ぬの？」
「先のことはわからん。しかしな、人間いつか死ぬ。どう生きようが死ぬまでの間だ。強いも弱いもない。正しいも悪いも。あるのは好きか嫌いか、それだけ。リュウは、自分が好きと思うことをしろ。それがいちばんいい」
　それからは、二人して黙った。黙って、飛行機雲を眺めた。
　飛行機雲は逞しかった。希望なんてなくても生きていける。そう思わせる姿だった。

　ケンシロウの引きこもりは続いた。
　十三日目。夕方になってもユリヤがパートから帰ってこなかった。
　何があったのだろう。胸騒ぎを抑えながら待っていると、家の電話が鳴った。ユリヤからだ。声が震えていた。感情を押し殺しながら、どこか切羽詰まっていた。
「リュウ？　お母さんよ」お母さん？　ユリヤが口にすると、珍妙な言葉に聞こえる。
「いまどこ？　いつ帰ってくる？」尋ねても、要領を得ない。
「お父さんを出してちょうだい」お父さん？　お父さんって？
「無理だよ。知ってるだろ」
「いいから出して。無理でも引っ張り出して。お父さんでなきゃ駄目なの、早くして」
「わかった。やってみる。でもすぐは無理だよ」
「じゃあ、いい。伝言頼むわ。お母さんはいま、駅前の鈴成スーパーにいます。そこの事務所に来て下さい。いいわね。なるだけ早くしてよ」
　電話は切れた。何が起きたのだろう。でも、困っていたことは確かだ。
　リュウは柏手を叩いた。竜を召喚するために。何度も何度も叩いた。やっと、鳴き竜がどすどす鳴った。けれど、それきりだった。リュウが叫んでも、喚いても、応答はなかった。ユリヤの一大事だ、と怒鳴った。さらわれて監禁されてる、と嘘をついた。今すぐ鈴成スーパーに行かないと殺されちゃう。応答なし。励まし、罵り、金切り声を上げ、応答がないと、仕方なしにリュウは自分で鈴成スーパーへ出かけた。
　ユリヤはスーパーの事務室でしょぼくれていた。テーブルの中央に細かいお菓子が積まれていた。駄菓子ばかりだ。ユリヤの正面には水色のジャケットを着た女の人がいる。部屋の隅には、スーパーのエプロンを付けた男の人。なんだか、前に見たことがある。そうだ、テレビで見た。「万引きＧメンの事件簿」。あれそっくりだ。
　ユリヤはリュウを見るなり、驚いて首をそむけた。怒りと悲しみで肩がふるえていた。
　万引きＧメン、だろうか。女の人も、リュウを見て困惑していた。
「息子さんですか？」Ｇメンがユリヤに尋ねた。ユリヤは首を横に振った。激しく。
「この人は、お母さん？」今度はリュウに尋ねた。リュウはうなずいた。
「奥さん、息子さんがお迎えに来ましたよ」Ｇメンは皮肉っぽく話しかけた。「息子さんがあなたの身元引受人ですか？　子供が身元引受人とは、ちょっと困りましたねえ」
「父は病気なんです。起き上がれないから、代わりにぼくが来ました。ぼくじゃ駄目ですか」リュウは言った。
「坊やは小学生だね」隅に立っていた男の人がにこりとした。作り笑顔は醜い。嫌いだ。
「坊やじゃありません」声に、敵意がこもった。「この人の息子です」
「お母さんが何をしたか、想像つくわね」Ｇメンがリュウを見据えた。「はっきり言って犯罪よ。身元引受人は、犯罪者に責任を持てる人でないといけません」
「難しいことはわかりません。でも家族です」
　家族、という言葉が、自分でも意外なくらい、強く胸に響いた。犯罪者だろうと悪人だろうと知ったこっちゃない。家族なら守らなくちゃならない。そのために来たんだ。
「しっかりした息子さんじゃないですか。奥さん、こんな立派な息子さんに恥をかかせちゃいけませんよ」男の人が言った。
　ユリヤは背中を丸めて小さくなった。こんなに弱い母を見るのは初めてだった。
　あらかじめ用意してあった宣誓書に、リュウはユリヤと連名でサインし、拇印を押した。
　上下に並んだ真っ赤な指紋を見て、まるで共犯者だ、とリュウは思った。でも、これは絆だ。共犯の絆が、ぼくたち親子の絆なんだ。
「帰ろう、ユリヤ」リュウは言った。
「ユリヤ？」Ｇメンが冷笑的な笑みを浮かべた。「お母さんをそう呼んでるの？」
「ええ。お母さんの名前ですから」リュウは答えた。

　帰り道、ユリヤはずっと黙っていたが、人通りの少ない道まで来ると突然泣き出した。むしゃくしゃしてつい万引きしてしまったこと。子供の時から盗み癖があったこと。でも結婚してからはずっとしていなかったことを、泣きながら告白した。
　泣きじゃくるユリヤの手を引いて歩いた。通りすがりの人が変な目で二人を見た。
　見るなら見ろ。リュウは心で叫んだ。もっと見ろ。これがぼくたち親子だ。
　自宅のある丘の下まで来て、坂道をよたよたと下りてくるケンシロウを見つけた。
　スーツ姿だが、ワイシャツの裾がはみ出していたり、ネクタイの結び目がおかしかったり、スラックスなのにスニーカーを履いていたり、生まれて初めてスーツを着たホームレスみたいだ。一歩ごとに体が揺れて、今にも膝から崩れそうで、それでも、一生懸命に歩いていた。
「今頃迎えに来たって遅いよ」リュウは手を振った。ケンシロウは手を振り返した。
「かっこ悪いケンシロウ」ユリヤは泣きながら笑った。「弱っちいね」
「人間って、ちょっと弱いくらいがちょうどいいんだと思うよ」リュウは言った。
　バス停まで来て、ケンシロウはベンチに倒れ込んだ。顔が白い。二百メートルもない距離なのに、精も根も尽き果てたような顔だ。しかし、その顔には表情が戻っていた。
「すまん。なかなか起き上がれなくて」ケンシロウは詫びた。
「謝るのはあたしだよ」ユリヤはケンシロウの横に座り、背中を撫でた。「リュウがね、助けに来てくれたんだよ」
「おれも、リュウのおかげで屋根裏から抜け出せた」
　はは、と笑った。苦しみから絞り出すような笑いだった。でも本物の笑いだ。
　みっともない家族だ。でも、許し合えるから家族なんだ。人間は、みっともなさでつながることだってできるんだ。
　三人で手をつなぎ、長い坂道をゆっくりと上った。飛行機雲の消え残りが空に浮かび、夕陽を浴びていた。竜が空に帰っていく姿に、リュウの目には映った。
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	<title>なみまくら</title>
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	<published>2010-07-01</published>
	<updated>2010-07-01T01:36:03Z</updated>
	<summary> なみまくら【波枕】 〔雅〕旅に出て、船の中や海岸近くの宿で泊まること。 「病気で動けないお客さんからお代をいただくのは失礼だと女将さんが申しまして」 　どう見ても八十過ぎの仲居が、大儀そうに運んでき...</summary>
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		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>なみまくら【波枕】<br />
〔雅〕旅に出て、船の中や海岸近くの宿で泊まること。</p></blockquote>

「病気で動けないお客さんからお代をいただくのは失礼だと女将さんが申しまして」
　どう見ても八十過ぎの仲居が、大儀そうに運んできたお盆には、市販の風邪薬と吸い飲み。枕元に置いて、「そういうわけですから、このお薬はサービスということでして。はい、お代はけっこうでございます」
　仲居は出ていった。畳をすって歩く白足袋の、かかとの黒ずみが目に残った。
　吸い飲みなんて、見るのも何十年かぶりだ。理科の実験用具を思わせる、冷たく取り澄ましたガラスの容器。細く長い吸い口がにゅっと延びて、先がすぼまり。透明な水が、熱で浮腫んだ目にはつらい。
　女将の気遣いはうれしく、半面で心苦しい。客室には魔法瓶もコップもある。立って歩けないわけでもない。吸い飲みなんて置いて行かれて、このうえ尿瓶でも持ってこられたら、身体が勘違いして病を重くしてしまいそうな。ただの風邪なのに。
　とにかくも腹這いになり、吸い飲みで錠剤を飲み下す。ぬるい水が顎にたれて、タオルでぬぐう動作も、どことなく演技めく。なにごとも形から入れってことか。こうして重い病を演じているうちに、本当に動けなくなったりして。
　咳をしても一人、か。それにしてもみんな薄情な。

　海辺の町に来ていた。
　田舎の高校を卒業し、東京に本社のある電子器機メーカーに就職して、最初に配置されたのがこの町の工場だった。かれこれ三十年も前のことになる。
　先月、その工場の閉鎖が本決まりとなり、それでは見納めに行こうじゃないかと、いまは本社で役職についている同期の仲間四、五人と休暇を利用して見学旅行に出た。
　三十年前とは製作している製品も工程も違う。我々が働いていた当時は、戦時中に軍需工場だった頃の暗い影を残していたが、いまは隅々まで明るくなり近代化されていた。それはいいのだが、ベルトコンベヤの半分も稼働していなかったのは悲しかった。
　工場見学が終われば、特に観光名所のある土地ではなく、旅館に入って早めに湯に浸かり夕食をすませ、酒場を求めて夜の町に繰り出したのだが、どうやら湯冷めしたらしい。変に酔いが回ると思っていたら、朝方には風邪をひいていた。体温計を借りて測ってみたら四十度近い熱だった。
「二、三日ゆっくりしてけよ。疲れが出たんだよ。ものの本によれば風邪っていうのは身体の調節なんだそうだ。なんでも、崩れたバランスを熱を出して整えるらしいな」
「四十度の熱ならかえって安心だ。がっと上がってがっと下がるってもんだ。俺たちの年代で危ないのは微熱のほうだ。甘く見てると、こいつが重病の兆候だったりするから」
　同じ部屋で朝食を食いながら話しかけるのを寝床で聞いていた。虚ろに笑いながら応じていたが、彼らがどやどやと次の目的地へ出発してしまうと、悪寒の走る身体に寂しさが迫り、天井は高くなり、畳も広くなり、さすがに心細くなってきた。
　そこへ、年老いた仲居が風邪薬を持ってやって来たのだった。

　旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる、と芭蕉の辞世の句ではないが、旅先で病むと魂が離れやすくなることはあるのかもしれない。熱に浮かされた心が夢に見るのは枯れ野ではなく、三十年前の海だった。
　海辺の町といっても、三十年前とは様変わりし、海は遠くなっていた。
　変われば変わるものだ。夏は海水浴でにぎわい、冬は冬で釣り船が出ていた海は埋め立てられ、工場地帯に変貌していた。
　国道の向こうがすぐ砂浜だった。砂浜が消えたいまも防砂林は途切れ途切れに残り、国道のこちら側で、アカマツと白砂の公園となって海辺の風情を濃くとどめているのは、海そのものが見えないだけに妙なものだった。
　旅館はその公園の隣にあった。大正時代から続く老舗旅館だというが、我々の誰も、この旅館を覚えてはいなかった。田舎出の少年職工にはまるで縁がなかったからか。人の記憶とは身勝手なものだ。土建屋の資材置き場なんかを懐かしがって、門構えも立派な老舗旅館をみながみな忘れて、こんな建物があったのかと首をかしげたくらいだ。
　商店街もさびれていた。工場地帯のおかげで町の人口は増えたはずなのに、町を歩いているのはジジババばかり。未成年の身で遊んだ裏路地の飲屋街も殺風景になり、形ばかり看板が出ているものの、どの店が開いていてどの店が閉まっているのかもわからい有り様だった。昨夜は、懐かしさの置き所が見つからないままさまよい歩いた。見覚えのある看板を見つけて飛び込んでも、店の中はすっかり変わっている。酔いの勢いでやけくそになり、何年も前から閉じたままのようなシャッターを叩き、身も世もないような声で昔の女の名を呼んだりしていた。

　あの錯乱が鎮まらないまま病熱に変わったのか。五十近くになって年甲斐もない。
　薬を飲んだ後は、開き直って病人に徹した。こうなったからには、むしろ病を寝床に根付かせるくらいの覚悟で寝込んでやろうと、汗ばみながら、ひたすら目を閉じていた。
　しばらくして、さっきの仲居がまたやって来た。今度は水枕を抱いている。
「お休みのところすみません。どうですかご気分は。女将さんがね、これを持って行きなさいと申すもので」
「水枕ですか。なんだか懐かしいな」
「今の若い人はあまり使いませんでしょう。冷えぴたシートっていうんですか、私の孫も熱を出すとあれを額に貼りつけまして。ええ、便利ですが無愛想なものです」
「女将さんはずいぶん親切な方ですね」
「昔は長逗留のお客さんが多かったので。都会から療養に来るお客さんもいましたし」
「女将さんはこの土地の人ですか」
「ここの箱入り娘ですよ。他所の土地に出たことは一度もなかったでしょうね。お婿さんは早くにお亡くなりになって、それからは女手ひとつで。はい、どうもすいません頭をお上げになって。はい、けっこうでございます。これで少しはお楽になるでしょう。ではでは。ごゆっくりお休みくさだいまし」
　頭を動かすと水枕の中で氷が揺れて、ガバリと音がした。熱を帯びた目蓋の裏で、凄惨なくらいに白い波がしらの幻影が浮かび、砕けながら落ちていった。
　水枕ガバリと寒い海がある
　と、西東三鬼のあの有名な句が、頭にあったらしい。
　水枕の冷たさが後頭部に染みてくる。ゴムを通して頭に当たるごつごつした感触からして、冷蔵庫の製氷器の氷ではなく、かち割りの氷らしい。頭を動かすたび、氷のこすれ合うくぐもった音が鳴る。たすきがけの女将が、ぶ厚い氷に千枚通しを振り下ろし砕いていく、勝手なイメージが浮かんだ。
　昔、実家に冷蔵庫がなかった時代、子供が熱を出すたび母親が近所の氷屋から氷を買ってきて台所で砕いていた。その姿が女将に重なったのだが、いま時そんな手間をかけずとも、かち氷くらいスーパーでも売っている。
　女将の姿は昨日、玄関のロビーで我々一行に挨拶をした姿を見たきりだ。我々より十は年上か。色白で、目元のきりりと引き締まった美人だった。どこかで見た顔だと思った。しかし旅館の存在自体を覚えてないのに女将を知るはずがない。三十年前なら三十歳前後だろうか。当時を思い返しても、彼女との接点があるとは思えなかった。

　熱にさいなまれ、あえぎながら、眠りに沈み、また浮き上がり、うつらうつら時を過ごした。昼には粥をすすり、また薬を飲み、水枕を換えてもらうと、ガバリという氷の音は新鮮な響きを取り戻し、頭の中にまた海が現れる。消耗した身体を削るように、波がしらはいっそう鮮烈に、残忍なほどの凄まじさで打ち寄せてきた。
　しかし、どうしようもなく衰弱しながらも、案外、身体の核の部分に潜んでいた艶めいたものが、防御を解かれて露わになったりするものだ。病の底から頭をもたげてくる情欲は、それ自体が病のようなものだった若い頃の性欲と、同質のものかもしれない。
　この町で働き始めた当時、我々はまだ女を知らず、獣めいた性欲を持て余していた。いつ暴れ出すかもわからない。かくなる上はしかるべき店で女を買うしかないと夜に宿舎を抜け出し、砂浜で車座になって話し合った。職場の先輩から聞き集めた情報をもとに、どの店に行くか議論し、腹を決めて立ち上がった。
　防砂林を抜けながら、偶然、交尾している猫に出くわした。あられもない姿を目の当たりにして、急に羞恥心が込み上げた。そんなつまらないことまで覚えている。
　初めての女性はだから、本職の女性なのだった。伊豆大島の、波浮港の生まれだと言っていた。『伊豆の踊子』のモデルも波浮港の生まれなんだと、まるで親戚のように話していた。縁で結ばれた相手でもないのに、肉付きから肌触りまで覚えている。
　女は、死ぬと初めての男に手を引かれて三途の川を渡るのだと、聞いたことがある。男が先に死ぬと決めてかかっているのだから、考えてみれば理不尽な話だ。
　女が先に死んでいた場合はどうなのだろう。男は、初めての女に手を引かれて三途の川を渡ってはいけないのだろうか。それとも男はみな、先導なしでとぼとぼ三途の川を渡らねばならないのだろうか。

　埒のないことを考えているうち、部屋は翳っていた。起き上がり、窓を開ける。国道をまたぐ歩道橋を渡り、工場から帰っていく労働者の群が見えた。
　ふらつく足で階段を下り、ロビーの電話を借りて妻に連絡を入れた。泊まり客は自分だけと聞いていたが、旅館の中はなにやら慌ただしく、宴会の準備をしているようだった。工場関係者のお偉い方が集まるらしい。さびれながらも、こうした宴会などでこの旅館はもっているのだろう。
　電話を終えて腰を上げる。事務室のドアが開いて女将が出てきた。メモ書きのようなものを手に調理場へ急ぐ様子だったが、こちらに気づいて足を止め、軽く頭を下げた。
「ご気分はいかがですか。お薬はお体に合いましたでしょうか」
　何があったのか。かすかに眉をひそめた微笑に、背筋がぞくりとした。
「おかげさまで。けれど、なかなか熱は下がりません」
「水枕はいかがしましょう。あまり冷やしすぎると返って良くないといいますが」
「お願いします」
「夕食はまたお粥にしましょうか。それとも精のつくものを」
「お粥で」
「かしこまりました。これから少々騒がしくなりますが、ごゆっくりお休みください」
　ゆったりとした物言いながら、芯にはぴんと張り詰めたものがあった。

　夕食の粥を運んできたのは老女の仲居ではなく、忙しい時だけ手伝いをする近所の主婦と思える人で、無愛想に用事をすませ、さっさと出ていった。水枕を換えたのも同じ人だった。
　薬を飲んでからトイレに立ち、部屋に戻れば、寝汗に湿った蒲団が身体の形のままに皺寄り、寝ていた本人よりも生々しく、身悶えしているようで、その醜悪さに目をそむけ、枕元を素通りして窓際の椅子に腰かけた。咳き込みながら煙草に火をつける。窓を開ければ、黒々とした松林の向こうに、工場のタンクや煙突が妖しい色で夜陰に浮かんでいる。夜風は微かに潮の匂いをふくんでいた。
　ひと昔前の流行歌を歌う声が真下の宴会場から立ち上ってくる。その歌声に誘い出されて、三十年前、浜辺で焚き火を囲み仲間と歌った春歌が甦ってきた。打ち寄せる波に向かい、歌うというより叫んでいた。くるぶしを舐める波の泡にも欲情した。若かったとはいえ、あられもなく卑猥な歌を、よくも大声で歌えたものだ。

　夜更けにふと、目覚めた。後頭部の冷ややかさに、水枕と違う感触があり、見上げれば青白い女の顔があった。いつの間にか膝枕をされていた。固く閉ざした太腿の間に、自分の後頭部がある。それにしても、この冷たさはどうしたことだ。
　誰なのだ。顔を確かめようとして仰向けた目を、覆うように女の手が下りてきた。その手もまた、冷ややかだった。
　誰の手だろう。不明のまま、懐かしさが瞼に染みてくる。
　波音が、くっきりとした輪郭をもって耳に迫る。ひたひたと、着物の裾を広げるようにして、さざ波が部屋の中に及んでくる。
　いや、女の身体を中心に、さざ波は四方に広がるような。女の身体から波は立ち、広げてはまた引き寄せるような。
　気がつけば、膝枕をされたまま夜の海を漂っていた。女の手を透かして満月が見えていた。
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	<title>とら</title>
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	<published>2010-06-04</published>
	<updated>2010-06-03T22:11:45Z</updated>
	<summary> とら【虎】 アジア特産の猛獣。背中から腹にかけて黄色の地に黒いしまが前後方向に対して直角に有る。口が大きく、鋭い牙（キバ）と爪（ツメ）を持ち、眼光が鋭い。皮は敷物などに用いられた。〔ネコ科〕 　ぼく...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>とら【虎】<br />
アジア特産の猛獣。背中から腹にかけて黄色の地に黒いしまが前後方向に対して直角に有る。口が大きく、鋭い牙（キバ）と爪（ツメ）を持ち、眼光が鋭い。皮は敷物などに用いられた。〔ネコ科〕</p></blockquote>

　ぼくの学校にはトラがいます。
　どうぶつ小屋をすみかにしているけど、かっているわけではありません。
　いつからトラがすみついたのか、わかりません。お父さんが小学校に入った時にはもういたというから、ずいぶんむかしからいるようです。
　お父さんが人から聞いた話だと、どうぶつ小屋にははじめ、うさぎとモルモットとインコがいました。ある日の朝、しいく係がエサをやりに小屋に入ったら、うさぎもモルモットもインコもいなくて、かわりにトラがねていたそうです。たぶん、トラがみんな食べちゃったのです。けれど不思議なのは、どうやってトラがどうぶつ小屋にしんにゅうしたのかで、なぜかというと、小屋にはカギがかかっていたからです。
　しいく係はびっくりして、しょくいんしつに走っていって先生にトラがいることを教えましたが、先生は学校にトラなんているはずないと言ってしんじませんでした。じっさいにどうぶつ小屋に行ってトラがねているところを見ても、いるはずがないものはいないのだと言いはって、だからぼくの学校にトラはいないことになっていますが、じじつとしてトラはいます。いるものはいるのです。
　ぼくがはじめてトラを見たのは入学式です。体育かんのえんだんの、校きを立ててある横にトラはねそべって、首だけ上げてぼくたちを見ていました。じっとしているので、はじめはかざりだと思いました。校長先生や、ＰＴＡ会長も、トラをぜんぜん気にしていませんでした。そのうち、トラがうごいて前足をぺろぺろなめました。シタがすごく長かったです。ぼくはおおっと思いました。でも、先生や、ほかの子どもや、おとうさんやおかあさんが、みんな静かにしていたので、ぼくもだまっていました。本当はトラなんかいなくて、ぼくにだけ見えるまぼろしかなと、思いました。でも、入学式がおわったら、みんなが「あのトラすごかったね」とか「ネコみたいだったね」とか、ひそひそ話したので、やっぱりトラはいたんだと、ほっとしました。
　子どもぶんこで、トラについてしらべようとしたら、どうぶつずかんの、トラのページだけ、やぶけてありませんでした。
　トラは、夜はどうぶつ小屋でねますが、朝になると、学校のどこでも、じゆうに歩きます。朝礼の時とか、校長先生がお話しをしている台の下で、体をなめたりしてます。国きけいようとうを、ツメとぎの柱にしてます。ろうかを歩いてると、するどいツメがゆかを引っかく、カシャカシャという音がします。じゅぎょう中でも、きょうしつの後ろからのっそり入ってきて、つくえの間を歩きまわります。先生はなにも言いません。きょろきょろトラを見てると、よそ見をするなと、先生にしかられました。トラは、くんくん鼻をならして、ぼくたちの足のにおいをかいだり、つくえの中に鼻をつっこんだりします。つくえの中に、きゅうしょくののこりのパンをかくしていると、それを取って食べたりします。食べる時は、二本の前足でパンをおさえて、がつがつ食べます。食べ終わると、かならず、シタで鼻をなめてから、前足をなめて、それから、床に落ちたパンくずもきれいになめます。
　じゅぎょうをしている先生の横で、ねそべることもあります。トラはおとなしいので、先生はなにも言いません。あおむけになって、しっぽをふると、ネコみたいでかわいいです。先生が黒板をふいて、チョークのこなが顔に落ちてきて、トラはクシュンとくしゃみしました。ぼくたちはクスクスわらいました。先生はしずかにしなさいと言いました。
　ぼくたちはだんだん、トラのそんざいになれて、気にしなくなりました。でも、ろうかの手あらい場の下にいて、気がつかなくて、ぼくが手をあらってる時に、おなかをつっつくものがあるなと思って、下を見たら、トラと目があって、そんな時は、やっぱりぎょっとします。
　前に、じゅぎょう中に、おしっこがしたくなって、先生に言ってトイレに行こうとしたら、トラがろうかをふさぐようにして寝そべっていて、こまりました。どうしようかまよったけど、おしっこがもれそうなので、こわいのをがまんして、トラの後ろのほうを、しっぽをふまないように気をつけながら、とおりました。そうしたら、トラがのそのそついてきました。走って、トイレのうんちのほうに入って、カギをしめました。トラが、ツメで、ドアをカリカリ引っかく音がして、こわくて、トイレに入っているのに、おもらしをしてしまいました。休み時間になって、きょうしつにもどったら、みんな笑いました。
　ともすけ君が、ぼくのことを「しょうべんたれ」と言って、からかいました。
　次の日、ともすけ君はいなくなりました。トラが食べたのだとみんなうわさしました。でも、学校にトラはいないことになっているので、ともすけ君は転校だそうです。
　トラは、いじめっこを食べてくれます。でも、いじめられっこも食べます。いじめっこでもいじめられっこでもなくても、食べます。だから、だれでもいいみたいです。男の子でも女の子でも、太っててもやせてても、成せきゆう秀でも頭が悪くても、かんけいないみたいです。
　トラが子どもを食べてるところを見た人はいません。肉の食べのこしや、服のきれはしや、血のあとものこりません。でも、子どもがいなくなると、トラの口のまわりの毛に血みたいなものがついてるので、食べたんだなとわかります。でも、学校にトラはいないことになっているので、トラをたいじしようと考える先生はいません。いないものはたいじできないからです。トラは、大人を食べないので、先生はへいきです。
　トラに食べられた子どものせきには、よそから転校してきた子がすわります。それで、みんな、なんとなく、はじめからそんな子どもはいなかったんだなという気になります。
　おとうさんも、小学生の時、友だちをなん人か、トラに食べられたそうです。でも、おとうさんが言うには、がっこうにトラがいることが、きょういくいいん会にばれると、校長先生がクビになるので、かくしているそうです。でも、運動会や学習はっぴょう会に、きょういくいいん会の人も来るので、その時に、トラを見ていると思います。ぼくがそう言うと、おとうさんは、トラがいることが文ぶか学しょうにばれると、きょういくいいん会の人がクビになるので、やっぱりかくしているのだと、言いました。
　トラがいつまで学校にいるのか、わかりません。ぼくは学校を卒業したので、トラに食べられる心配はなくなりました。大学を卒業し、社会人になり、子どもの頃を思い返すたび、あのトラは何だったのだろうと、不思議になります。なんにせよ、トラのいる学校は僕にとって、遠い思い出になっていました。
　しかし、結婚して子供が生まれ、その子が学齢期を迎えると、虎の棲む小学校はあらためて現実問題として我が身に迫ってまいりました。
　先日、教育委員会の役人が我が家を訪問し、入学の手引きを置いて帰りました。虎について質問できる雰囲気ではありませんでした。出来れば、息子をあの学校に入れたくはありません。しかし義務教育は憲法によって定められていますし、息子を私立に入れるだけの経済的余裕は私にありません。息子を、私や私の父と同じ小学校に入れるしかなさそうです。それに、みんなが隠しているだけで、あるいは気づかないだけで、本当は、どの小学校にも虎が棲んでいるのかもしれないではありませんか。
　児童が虎に食べられるといっても、数としてはごく少数です。虎がいるから学校に行くなと言うのは、交通事故に遭うから道路を歩くなと言うようなものかもしれません。
　ただただ私としては、息子が虎に食われることなく無事に卒業してくれることを祈るばかりです。


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	<title>とうしみとんぼ</title>
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	<published>2010-06-04</published>
	<updated>2010-06-03T22:08:10Z</updated>
	<summary> とうしみとんぼ【灯心とんぼ】 〔「とうしみ」は「とうしん」の雅語形〕トンボの一種。からだは細くて緑色。羽が弱い。イトトンボ。とうすみとんぼ。 　携帯電話が手から滑り落ちた。足下に落ちたそれを拾おうと...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>とうしみとんぼ【灯心とんぼ】<br />
〔「とうしみ」は「とうしん」の雅語形〕トンボの一種。からだは細くて緑色。羽が弱い。イトトンボ。とうすみとんぼ。</p></blockquote>

　携帯電話が手から滑り落ちた。足下に落ちたそれを拾おうと、慌てて腰をかがめた拍子に、つま先で蹴ってしまった。
　橋の上でのこと。集団下校の帰りだった。
　携帯電話は菜々子の指先から逃げ、菜々子の前を歩く、集団下校の仲間の足下へと滑り込んだ。誰かの足が携帯電話を蹴り、別の誰かがさらに蹴った。携帯電話は彼らの足下から弾き出され、ガードレールの下をくぐって川に落ちていった。
　またたく間の出来事だった。声を上げるひまもなかった。
　偶然？　誰も気づかなかったの？　うそ。わざとだ。菜々子は仲間の背中をにらんだ。みんな黙々と歩いているが、背中で揺れるランドセルがくすくす笑っていた。
　携帯電話はコンクリートの川底に沈み、水色のボディが光の屈折でゆらゆらしていた。
　菜々子の心が、ポキリと折れた。
　やっぱり、山村留学に行こう。折れた心で、そう決めていた。

　菜々子の小学校では、生徒は学校に携帯電話を持ち込んではいけない決まりだ。菜々子は特別に許可をもらい、携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた。
　菜々子は五年生だ。お母さんは首都高速道路で交通事故に遭い、それからずっと、意識をなくして入院している。いま、菜々子はお父さんとふたり暮らしだ。緊急の場合にはすぐさま連絡がとれるようにと、先生が配慮してくれたのだが、クラスメイトの中には特別扱いをやっかむ者もいた。
　だから、めったに人前では携帯電話を使わない。さっきは自分の携帯電話と同じ着信音が聞こえて、もしやと思い手に取ったらば、自分のでない、たまたますれ違った大人の携帯電話だった。ほっとして、手がゆるんだ。とたん、するっ。かしゃん。
　電話の音に敏感になっていた。お母さんの事故を最初にしらせた、家の電話の呼び出し音が耳に甦るからだ。トラウマになっているのかな、と思う。静まり返った教室でも、着信音を空耳に聞いた。そっと携帯電話を手にして、先生に注意された。クラスメイトの視線が痛かった。消え入りたいくらい、苦しかった。
　お母さんの事故以来、心が不安定だ。お父さんは毎日仕事帰りに病院に寄って、菜々子の面倒を見きれない。「五年生になったら一年間、伊豆の山村に留学してみたらどうか」とお父さんが言い出したのは去年の十一月だった。
　事故から半年が過ぎていた。回復の見込みはなく、かといって、容体が急変する怖れも遠退いていた。もしものことが仮に起きても、半日で病院に駆けつけられる距離だ。
　イヤ。絶対イヤ。菜々子は拒否した。お母さんの近くにいたかった。田舎暮らしなんてしたくなかった。なにより、お父さんに厄介払いされるみたいで怖かった。頑固に拒みとおして、五年に進級した。
　なのに、川に沈んだ携帯電話を橋の上から見下ろした、そのとたん、あっけなく心が折れた。ぽきん、という音まで聞こえた。
　それが四月の終わりのことだ。早々に手続きをすませ、五月の連休明け、菜々子の山村留学は始まった。伊豆半島の付け根にある静かな山里だ。
　菜々子は区長さんの家にホームステイした。農家で、広い庭と長い縁側があった。子供の日は過ぎたのに、鯉のぼりが庭に泳いでいた。緋鯉が真鯉の上にあった。菜々子の肩からどっと力が抜けた。力が抜けすぎて、理由のわからないまま、涙がぼろぼろ零れた。

「菜々子ちゃん、スイカお願い」とおばさんに言いつけられ、菜々子は「はあい」と返事し、サンダルをつっかけ裏庭に出た。井戸にスイカを冷やしてある。
　屋根があって、滑車がついて、日本昔ばなしみたいな井戸だ。ここで野菜を洗ったり冷やしたりする。屋根には苔が生え、草が伸び、大きな穴が開いたままになっている。
　蓋をのけると、暗い水のにおいがする。吸い込むと肺の中まで暗く染まりそうな、重いにおい。慣れない頃は井戸に落ちてしまいそうで怖かった。覗き込むと、すっと、頭が重くなる。井戸の底は地球の中心に近いぶん、重力も強いのではないか。
　いまは平気だ。井戸に引き込まれそうな力はいまも感じる。ただ、重力にあらがうだけの踏ん張りが、菜々子の足腰についたのだ。
　井桁(いげた)に手をかけ、覗き込む。空の光が、屋根の穴をとおり抜け、暗い水面に円く差し込む。円い光の中心に浮いた黒い玉が、スイカだ。スイカに菜々子の影が重なる。
　頼りない影。自分の影が自分でないみたいな。井戸は深くて、お母さんの眠りも、これくらい深いのではないかと考える。事故後しばらくは、呼びかければ脳波計が反応した。見た目に変化はなくても、声はちゃんと届いていた。それがひと月もすると、声が届かなくなった。眠りが深くなったのだ。てのひらをペンでつつけばわずかに反応する。反応がなくなれば脳死だと、お医者さんは言った。
　脳死？　脳死というのは、眠りの底が抜けるということ。
　よく見れば、井戸の底の水面はかすかに揺れている。井戸水は流れている。おじさんがそう教えてくれた。井戸水が流れる？　ああ、地下水が井戸をとおり抜けていくのさ。
　スイカは、ロープを結わえた笊(ざる)に載せてあるので、ロープを手繰り寄せれば引き上げられる。井戸で冷やしたスイカは重くなる。これは菜々子の発見だった。
　濡れたスイカを抱え、井戸端にしゃがむ。風が吹いて竹藪がざわめく。蝉の声は遠い。
　いつの間にか、井桁に蜻蛉(とんぼ)がとまっていた。
「あ、イトトンボ」菜々子は呟いた。
　井戸水のにおいに誘われたのだろう。蜻蛉だって、よく見ればそれなりに凶暴な面構えなのに、これにはそれがない。カゲロウのようにはかなくて、こわれやすく、消え入りそうで。なにを食べるのだろう。水だけ飲んで生きていそうだ。全身が神経の糸でできているような、ささやかな生き物だ。すっと飛び立てば、すぐ空中にまぎれて目で追えなくなる。目に見える世界と見えない世界の境を、イトトンボはすずやかに飛ぶ。

　五年生は、菜々子をふくめて四人いた。六年生は二人いて、ひとつの教室で一人の先生が授業を同時進行させた。勉強がはかどらないだろうと思ったら、そうでもなかった。むしろ都会の学校より授業の中身が濃くて、びっくりした。
　教科書の授業のほかに、五年生と六年生は自然研究という授業があった。留学の子と地元の子が二人ひと組になって、身の回りの自然からテーマを選び一年かけて研究する。
　菜々子は条太郎という男子と組んだ。男子と組むだけでも嫌だったが、条太郎が研究していたのはクモだった。空の雲？　ううん、虫の蜘蛛(くも)。げっ。
　ヤだ、ぜったいヤだ。ヤダって言ったって俺もうやっちゃってるし、おまえと組むの決めたの先生だし。おまえなんて呼ばないでよ。
　条太郎は一人で研究をしていたのだ。後から来た転校生が女子だからって、有無は言わせなかった。
「じゃあ、俺は蜘蛛を調べるから、おまえ網の担当な。それでいいだろ」
「網？　蜘蛛の巣？」
「巣じゃなくて網。ウェブ。蜘蛛の巣なんて言うのは素人だ」
「素人でいいけど」
「蜘蛛はかしこいんだよ。たとえばさ、なんで蜘蛛は自分の糸に足をくっつけないで歩けるか、おまえ知ってる？」
「おまえなんて呼ばないでよ」
「ネバネバがあるのは横糸だけで、縦糸にはないから。蜘蛛は縦糸だけ伝って歩くんだ」
　毎週金曜日の午後は、自然研究の時間だ。条太郎と菜々子は蜘蛛を探して神社やお寺を歩いた。蜘蛛がいそうだとにらむと、条太郎は他人の家の庭でも平気で入った。
　菜々子は条太郎に、蜘蛛の網を標本にとる方法を教わった。これと決めたら、白のラッカーを網に吹きかけて見やすくし、黒い台紙に水糊を塗って、ぺたんと貼りつける。一発勝負なので緊張した。失敗すると糸が切れたり、貼りつける瞬間に網がずれたりで、台無しになる。うまくいけば、標本は美しかった。蜘蛛の網はそれぞれ個性的で、機能的で、ある意味、知的だった。
　条太郎は種類ごとに分けて虫かごに蜘蛛を飼っていた。蜘蛛を飼うなんて、どういう神経だろう。条太郎の虫かごを菜々子はなるべく見ないようにした。網をきれいだと思えるようになっても、蜘蛛そのものはやっぱり怖い。網の中心でじっとしているならまだいいけど、動き出すとぞっとする。背筋に寒気が走る。
　いちど、条太郎が蜘蛛の糸を指先でつまみ、小さな蜘蛛をぶら下げたまま菜々子の鼻先に突きつけたときは、手にした図鑑で思いきり殴ってしまった。「冗談だよ冗談」と言いながら条太郎は鼻を押さえたが、てのひらの隙間から見る見る鼻血が流れ出した。
　それからしばらくは、教室にいても、お互い口をきかなかった。
　仲直りはちょっとしたきっかけだった。
　庭に立っていたら、ひと筋の糸が微風に乗ってふうわりと目の前を流れていったのだ。目に見えない細さだが、光の当たり具合で部分的に白く光ったり消えたりした。
　あっ、蜘蛛が糸を飛ばしてるんだ。
　心が躍り、菜々子は条太郎の家に電話をかけた。条太郎は自転車を飛ばしてやってきた。家のひさしから庭のモチノキにかけて、糸はつながっていた。七、八メートルはある。糸を伝う蜘蛛を見て、条太郎は「オニグモだ」と断定した。茶色くて大きな蜘蛛だ。菜々子はスケッチブックを開き、網を作る手順に即して何枚も写生していった。
　オニグモは急き立てられてでもいるみたいにそそくさ働いた。かなり大きな網で、人間にたとえれば、校庭いっぱいに網を広げるのに等しい。
「あんまり大きくし過ぎて、不安にならないのかな」
　菜々子はオニグモの気持ちになった。蜘蛛に感情移入したのは初めてだ。
「いっぱい糸を使えば、それだけたくさん獲物を仕留められるから」条太郎は言った。
　けれど、菜々子が感じた不安はそういうことではなかった。
　オニグモは空そのものに網を張っているふうに見えた。空の途方もない広さに見合うだけの網を張ろうとして、網を大きくすればするほど、自分はちっぽけな存在になり、身の置きどころをなくしてしまうのではないか。空の一角で、光や風に体をさらして待つだけの身になり、寂しさに押し潰されそうにならないのだろうか。
　自転車のスポークの形に似た、放射状の縦糸を張り終わり、オニグモはその中心から渦を描くように横糸を張りめぐらしていく。仕上がりつつある網の向こうで、空は赤みを帯びていった。山の端に積み重なって湧き立つ雲が、夕陽をはらんで燃え上がる。夕陽はスケッチブックを照らし、条太郎もオニグモも照らした。条太郎の顔を、きれいだと菜々子は思った。整った顔立ちだとは認めていたが、きれいだと思ったのは初めてだった。
「おまえ、蜘蛛を気持ち悪いと思ってるだろ」条太郎は言った。「蜘蛛は弱い生き物なんだ。弱くて臆病なんだ。網っていうのはさ、弱くて臆病なやつが生き延びてくために発明した、知恵の結晶なんだ」それから、「だから網は美しいんだ」と付け加えた。
　美しい、なんて言葉を照れもせず条太郎が口にしたから、菜々子はびっくりした。
　条太郎の目は澄んでいた。見るものと見られるものがひとつになっていた。蜘蛛の網の中心に条太郎はいた。そこがいまの条太郎の、世界の中心だった。
　すっかり日が落ちてあたりが暗くなった頃、網は完成した。条太郎は菜々子がホームステイしている家で、夕飯を食べて帰っていった。

　夜更けに目覚めた。蚊帳の中で。蚊帳は蜘蛛の網を思わせる。菜々子は、夜闇の庭に広がる網を思った。いまも網の中心で息をひそめているはずのオニグモを思った。
　菜々子は夢想した。網の中心にいるオニグモはお母さんだ。お母さんが夜空に網を広げている。菜々子は網の中心から遠く離れ、端っこで暴れる羽虫だった。ワタシハココニイル。いくらばたついても、お母さんは気づかない。ワタシハココニイル。必死で羽を震わせても、震動の波は網に吸収され、深く眠ったお母さんを揺り動かせない。
　そんな夢想をして、菜々子は泣いた。

　菜々子が初潮を迎えたのは夏休みの四日前だった。
　予感はあった。少し前から下腹が重苦しかった。生理のことは教わっていたので、それかな、と感じながら、認めるのが怖くて予感を遠ざけていた。来なければいいのに。ずうっと来なければいいのに。なのに、とうとう来た。午後の時間。よりによって体育の授業中に。太陽が暗くなった。黒い太陽が校庭から熱を奪っていった。汗が冷えて、菜々子はへたり込んだ。
　保健室には生理用品も替えの下着もあった。こんなの、なんでもないことなんだよ、というように。ブラウスとスカートに着替え、ベッドに横になって校庭の声を聞いてると、世界中のなにもかもが自分から遠ざかっていくようで、せつなかった。
　生理になんてなりたくなかった。子供のままでいたかった。妊娠できる体になったのかと思うと、体の中が暗くなった。自分の体がやましいものに感じられた。
　お母さんを思った。これでお母さんと同じだ。自分の体の暗さが、お母さんの眠りの暗さにつながっているように思えた。
　午後の時間をずっと、ベッドで過ごした。放課後になっても起き上がれなった。ベッドは白いカーテンで人の目から隠されている。カーテン越しに、膝をすりむいた下級生の泣き声を聞いた。すでに初潮を体験した上級生が訪ねてきて、短い話をして帰っていった。それ以外は放っておかれた。廊下を走る音がした。たてぶえが鳴っていた。いろんな音が遠く近く聞こえ、身の置きどころがなくなりそうで、つらかった。
　風が吹いて、窓のカーテンがふくらんだ。
　蜻蛉がすうっと飛んできて、窓の敷居に止まった。あっ、イトトンボ。
　細い尻尾を、ぴんと伸ばして、アンテナみたいに。菜々子はそっと指を伸ばした。イトトンボは糸を引くような軌跡を残して、窓の外に飛び去っていった。
　菜々子は上履きをはいて、窓から外に下り立った。
　裏庭は柵のないまま裏山につながっている。痛みの残る下腹を片手で押さえながら小径を歩き、菜々子は裏山へ入っていった。誰にも会いたくない。家に帰りたくない。森の奥深く分け入って、自分を消してしまいたかった。
　怖いくらい旺盛に茂った枝葉が重なり合って光をさえぎり、森はほの暗い。歩めば土の陰気さが足下からわきたつ。自然がやさしいなんて、うそだ。やさしい自然なんて人の作り物なのだ。本物の自然はさびしい。ひとりぽっち、自然に包まれていると、心が押し潰されそうになる。
　途中から道をそれ、岩を伝い、渓流に下りた。流れに足をひたすと、水の冷たさが下腹に響いた。そういえば、携帯電話、東京の川に落としたきりだ。あの携帯電話、いまも沈んだままだろうか。川底で、誰かからの電波を受け取ったりしないだろうか。
　ナナコ。ナナコ。ナナコ。ナナコ。ドコニイルノ？
　流れに逆らい、上流を目指した。歩くにつれて渓流の表情が険しくなり、水のにおいが濃くなっていった。水音は鋭さをまし、菜々子の体を包み、削いでいく。このまま肉を削がれて細く細く細くとがり、イトトンボになりたかった。あんなふうに、はかない体になれば、体ぜんたい受け身になって、遠い電波をキャッチできるかもしれない。

　渓流を登りつめると、いきなり視界がひらけた。目の前に滝があった。森の高みから溢れ出す水が、轟音を立てて落ちていく。飛沫(しぶき)が風に乗り、菜々子の顔を濡らす。菜々子はかたわらの岩に手をつき、細い息を長々と吐いた。
　人の気配がして顔を上げた。なぜか、条太郎がいた。Ｔシャツが濡れて肌にぴったり張りついていた。滝が波紋を広げる滝壺の水辺で、腰まで水に浸かり、菜々子を見ていた。
　安堵と恥ずかしさで、心臓がどきどきした。平然としている条太郎が憎らしかった。
「なにしてんのよ」菜々子は尋ねた。
「ミズグモ探してんだよ」条太郎はぶっきらぼうに言った。いつもと調子が違う。「ミズグモは水面すれすれに網を張って川虫を捕まえるんだ」
「条太郎君はきっと、前世で蜘蛛だったんだよ」
「おまえこそ、なにしてんだ？」
「おまえなんて呼ばないで」
「顔色悪いぞ。寝てなくていいのかよ。生理になったんだろ」
　さっと、血の気が引いた。
「うっせえ、ばか」石をひろい投げつけた。小石なんかじゃない。
「うわ、当たる。マジあぶねえ。心配してやってんじゃねえかよ。うわっ。だから当たるって、なに怒ってんだよ。うわっ。止めろって」
「うっせえんだよ。この非常識。無神経。クモバカ。田舎者！」
　一瞬の沈黙。条太郎はきょとんとして、それから、
「誰が田舎者だ！」突然、キレた。
　肩をいからせた条太郎は急に男臭くなった。ケモノの形相を剥き出しに、波を蹴立てて突進してきた。
　怖かった。仕返しされる、というだけでなくて、性的な意味で、襲われる、と思った。こんなふうに条太郎を感じたのは初めてだ。
　菜々子は逃げた。滝壺の水辺を走り、足を滑らせて深みにはまった。水底につま先が届かなかった。泳げないわけではなかったが、叫ぼうとして思いきり水を飲み、パニックになった。波立つ水面の向こうに条太郎が見えた。飛び込んできた条太郎にしがみついた。あまり強く抱きしめたものだから、二人からまったまま、水底に沈んだ。水底の暗さが、目に残った。

　気がつけば、頭からタオルをかぶり、膝を抱えて震えていた。
　条太郎はすぐそばにいた。
　夕焼けを映す滝壺の上を、たくさんの虫が飛び交っていた。
「さっき、家に電話した。もうすぐ迎えがくるから。俺のオヤジ、力持ちだから、おぶさって帰ればいい」
　条太郎はやさしかった。
「ケータイ？　持ってたんだ」
「森に入るときは、まんがいちってことがあるから、オヤジのケータイを借りる」
「圏外じゃないんだ、ここ」
「県外？　ここ、静岡県だよ」
「そのケンガイじゃない」
　ばか、と呟いて、おかしくなった。くつくつ、腹を震わせて笑った。
「なんだよ、なに笑ってんだよ」条太郎はわかっていない。「変なやつ」
　森の奥から夕闇は押し寄せ、翳りゆく滝壺に、滝ばかりが白く浮き立つ。
　目の前の岩肌にイトトンボがとまっていた。ウエハースのように薄い羽が、茜色の空を映していた。じっとして、自分の弱さの中に、意識を細く研ぎ澄ましている。
　緑色の細い尻尾をぴんと上向ける。その先が、ぽっと、青く灯った。アルコールランプの炎に似た、淡い光だった。
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	<title>ていと</title>
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	<published>2010-05-16</published>
	<updated>2010-05-16T10:23:52Z</updated>
	<summary> ていと【帝都】 皇居のある都会。〔明治以後は、東京を指した〕 　屋上にのぼると、燕尾服の紳士がいた。 　屋上の縁に立って、街を見下ろしている。 　自殺志願者ではなさそうだった。ぼんやりたたずんでいる...</summary>
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		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>ていと【帝都】<br />
皇居のある都会。〔明治以後は、東京を指した〕</p></blockquote>

　屋上にのぼると、燕尾服の紳士がいた。
　屋上の縁に立って、街を見下ろしている。
　自殺志願者ではなさそうだった。ぼんやりたたずんでいる人の後ろ姿だった。
　だいいち、飛び降り自殺に燕尾服はいくらなんでも似合わない。あれは晴れの舞台で着るものだろう。もっとも、考えようによっては自殺こそ晴れの舞台だと言えなくもない。
　仮にそうだとしても、目の前の紳士は、背中がぜんたいにのほほんとして、追い詰められた感じがまるでない。ぜんぜん切羽詰まっていない。
　だから、屋上に燕尾服がいたって別にかまわない。しかし、ひとつ腑に落ちない点は、彼がどうやって屋上にのぼったのかということだ。屋上の出入り口は施錠されていた。ドアの鍵を開けたのは僕だから間違いない。
　社員のために開かれた屋上ではなかった。空調機械と電気設備が並び、無数の配管が縦横に延びるだけの屋上は、味も素っ気もない。もっとも、こういう殺風景な場所に癒される人間が世の中には少なからずいるもので、他でもない僕がそうなのだが、僕は窓ふき職人として仕事のためにここへ来たのであって、癒されるためではない。
　原則、立入禁止の屋上だ。落下防止の柵も金網もない。膝くらいの高さの出っぱりがあるだけだが、紳士はそのぎりぎりに立って、妙にのほほんとした背中を僕に向けている。
　会社のおえらいさんか。それなら屋上のドアくらい「開けゴマ」で開けてしまえる。礼服を着ているのだから式典があるのだ。いや、園遊会かも。早めに準備をすませて時間に余裕がもてた。空いた時間に思索にでもふけろうかと、人目を避けて屋上に出た。東京は本日も晴天なり、と、そんなところか。
　いや、そんなことはどうでもよい。僕は迷っていた。どうしようか、困っていた。これから僕は、専門用語で笠木と呼ぶ出っぱりにロープをかけ、窓の外面へと下りていかねばならない。ブランコにすわり、オフィスで働くホワイトカラーをガラス越しに眺めながら窓をふくわけだ。そのためには燕尾服の紳士にどいてもらわないとならない。
　なにを悩む必要がある。「どいてください」のひと言ですむ話ではないか。いやいや、そう簡単にはいかない。会社のおえらいさんは、たいがい神経質でわがままときている。ほんの気まぐれで出入りの業者の首を飛ばすくらい朝飯前のすっちょんちょんなのだ。
　いや、僕は心配性ではない。経験でものを言っているのだ。三年前まで僕も会社員だった。それが、契約先の社長に「口のきき方が気に入らん」と嫌われ、それがうちの社長の知るところとなり左遷。いろいろあって首が飛び、家のローンが払えなくなり一家離散、浮浪者に転落という不条理な目にあってきた。
　さいわい浮浪者生活は三ヵ月で終わり、現在の清掃会社にひろわれた。以来、組織というものにほとほと嫌気がさした。だから、ひとりになれる窓ふき職人を選んだのだが、この国に住んでいる以上、どこでなにをしようと組織は空気みたいについて回る。浮浪者の世界にだって上下関係の縛りはあったのだ。

　風はない。絶好の窓ふき日和だ。しかし、空の高いところでびょうびょう風が鳴っている。油断はできない。大気は呼吸する生き物なのだ。
　空は冷たく晴れ渡っていた。研ぎ澄ました刃みたいな青空で、朝だというのに星が見えた。夜空の星よりも冴えた光だ。
　晴天の星空の下、紳士との距離が詰められないまま馬鹿みたいに突っ立っていた。
　気配を察したのか、彼はおもむろに振り向いた。腰をひねるのではなしに、小さく足踏みしながら体を回していく。
　後ろ姿の印象を裏切らず、紳士の顔はぬうぼうとしていた。
　僕より少し年上。四十代の半ばくらい。丸メガネに小さくすぼんだ目。口髭におちょぼ口。整髪料でぺったりの髪。お茶目なふうで、冷たそうでもあり、気さくなようで、人ぎらいなふうでもあり、とらえどころがない。燕尾服がちっとも似合わず、胸ポケットから突き出たハンカチの端がこっけいなくらい。
　紳士はゆらりと揺れた。片手を持ち上げ、肩の高さでひらひら振った。
　それから、「やあ」と言った。
　どこかで聞いた声。僕はなにかを思い出しそうになった。しかし喉まで出かかった記憶はすぐに、腹の底へ沈んでいった。僕の中のなにが反応したのかもわからなかった。
　ただ、不穏な感じはしたのだ。表情は穏やかなくせに、声だけはなぜか暗いのだ。
「あ、どうも」僕は会釈した。「まいど、お世話になってます」
　紳士は持ち上げた手で、鷹揚に僕を招いた。
「あの、イゴタ清掃です。窓ふきに来ました」
　僕は用心しながら紳士のそばに近寄った。
「窓ふき？　ああ、仕事ね。仕事をしたいの」紳士は言った。「高いね、ここは」
「いえ、慣れてますから」
「私は、高いところは苦手だな。馬に乗っただけで足が震えた。ははっ。馬の背というものはね、あれで乗ってみると存外に高い。しかし立場上、乗らないわけにいかなかった。馬上で威厳を保つのはね、君、簡単なようでいて、なかなか大変な仕事だ」
「はあ。乗馬をなさるんで」
「キリンはどうだろう。キリンのほうがよほど高い。君はキリンに乗ったことがあるか。ない。あ、そう。アフリカ人はキリンを手なずけようとは思わなかったのかな。ふむ、キリンの走る姿は見ていて優雅なものだ。しかし乗り心地はよさそうではない」
「あの、仕事してもいいですか」
　どいて、と言う代わり、僕は紳士の横を指差した。
「仕事はね、もういいから」彼はこともなげに言った。
「は？」
「窓ふき、したいんでしょ。ここからロープを垂らして」
「あ、はい。それでですね」
「あれはね、いいから」
「いいから？」
「仕事もなにも、君は道具を携えていない。従って仕事にならない」
「へ？」言われて、気づいた。両手に仕事道具がない。足下を見ても、後ろを振り向いても、ないものはない。おかしい。どこに置き忘れたのだっけ。
「そういうわけだから、一服したらよろしい」
  紳士はポケットから金色のシガレット・ケースを取り出した。並んだ煙草はフィルターの近くに菊の御紋が入っていた。話には聞いたことがある。恩賜(おんし)の煙草だ。
　まじまじと紳士の顔を見た。あ、と息を呑んだ。あの人だ。二十年前に死んだはずの、あの人。いや、年老いて死んだあの人ではない。歴史の教科書に写真があったので覚えている。終戦直後、マッカーサーと並んで立っていた、若い頃のあの人だ。
「吸わないなら私がいただこう。君、すまないが火を」
　煙草をくわえ、紳士は僕に顔を突き出した。すぼめたくちびるがまるで無防備だ。僕はポケットをまさぐった。ポケットからネジが出てきた。いったいなんのネジだ。思い出せなかった。
　百円ライターは調子が悪かった。火花ばかり勢いよく散って、ついたと思ったら炎は横に倒れ消えてしまう。変だ、風もないのに消える。消える。消える。あ、ついた。
　僕は炎を風から守るようにてのひらで囲った。紳士はてのひらの囲いに顔をうずめた。

　顔を上げると、紳士は九十前後の老人になっていた。けむりを吐き出す。口と鼻ばかりでなしに、目から耳から頬から額から、顔じゅうから、ふわっと。吸ったけむりが肌を通り抜けているのだ。
「私は死んで久しいから自分では火をあつかえない。しかし君はまだ大丈夫だ」
「あの、気のせいなのかな。いっきに老け込んだみたいな」
　しかし本当に驚きなのは、僕があまり驚いていないことだ。
「煙草を吸わないのならキャンディはどうか」
　老人はポケットから棒つきキャンディを取り出し、僕に手渡した。チュッパチャプス。こんな味だっけか。眉間が割れそうに甘い。脳髄にずんと響く。
「甘いですね、これ。すごく」
「いまのうちだ。じきに味を感じなくなる。私はもうなにも感じない」
　老人はもういっぽんキャンディを取り出し口にふくんだ。それからは、老人は煙草とキャンディを交互に口に運んだ。煙草のけむりはあいかわらず老人の顔ぜんたいから漏れ出ていた。
「味わうということも一種の習慣ではある。生命現象はぜんたい習慣で成り立っているから、習慣が消えればものの味もなくなるのだよ。逆に言えば、死んだ後も習慣が残っている間はものを味わえる。いまのうちしっかり味わうがよい」
「どういう意味ですか？」いやな予感がふくらんだ。
「ヨモツヘグイという言葉は御存知かな」
「いえ」
「そのキャンディがヨモツヘグイなのだよ。ヨモツヘグイをした以上、君もこちら側の人間になったわけだ」
　気味が悪くなり、僕はキャンディを捨てた。
「まだわからないか。それは仕方がない。わかりそうにないから私がここに来たのであって、自力で理解できるなら私がここに来る必要はもとからなかった」
「なんだよ。誰なんだよ、あんたは」
　老人の顔は四十代の顔に戻っていた。四十代の頬をキャンディがぷくんとふくらませていた。棒の末端をつまむとくちびるがすぼまり、ぽんと音がしてキャンディが抜け出た。くちびるの端が横に広がり、紳士はにっと笑みを浮かべた。
「まだわからない。わからないから私が告げねばならない。死んでいるのだよ、君は」
「うそ？」
「風が強い。こんな日の窓ふきは危ういことこの上ない。しかし君は風に気づかない。なにゆえか」
　紳士はキャンディで向かいのビルを示した。向かいの屋上には小さな神社があり、日の丸がはためいていた。なのに、僕は風を感じない。感じられない。紳士の髪にも乱れはない。毛のいっぽんも揺れてはいない。いったい、風はあるのかないのか。
「風が君の体をすりぬけているのだよ」
　老人はキャンディの包み紙を指から放した。それは羽が生えたように飛んでいった。
　僕は自分のてのひらを見た。てのひらは粉を吹いていた。手を叩くと粉は舞い上がった。ためしに何歩か歩いてみる。足の裏はしっかりとコンクリートの床を踏みしめた。躍起になって足を踏み鳴らす。なんだか頼りない音がした。
　紳士はムーンウオークをしていた。
「こんなに元気な幽霊っているかよ」
　腹が立ち、かたわらの配管を蹴った。がこんと鈍い音がして、足の甲がしびれた。刃物で刺せばきっと血が出る。ナイフがあれば俺は生きてると証明できるのに。
「いやいや、幽霊の側から見れば生きている人間こそ元気がない」
「幽霊に唾が吐けるか」ぺっと唾を吐いた。「小便だって出せる。出してみようか」
「お好きなように。出したいのなら出るかもしれない。しかし、だからといって君が死んでいる事実に変わりはない。さっきも話したとおり生きているとは習慣のことである。茶碗の持ち方から、細胞ひとつひとつの化学変化にいたるまで生命活動はこれすべて習慣によって維持されておる。いま君が自分を生きていると感じるのも単に習慣がそうさせているだけであって、内実はちっともと伴っていない」
「なにごちゃごちゃ言ってんだよ。いつ俺が死んだんだよ。ちゃんと朝起きて、飯食って家を出て、ちゃんと電車に乗った。それから―」
　それから？　それからどうしたっけ？　それから先の記憶がない。いきなり屋上の記憶に飛んでいる。
「わからないかな。君はさっき、そこのドアを開けもしないですり抜けていったのだよ」
　不意の無力感が、僕を襲った。
　紳士があらためて差し出した恩賜の煙草に手を伸ばした。諦めの境地で煙草に火をつけた。けむりを吐いたが、悲しみは湧いてこなかった。失業したときや浮浪者に転落したときのほうがよほど悲しかった。悲しみに身悶えして泣き狂ったものだ。
　死んで悲しいというのは、僕が死んで悲しむ人がいるから悲しいのであって、悲しむ人がいなければ悲しむ理由もないのだった。いまはただ、ひたすらさびしいだけだ。
　向かいのビルの日の丸が風にはためいている。旗の端のほうから布地が少しずつちぎれて風に乗り、飛んでいくように見えたのは、鳥だった。次から次へと日の丸から分かれて飛び立ち、めいめい、輪を描いたり宙返りをしたりしながら、晴天の星空をまちまちな方向へ飛び去っていく。
　なにがさびしいのか。失うものがなにもないさびしさだ。この世になにも残せなかったさびしさだ。
「さびしがらなくてよい。たいていの人はたいしたものは残せない」紳士は人の心を見透かすようなことを言った。「残したと胸を張る人に限って、ろくでもないものしか残してないものだ」
「あのさ、人違いだったら悪いけど、あんたむかし、皇居に住んでたことなかったっけ」
「皇居を指して『空虚』と呼んだフランス人がいるが、大変な誤謬(ごびゅう)と言わざるを得ない。皇居ほど豊饒(ほうじょう)な場所が他にあろうか。ない。ないのだ。空虚ほど満ち足りているという東洋思想の逆説を西洋人は理解しない」
「俺、子供んときあんた見たぜ。植樹祭っていうの？　すげえ車に乗って目の前を走っていくのを、俺ら沿道に並んで一生けんめい旗ふってたっけ」
「それは、どうも」
「でさ、なんであんた、こんなところにいんの？　あんたら、死ねば特別な場所に行くと思ってたけど」
　陛下、と呼ぶべきなんだろうと思いながら、「あんた」と呼んだ。
「特別ではないが、みなと同じでもない。むしろいまは、みなよりつらい」
「俺はあんたのこと責めないから。戦争だって、軍人の連中が勝手にはじめちゃったんだろ。学校でそう教わったけど。あんた、神輿に担がれただけなんだよな」
「君は前世から同じ考えだった。当時としてはまことに炯(けい)眼(がん)である。しかし、帝国憲法に定められた統帥権は、そんなに軽々しいものではない」
「俺の前世、見えんの？　あんた江原ケイスケかよ」
「戦死した魂は成仏がむずかしいのだ。なにしろ、自分が死んだことにもなかなか気づかないくらいだ。長くこの世をさまよい、生まれ変わっても似たようなことを繰り返す。ほら、現に君がそうだったではないか。運命、と言っていいのかどうか私にはわからない。ただ事実として、そういう場合が多い。彼ら迷える民草に引導を渡すのが私のいまの務めだ。幾万の民草が私の名を呼んで死んだのだ。せめてそれくらいはせねばなるまい」
「引導って、この煙草？　さっき、なんとかヘグイとか言った、あれのことか」
「君は、前世のことは忘れただろう。帝都防衛隊として、来たるべき本土決戦にそなえ特殊訓練を受けていたのだよ。いわゆるゲリラ部隊だ。君はビルの壁面をよじ上る訓練の最中に足をすべらせ、ロープが首にからまり宙吊りになって息絶えた」
「あほな死に方だな。聞いてあきれる。笑っちまうくらいだ。それも戦死のうちか」
「そう自虐的にならずともよろしい」
「自虐もなにも、そいつが俺だっていう自覚がぜんぜんないんだけど」
「いや、記憶を失っても痕跡は残るのだよ」
「ああ、デジャブってやつ。俺、あったよ。子供の頃なんか、しょっちゅうだった。不思議だよな、あれって」
「いや、デジャブではない。それは単なる思い込みでしかない」
「あっそ。別にいいけど」
　恩賜の煙草は、いくら吸っても短くならなかった。煙草を持つ指の皮膚からけむりが漏れ出ているのに気づき、怖くなって煙草を捨てた。足で踏みにじろうとしても踏みにじれない。煙草を踏んだ足の甲を通り越して、けむりは立ち上っていた。
「時間というものを川の流れによくたとえるが、あれは間違いだ。時間は流れるのではなく降り積もると考えたほうが正しい。降り積もった時間はやがて地層を成す。おわかりかな？　新しい地層をめくればその下から古い地層が現れる。その地層をめくればもっと古い地層が現れる。幾層にも重なった地層の上にいまこの現在がある。さ、ここへ。遠慮せずに、私の隣へ。ごらんのとおり。時間の層をめくれば、現在の下に焦土と化した東京が現れる。さあ、思い出せるかな。君は前世でこの風景を見ていたはずだが」
「すげえな」
　東京がいちめん焼け野原だ。ところどころ、瓦礫やトタンの隙間から、煮炊きのけむりが細く上がっている。けむりはまっすぐに立ち上り、空に吸われて消えていく高さを、さっき日の丸からちぎれて飛んでいった鳥が舞っていた。
「『東京物語』という映画があるのを御存知かな。御存知でない。まあよい。私はあの映画を何度も見た。よい映画だった。地方から出てきた老夫婦が高みから東京を見下ろす場面があるが、カメラは老夫婦の背中ばかり写して二人が見下ろしている東京の街をいっこうに映さない。二人が実際、なにを見ていたのかわからない。それがあの映画の勘どころだと思うが、どうか」
「あのさ、俺みたいなやつがこの世に腐るほどいるんだろ？　そうだよな？　そのひとりひとりと、こんなふうに付き合ってんの？　あんた死んだよって教えて回ってんの。体がいくつあっても足りねえだろ」
「我が身がひとつとは限らない」
　紳士は、向かいのビルを指差した。いつの間にか、元のままの東京だ。
　向かいのビルは屋上に小さな神社がある。ほこらの扉がひとりでに開き、黒い革靴の足が突き出たかと思うと、タコが蛸壺から出てくる具合にぬるっと全身が現れた。軟体動物のようなぐにゃぐにゃの体がしゃんとすると、こちら側の紳士とうりふたつだ。そいつは赤い鳥居をくぐり、「やあ」と言うようにこちらへ片手を上げた。
　こちらの紳士も、「やあ」と片手を上げた。それが合図だったように、向こう側の紳士の体がばらばらになり、無数の黒い鳥となって空へ散っていった。
「追って沙汰があろう。それまで、これでも舐めて待つがよろしい」
　紳士はあらためて僕にキャンディを手渡した。キャンディはさっきほどは甘くなかった。甘いことは甘いが、脳髄にずんと響くような甘さではなかった。
　紳士は、また老人の顔になっていた。
　口髭が片方、斜めにずれている。あれ、つけ髭？　と思っている間に、丸メガネのレンズが青白く光りだし、細胞がスパークしたみたいに体のあちこちが放電し、点滅を始めたかと思うと、ぷつんと消えた。ちりちりと電気のはぜる音が残った。
　僕は屋上にひとり取り残され、あほうのようにキャンディを舐めながら、地上を見下ろした。眼下に広がっていたのは焼け野原の東京だった。ビルやら車やらでごちゃごちゃした東京よりも、むしろさっぱりとして気味がいいくらいだ。
　これから沙汰があるらしいが、僕はどうなるのだろう。また生まれ直すなんて、考えるだけで疲れる。逃げちまおうかと、思いきって屋上の縁を蹴り、空に躍り出た。
　落ちると思ったが、僕は空を飛んでいた。上空から見下ろすと、いちめん灰色の焦土の中にあって、皇居の森は島みたいだった。
　くわえていたキャンディをうっかり落とした。皇居前の広場で泣き伏している兵士の頭に、それは命中した。
「あいたっ！」と声がした。
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	<title>てのひら</title>
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	<published>2010-05-16</published>
	<updated>2010-05-16T10:28:51Z</updated>
	<summary> てのひら【掌】 〔「手の平」の意〕手首から先の、物を握る時の内面の面。たなごころ。 　君。 　そう、これを読んでいる君だ。 　俺は、君が誰だかわからない。わかっているのは、君が二十歳くらいの女性だっ...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>てのひら【掌】<br />
〔「手の平」の意〕手首から先の、物を握る時の内面の面。たなごころ。</p></blockquote>

　君。
　そう、これを読んでいる君だ。
　俺は、君が誰だかわからない。わかっているのは、君が二十歳くらいの女性だってことくらい。名前も知らない。どんな声でしゃべるのか、知らない。好きな色は？　好きな食い物は？　好きな音楽は？
　この文章は特定の個人、つまり君への手紙だ。けれど、君以外の人は読んでも仕方がないとか、無意味だとかいうのではない。君以外の人にとってのこれは、一個の物語だ。読んでほしい。読んでくれ。そしてなにかを感じ取ってくれたら、俺はうれしい。
　この文章が君に届くかわからない。届かない確率のほうが圧倒的に高い。でも書く。書きたいから書く。なにかの奇跡でこいつが君に届くことがあるかもしれない。そしたら会ってくれ。話がしたい。方法はあとで記す。もちろんこれは罠なんかじゃない。君をはめるつもりはない。純粋に、会いたいだけだ。

　君と俺は深夜のコンビニで出会った。覚えているはずだ。川崎と横浜を結ぶ産業道路から、北に折れて鶴見駅に向かう道の、十字路の角にあるコンビニエンスストア。ほら、対角線にエッソのガソリンスタンドがある、あの店。十字路に横断歩道はなく歩道橋だけがあって、その歩道橋の階段はぐるっと螺旋形になっていて、でも歩道橋を無視して道を横切る人は多いから、車にはねられて天国に直行した人の慰霊の花束が橋脚の真下にある。雨が降るとホームレスがやってきて花束に添い寝する。その歩道橋の目と鼻の先にあるコンビニ。俺はそこで働いている。週四回、夜の十時から翌朝の七時まで。
　全国のコンビニの総数は四万店を突破した。去年一年間のコンビニ強盗の件数はおよそ九百件。四十四分の一の割合で被害に遭っている計算だ。数字だけ見るとまだまだこんなもんかと思えるけど、事件は都市部に集中してるし、商店街から離れた殺風景な場所にある店となると、事件の起きる確率はぐんと高くなる。つまりだ、俺が働いている店は、じゅうぶんヤバイわけだ。
　働きはじめてすぐ、強盗対策の講習を受けた。ほら、蛍光塗料を塗ったカラーボールを犯人の背中にぶつけるってやつ。でも、そんなの実際には屁の役にも立たない。強盗がきたらさっさとお金を渡すべし。下手な抵抗は身を滅ぼす。これが現場の共通意見だ。俺もそう思う。
「去年の夏だっけ、暴走族くさいのが集団でやって来てさ、あからさまに行動がおかしいわけ。見え見えで万引きしてんの。あれ、俺なめられてんのって、むかついてさ、『おいこら』って注意したら、襟首つかまれてボコボコにされて、外に引きずり出された。まじやばかったよ。あいつら、車のトランク開けてたもん。もう少しで拉致されて山に埋められるとこだった」
　これは相棒のアルバイトから聞いた実話だ。彼の体験から導き出される教訓は、「やばそうな奴には近づくな」だ。
　どうしてこんな話をしてるかって？　つまりだ、俺も日頃から犯罪に対する心構えは持っていたってことだ。犯人の目的がはっきりしていれば対処方はある。しかし君は？　わからない。君の目的はなんだったんだ？

　あの夜の相棒はお世辞にも仕事熱心と言えず、先輩格であるのをいいことに少年ジャンプやマガジンが届けば真っ先にひっつかんでレジの奥に引っこみ読了するまで腰が上がらないという最低の奴だった。
　午前二時過ぎのことだ。相棒はレジの奥、防犯カメラの真下の、つまり死角になる定位置で手足を縮めて返品予定の雑誌を読みふけっていた。店内に客はいなかった。俺は店の奥で商品棚の整理をしていた。自動ドアが開いた。チャイムが鳴った。そして若い女、つまり君が入ってきた。
　俺は防犯ミラーで君を見ていた。長い黒髪。臙脂色のブラウスに黒のオーバーコート。ジーパンにパンプス。別に変わったところはなかった。近所の人がコートを引っ掛けて買い物にきた、という感じだ。君は雑誌棚の前でいちど立ち止まり、腕を組みざっと棚を見ただけでドリンクのコーナーに移動し、そのまま俺の後ろを通り過ぎてお菓子のコーナーの前で足を止めた。チョコレートを選んでいるふうだった。店内のＢＧＭはコンクリート・バッファローズの「千年の森」だった。覚えてる。俺はこの曲が好きで、こいつが流れるとつい鼻歌が出てしまうんだ。
　ふと気づくと、君はレジカウンターの前にいた。相棒はいない。君は店員を呼ばず、店員を探してきょろきょろもせず、静かに立っていた。ほっといたら朝まで立っていそうな後ろ姿だった。あの野郎またさぼってやがる。俺は思わず舌打ちした。その音が聞こえたのか、君はゆっくりとふり返り、俺と目を合わせると軽く頭を下げた。「おいそがしいところまことにすいませんがレジをお願いします」とでも言いそうな上品な雰囲気だったから、俺は恐縮して小走りでカウンターに戻った。
　カウンターには板チョコが一枚。深夜の買い物に板チョコが一枚、というのはあまりない。でも訝しがるほどのことではないので、俺はスキャナーでバーコードを読み「百六十円になります」と言った。君はポーチから財布を取り出した。小銭を出すのに少々手間取っている様子だった。俺は右手を宙に浮かして待った。すると君は、左手を俺の手に裏から重ねるように添え、右手で五百円玉を渡そうとした。
　そのとき不審に思わなかったのか？　警察に何度も聞かれた質問だ。
「いえ、別に」俺は答えた。
「客がお金を払うにしては、不自然な仕草と思わなかったか？」
「店員がお釣りを渡すときにはよくやります。小銭を落とさないように」
「しかし、客のほうがそうすることはないだろう」
「あまりないですね」
「あまりない？　まったくない？」
「まったく」
「それでも不自然とは感じなかったわけだ」
　あんまり根ほり葉ほり尋ねるからうんざりした。まるで犯人の取り調べみたいだった。
　お客さんの仕草を自然とみるか不自然とみるかは、動作や態度より、その人が醸し出す雰囲気に左右される。俺は君の仕草を自然に受け入れた。そう、ここまでは。
　君は俺の右手に五百円玉を置いた。垂直に。そして手前にすっと引いた。てのひらの皮膚がぱっくり割れた。痛みは感じなかった。「あれ？」とだけ思った。「あれれ？」
　見る間に血があふれ出てきた。痛みはあとから追いかけてきた。引っ込めようとした俺の手首を君は握った。激痛がてのひらから腕の表面を走り頭頂に達した。「いてえ！」俺は叫んだ。髪の毛が総立ちになった。なにが起きたのか、まったく見当がつかなかった。
　真っ赤になった俺のてのひらを君は右手で握った。ふたりのてのひらの間から鮮血はぽたぽた滴った。振りほどこうにも腕がしびれて力がはいらない。それでも、必死でぐんと腕を引くと、君はがくんとカウンターの上に前のめりになった。
　君。
　君はあのときなにを考えていた？
　俺は君の目を直視していた。君も俺の目を直視していた。
　もし、君が凶暴な目で俺をにらんでいたら、もしくは錯乱した目を泳がせていたら、俺は恐怖のあまり自由な左手で君を殴っていたかもしれない。あるいは鋏で君の手を突いたかもしれない。けれど、どう言えばいいんだろう。君の目に怒りや怯えはなかった。俺になにかを訴えたがっているように見えた。この非常事態になに悠長なこと言ってんだって、人は思うだろう。でも、たしかに言えるのは、君の目は精神異常者や薬物中毒者のような平板な目ではなかったこと。ずっと奥の深い目をしていたことなんだ。
　だから俺は、頭のどこかでは冷静でいられた。全面的には君を拒絶できなかった。これはなにか理由のあることなんだと考えていた。
　ねえ君、これだけは教えてくれ。君は俺を狙っていたのか？　たまたま俺がレジに立ったから俺を傷つけただけで、相棒がレジに立ったらやっぱり同じことをしていたのか？
　考えすぎだろうか。俺はただの自意識過剰なんだろうか。
　俺の声を聞いて相棒が裏の倉庫から飛んできた。同時に君は手を放した。俺がよろけて相棒にぶつかった隙に、君は板チョコをつかんで逃げていった。レジが開いていたので、相棒は強盗と勘違いした。
「どろぼう！」と見当外れのことを叫んだ。「どろぼう、どろぼう！」
　相棒はカラーボールを手に君を追いかけ表に飛び出した。投げたボールは別人の顔面に当たり、事態はややこしくなった。でもそれは君にとってラッキーだった。そいつが相棒に食ってかかっている間に君はどこかへ逃げていったのだから。
　五百円玉がカウンターに残されていた。俺のてのひらを切り裂いた凶器。君は、どういうつもりであんな細工をしたんだ？　カッターの刃を、硬貨の端からほんの少しはみ出る具合に、セロテープで貼って。
　それともうひとつ、君に言いたいことがある。俺はまだ、お釣りの三百四十円を君に返してない。
　君が逃げた後、俺は血まみれのカウンターの上で、右手をおさえて痛みをこらえながら思い出したんだ。「あ、お釣り渡してねえ」って。

　俺自身のことを書く。
　二十六歳。出身は新潟県。横浜市鶴見区在住。ミュージシャン。履歴書の職業欄に「ロックンローラー」と書いて笑われたことがある。ロックンローラーとは生き方であって職業ではなかったんだ。
　バンドを組んで横浜にある「ロドリゲス」っていう店を拠点にライブ活動をしていた。「していた」って過去形なのは、過去の話だからだ。ドラムを担当していた。わかると思うけど、俺の手は俺の商売道具だった。
　包帯を巻いてる間、ドラムを叩けなかった。でも、さいわい傷は浅かったから、傷がふさがればちゃんと復活できたはずだ。
　けれど、ライブハウスのスケジュールはびっちり決まってたからバンドの連中は焦った。どっかからドラマーを探してきて急遽メンバーに加えた。俺が復帰するまでの代役という話だったが、怪しいものだ。そいつ、埋もれた逸材だった。初めてそいつのドラムを聴いたとき、顔から血の気が引いたね。冷や汗が背中にどっと流れた。そんで悟った。「あ、俺もう終わりだ」って。
　俺は元々ベース奏者だったんだ。それがあの連中とバンドを組んだとき、ドラマーがいなかったので俺がやることになった。正直、不本意だった。でも俺は文句もたれずドラムに打ち込んだよ。必死で練習した。そこそこは上手くなった。けど、魂じゃ乗り越えられない壁ってどうしてもある。もしかして俺、バンドの足引っ張ってんのかもってひそかに不安だった。でも、俺だって好きでドラマーに転向したわけじゃないから、そこんところはみんな理解してくれてた。なんだかんだいって、うまくやってこれたんだよ。
　そう、あの事件までは。
　日に日に空気が悪くなっていった。みんな、俺への態度がよそよそしくなった。そりゃあ、辞めてくれって口に出す奴はいなかった。けど俺も馬鹿じゃないからね。誰も俺の傷が治るのを望まなかった。それは肌で感じた。飲み会でも、畳の上に右手を置けなかったくらいだ。うっかり置こうものなら、誰かがうっかりのふりで俺の手を踏んづけるか物を落としそうで危険だった。
　まさかと思うだろ。でも音楽やる人間ってそういうものだ。チャンスとみたら平気で人を裏切る。のし上がるためなら残酷になる。そうでなくちゃ駄目なんだ。だから、奴らの態度はある意味正解。奴らだけじゃなしに、ファンも、ライブのオーナーも、俺の復帰を望まなかったんだから。
　傷が癒えても、しばらく包帯を外せなかった。結局、「後遺症が残りそうなんで」って嘘ついて自分から抜けたよ。「ああ、そりゃ残念だ」って、うれしそうにしてる仲間が悪魔に見えた。
　あ、いや、君のせいだって責めてるわけじゃない。こうなったほうがバンドのためでもあり俺のためでもあったんだ。ひとりになったって俺はロックンローラーだ。俺はいまストリートに出ている。アコースティックギターを弾いて自作の歌を歌ってる。敗北でも転落でもない。いわば後ろ向きで前進。俺は自分の原点に戻ったんだ。

　その他にも、言っておきたいことがある。
　警察はまずコンビニ強盗の線を考えた。君が俺の手を握って放さなかったのは、俺の頸動脈も切って致命傷を負わせ、レジの現金を奪う計画だったんじゃないかという推理だ。でも、強盗にしちゃ変だ。だいいち、若い女性がひとりで強盗なんてあんまり聞かない。しかも素顔まるだしで。逃走を考えたらパンプスは履かないだろう、ふつうは。
　それに、もし本当に君が俺の手首も切るつもりだったら、さっさと切ったはずだ。でも君はしなかった。レジの現金には目もくれなかった。
　二番目に警察は、怨恨の線を考えた。犯人に見覚えはないか、女性に恨まれる覚えはないか、しつこく聞かれた。ない、と俺は言い切れなかった。店そのものへの復讐という線も考えられた。過去につかまえた万引き犯、売り上げをちょろまかすなどの罪でクビになった元アルバイトの記録を徹底的に調べた。
　俺は、防犯カメラに残された君の画像と、過去数年間でしょっぴいた万引き犯や問題行動のアルバイトの画像を見比べた。なにせ膨大な数だったから半日がかりだった。万引き犯の画像をまとめて見ていくと、興味深い共通点があることに俺は気づいたが、それは横に置く。いま問題なのは、過去の万引き犯やクビになったアルバイトに君らしき人物は見当たらなかったことだ。
　すると警察は個人的怨恨の線に戻り、俺の女性関係を探った。高校時代までさかのぼって、痛くない腹をさんざん探られた。なにせ俺はミュージシャンだから、警察官だって先入観で俺を見る。まったく、俺が取り調べを受けてるみたいでうんざりした。
　第三の可能性は、愉快犯、通り魔的犯行。つまり「誰でもよかった」という最低のあれ。でもねえ、女性の通り魔っていうのはあまり前例がないんだよねえと警察は呟いた。だから俺もこの点は考慮しない。

　俺に対する個人的怨恨だと、最も疑っていたのは俺の彼女だ。
　俺は彼女と同居している。いや、これも正確には「していた」だ。
　彼女はおっかけの女の子だった。ライブの打ち上げについてきて、そのあと俺のアパートまでついてきて、あれをしたあと自分の家庭的な不幸を切々と訴えるから「じゃあここで暮らせば？」と軽い気持ちで言ったら翌日の夜、本当に家出してきた。両手いっぱいに荷物さげて。びっくりしたね。それが二年くらい前の出来事だ。
　わりとうまくやってたと思う。ただ、彼女には異常に嫉妬深いところがあって、それは彼女の家庭に問題の根本があるのだけれどそれは横に置いとくとして、なにせ自分が「お持ち帰り」された口だから俺の女性関係について疑うのは至極もっともで、いちど疑心暗鬼にかられると理屈も根拠もなく嫉妬がふくらんで爆発するまで止まらない。
　そういうわけだからコンビニの事件も、俺に捨てられた女が復讐したのだと信じて疑わなかった。まあたしかに、俺もミュージシャンである以上、潔癖ではいられない。彼女と同居する以前は、何人もの女と別れたし、泣かせてもきた。でも、復讐されるほど酷い仕打ちをした覚えはない。「忘れてるだけよ」って彼女は言うが、元からない記憶は思い出せない。それでも彼女に言わせれば、思い出せないのは俺がそれだけ酷薄だからだ。
　ああ、こうして書いてるだけで嫌になってくる。
　利き手にぐるぐる包帯を巻いて、箸を持つのも歯磨きするのも難儀している俺にむかって「自業自得」と悪態をつき、ひとかけらの心配りもなかった。
「傷を見せて」としつこくせがむから包帯をほどいて見せてやったら、傷の縫い目がなまなましい俺のてのひらに露骨に眉をしかめて、ひと言、「キモイ」。
　キモイだよ。ぶち切れたね、俺は。すさまじい喧嘩になって、それで終わりだ。彼女は荷物をまとめてアパートを出ていった。

　怨恨もなにも、君と俺は初対面だった。「初対面」って言い方は変だけど、とにかく初めて出会った。それはたしかだよね。じゃあ君の目的はなんだったんだろう。
　誰かに対するっていうより、もっと漠然としたものへの復讐だったのか。それともただ単にむかついていただけなのか。わからない。あのとき、君の顔に「怨恨」とは書いてなかった。「むかつく」とも書いてなかった。じゃあ、なにが君を突き動かしたんだ？
　俺の彼女は君に嫉妬していた。返り血を浴びる勇気がなければ復讐なんてできない、相手が誰だろうと。台所でひとり包丁を振り回すのが関の山だ。彼女は君に勝てないと思った。だから出ていったんだ。

　そんなわけで、俺はいまひとりだ。バンドを抜けて、女とも別れて、いろんな意味でひとりだ。でも孤独とは違う。孤立でもない。孤高だ。どんなに落ち込もうと、俺は孤高だ。それを君に知ってほしかった。
　ねえ君。もういちど聞く。本当に君は俺と面識のない人間なのか。たまたま俺がレジに入ったから俺を傷つけただけで、俺でなくても、誰でもよかったのか。
　もちろん俺は君を知らない。だからきっと、君も俺のことを知らない。でもひょっとすると、それは単なる俺の決めつけかもしれない。
　警察署で俺はなんども防犯カメラに写った君の画像を見た。見せられた。なんども繰り返し見ているうちに、変な話だけれど、君と馴染みになったような錯覚に陥った。完璧な赤の他人とは思えなくなってしまったんだ。そして無性に君に会いたくなった。変か？　変だな。それは認める。俺は変だ。
　君は俺の、それなりに安定した日々を見事にぶち壊してくれた。でもね、あれはみんな、ぶち壊れてよかったものだ。安定をぶち壊すのがロックンロールだからだ。人間、守りに入ったら死んだも同然だ。俺は君を恨んでない。いや、まじで。
　ところで俺は、君にお釣りの三百四十円を返していない。それを返すまでは、俺にとっての事件は終わらない。だから返す。返してやる。
　抜糸をして、包帯を解いて、傷はふさがった。多少の痛みは残っている。雨の日なんかは特に、傷痕が引きつって、てのひらが痺れる。だけどギターを弾くぶんには問題ない。むしろ痛みが俺をエキサイトさせる。この痛みが俺であり、君なんだ。
　中指の付け根から手首にかけて、まっすぐに引かれた白い線。新しい手相みたいだ。本屋で立ち読みして調べたら、運命線といってこれは強運のしるしなんだそうだ。
　俺をアホだと思うか。そうだ、アホだ。でも俺はこう思うことにしている。
「俺に起こることは、俺を殺さないことなら、それがなんであろうと俺を強くする」
　元ネタはニーチェだ。
　俺はいま、アコースティックギターを持って鶴見駅前で歌ってる。夕方の六時から九時まで。バイトがない日は終電まで歌ってる。君は知ってるだろうか。駅前に「コンビニ傷害事件の目撃者を捜しています」と看板が立っている。あの横で歌ってるのが俺だ。
　投げ銭入れのギターケースに、いつでも三百四十円は入れておく。見かけたら取ってくれ。それで貸し借りなしだ。
　俺たちは再会する。俺は声をかける。君は応える。そこからなにが生まれるのか。わからない。どうなろうと、予測不能な未来に、俺はぞくぞくする。
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	<title>つくねんと</title>
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	<published>2010-05-03</published>
	<updated>2010-05-03T07:54:46Z</updated>
	<summary> つくねんと 何をするでもなく、ただひとりじっとしている様子。 　つくねん。 　駅のホームでつくねん。 　コンビニの駐車場でつくねん。 　新宿の地下道でつくねん。 　上野の西郷さんの前でもつくねん。 ...</summary>
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<p>つくねんと<br />
何をするでもなく、ただひとりじっとしている様子。</p></blockquote>

　つくねん。
　駅のホームでつくねん。
　コンビニの駐車場でつくねん。
　新宿の地下道でつくねん。
　上野の西郷さんの前でもつくねん。
　どこにいてもつくねん。
　俺。
　気がつけばほうけて。途方にくれて。光はいつも斜め上から、人を見下げて。どんなに着込んでようと裸に剥かれて。
　俺のいる場所、六畳一間。爪切り、耳掻き、歯ブラシ。なにもねえ。窓にカーテンもねえ。陽射しは容赦なく、俺の影、真後ろの壁に落ちて、焦げ付くまで。

　そう言えば俺は自分の眼で自分の背中を見たことがないのだった。死ぬまで見ることはないだろう。それが俺という人間の不完全さの証明なのだ。でもこれは俺に限ったことじゃない。

　なにもない部屋。コンビニ弁当を食べて、殻だけが残って。箸の先に付いた飯粒に陽が当たって、ひりひり、かわいていく。俺もかわいてきた。
　畳にさす光。畳の目ひとつひとつ、やけにくっきりとして、ささくれて、けば立って。長年、俺の体から剥がれ落ちた細胞が死んで畳の目に染み付いているから、この六畳は俺の肉体だとも言える。俺が去っても俺そのものとして部屋は残るのだ。俺以上に存在の輪郭をくっきりさせて。
　板場で包丁を研いでる俺。
　配電盤を開いて接続を点検してる俺。
　戦闘服で匍匐前進する自衛隊員の俺。
　ストリート・ミュージシャンとしてつまらない脚光を浴びてる俺。
　あの時ああしていればこうなっていた俺が世界のいたるところに遍在する。その俺らがいっせいにへたりこむ。つくねんとしてしまう。
　嘘をつくねん。
　餅を搗くねん。
　舟が着くねん。
　霊が憑くねん。
　なにさらすねん。
　むかしむかし、『あしたのジョー』の矢吹丈は力石徹の死亡記事を前に連日つくねんとしてまるで死んだようだったが、業を煮やした丹下段平に「どこまで堕ちれば気がすむんだ」とどやされ「ここまでだ」とひと言、死亡記事を破いて立ち上がったのだった。その場面にいたく感動した子供の俺は大人になり「ここまで」と言える地点まで堕ちていこうとしたものの「どこまで？」と言ってくれる他人がいなければ「ここまで」と言えるきっかけもなく、ずるずると堕ちていくだけなのだった。
「どこまで？」誰も言ってくれないのなら自分で言うしかない。「どこまで？」
「ここまで」俺は答えるだろう。
　奈落の深さに比べたら人間一個の堕落なんてたかが知れてる。まして俺のすること。
　だから自分で言うのだ、「どこまで？」と。さあ、言え。
　そう念じながらいまだ、つくねんとしている。
「ここまで」と言える、あと一歩の距離が永遠に遠い。

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