<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
	<title>Stand &amp; Fight! スタンド・アンド・ファイト - 志賀泉の「新明解国語辞典小説」アーカイブ</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/" />
	<link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/atom.xml" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2009-07-06://7</id>
	<updated>2012-01-24T19:17:18Z</updated>
	<subtitle>スタンド・アンド・ファイトは、市販の書籍から企業のＰＲ媒体、ウエブサイトの編集記事まで、いろいろなかたちの「コンテンツ」を制作する会社です。トップメッセージ制作、ブランドブック（社史）制作、パノラウンドムービー（QTVR）制作なども提供します。</subtitle>
	<generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 4.13</generator>

<entry>
	<title>ライフサイクル</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001380" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1380</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T10:17:18Z</updated>
	<summary> ライフサイクル【life cycle】①動物の個体が発生してから死ぬまでの過程の称。②その物が売れ始めてから商品としての寿命が尽きるまでの期間。③結婚に始まり、家族の発展・自己の死亡に至るまでの長期...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="ら" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>ライフサイクル【life cycle】<br />①動物の個体が発生してから死ぬまでの過程の称。②その物が売れ始めてから商品としての寿命が尽きるまでの期間。③結婚に始まり、家族の発展・自己の死亡に至るまでの長期展望。
</p></blockquote>

　たまには自分のことをたらたら書いてみようと思う。面白いか退屈かは抜きにして。
　ライフサイクル？　
　そう、これから僕はライフサイクルについて書かなくちゃならない。
　ご存知のとおり、この短編連作は「新明解国語辞典」から適当な言葉を選び、その言葉をタイトルにして小説を書いている。「ら」の段の場合、まず「雷火」「落雁」「ラバーソール」「ラム」「ランドマーク」を候補に選んだ。語感がいいのと、なんとなくイメージが膨らみそうな言葉だからだ。
　たとえば「ラバーソール」。（厚い）ゴム底の靴のことだが、舌の上で弾むような語感がいい。ラバーソール。口ずさむだけで心が浮き立つ。ソール（靴底）はソウル（魂）にも通ずる。しかしストーリーがまるで浮かばない。却下。
　「落雁」もいい。渡りの途中で力尽きた雁が、群から離れて荒野に落ちていく、月夜の情景が目に浮かぶ。侘び寂びが効いていて、しかも鮮烈。井上陽水の『神無月にかこまれて』という曲が頭にあった。そこからイメージが膨らみそうな予感がしたが、どうひねっても思わせぶりなストーリーにしかならず、これも却下。
　ひとつひとつ却下していき、結局すべて却下すると、もう一度「新明解国語辞典」を開くことになる。面倒がっていたら作家なんてやっていられない。
　そうして拾い上げた言葉が「ライフサイクル」。生まれてから死ぬまでのこと。
　ライフサイクル。ライフサイクルに関する記憶を探っていく。
　以前、ドトールでコーヒーを飲んでいたら、隣のテーブルから「決めた。これは私の走馬灯に入れる」と女の子の声が聞こえてきて、びっくりしたことがある。
　人は死ぬ間際に、一生分の記憶を走馬灯のように見るというが、彼女の場合、なるべく気持ちよく死ねるようにと、今の内から走馬灯に入れる記憶と外す記憶を分けているという。ちょうど、ケータイのメール記録を保存したり消去したりするのと同じ感覚か。
　盗み聞きしながら、へえ、と感心した。なるほど、うまくいけばポジティブに死ねそうな。できることなら僕だって、嫌な思い出がぐるぐるめぐる中で果てたくはない。
　それと、思い出したのはクリムトの「愛」という絵。大学の友人が美術館の売店で買った印刷物だが、部屋に飾ったら毎晩悪い夢ばかり見るので外したという。「志賀にやるよ」と言うのでもらって帰った。当時の僕はものすごく貧乏だったのだ。
　若い男が女を抱きよせている、映画のポスターみたいな絵だ。二人の頭上には、女性の一生が少女、熟女、老婆の順におぼろげに浮かび、それが古いタイプの心霊写真みたいでなんとも薄気味悪い。特に老婆の怨みがましい面相はなんとも凄惨で、おぞましさに寒気が走った。
　抱擁の刹那に女性の一生が浮かび上がる。一生の時間が、抱擁の刹那に凝縮される。暗示された死の影が、抱擁の場面をより生々しく艶やかに見せるのだ。
　物は試し、四畳半の部屋に飾ってみた。やはり深層心理に作用するのか、その夜さっそく強烈な金縛りにあった。僕は自己暗示にかかりやすいタイプなのだ。それから毎晩、日課のように欠かさず金縛りにあったのだった。根負けして絵を捨てるまで。

　未来の記憶を思い出す、ということはあるのだろうか。
　小学校一年か二年のころ、死の不安にとらわれたことがある。遠い親戚の誰かが亡くなったせいかもしれない。僕は葬儀に参列しなかったが、遺体を見たという兄が「鼻の穴に綿を詰められていた」と自慢気に話していた。
　兄の話から僕が想像した光景は、いつかしら僕の脳裏に定着し、今でも僕は、薄暗い座敷に眠る、鼻の穴に綿を詰められた老婆の姿を、あたかも自分の記憶であるかのようにありありと思い出すことができる。
　それが、人の死というものが切実に我が身に迫ってきた最初の体験だったと思う。
　死が怖くなった。死とは、この世界から自分がいなくなることなのだ。
　人の中には「死の種」が生まれつき備わっている。その種が、病気をするたびに毒を吸って大きくなり、最後は宿命的にその人の生命を奪う。それが、僕が考えていた死のメカニズムだった。だから、死を遠ざけるためには病気をしなければいい。病気を予防するには日頃から薬を飲んでおけばいい。そう、僕は結論づけた。
　親の目を盗み、家の薬箱から常備薬を引っ張り出してはこっそり飲んだ。薬箱は戸棚の最上段にあったが、踏み台を使えばなんとか手が届く。どの薬と決めず、手に触れた薬ならどれでもよかった。今考えるとぞっとするが、それで気分が悪くなったとか、体調を崩したとか、そういうことはなかったようだ。
　ある日のこと、家の庭でひとり遊びをしていた僕は、不意に直感した。ある種の啓示が天から降りてきたみたいに。僕はひとり遊びを中断し、一歩、二歩、三歩と大股で歩き、立ち止まった。すっと気が遠くなり、目の前が暗くなって、年老いた自分の姿が脳裏に浮かび上がってきたのだった。
　それですっかり安心したように記憶している。
　時間は流れていない。その時、僕が直感したのはそういうことだ。時間が流れるというのは、人がそう思うから流れるのであって、本当は流れていない。過去も現在も未来も同時にある。今この瞬間に、一生分の時間が含まれてあるのだ。なんだか仏教の時間論みたいな話だが、足を止めたら自分の未来が見えてきたというのは、そういうことだ。現在の一瞬に過去も未来もあるのなら、自分の死を心配する理由なんてない。だって、それはもう今ここにあるのだから。
　年老いた僕は禿げていた。着流しのかっこうで、日の当たる縁側に腰かけていた。膝には猫。僕の隣には女房らしい老婆が穏やかな笑みを浮かべている。セピア色の、古いスナップ写真みたいな情景。遠い未来でありながら懐かしさを誘うような、幸福に充ちた老後の一場面。
　つまりそれは、子供心に考えた幸福な老後の一典型に過ぎず、僕が自分の未来を垣間見たとは毛ほども信じない。信じないのだけれども、心の奥にこの情景をしまっておくことで、僕はずいぶん救われた気がする。人生山あり谷ありだけれども、最後には日の当たる縁側に行き着くのだという、漠然とした安心感があったのだ。
　たとえば三十五の歳に大病をわずらって手術を受けた時も、ひょっとしてこれまでかと不安になる一方で、日の当たる縁側を思い出し、まあ七十八十くらいまでは生きるだろうなと、高を括ってもいたのだ。
　実際、生き延びている。あれから重い病気にかかったことはない。取りあえず元気だ。あきらめかけていた結婚も四十をすぎてから実現した。条件は整いつつある。
　しかし困ったことが起きた。あの縁側だ。あの縁側は実家の縁側なのだが、古い家を取り壊して新築してしまった。しかし縁側っぽいものは付いているのでそれで代用しよう。猫はなんとでもなる。
　ところが、今年になって原発事故が起き、実家に帰れなくなってしまった。僕の家は福島第一原発から２０キロ圏内にある。警戒区域にすっぽり入っているのだ。
　弱ったことになってしまった。警戒がいつ解除されるのか誰にもわからない。一年先になるのか数十年先になるのか。しかし永久ということはないだろう。僕が年老いるころには、原発事故は忌まわしい記憶であると同時に貴重な教訓になっているはずだ。そう信じている。
　日の当たる縁側に猫を抱いて腰かけよう。女房を連れて。穏やかな心持ちでいろんなことを思い出そう。その時、僕の目は、大股歩きで一歩、二歩、三歩と庭を歩いている、幼い自分を見るかもしれない。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>らんちゅう</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001381" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1381</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T10:20:26Z</updated>
	<summary> らんちゅう【蘭虫】　キンギョの一種。からだは球形にふくらんでいて、背びれが無い。まるこ。 　体の弱い弟のためにお父さんが買ってきたキンギョは一匹一万円近くした。 　らんちゅう。 「これでも安い方なん...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="ら" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>らんちゅう【蘭虫】<br />　キンギョの一種。からだは球形にふくらんでいて、背びれが無い。まるこ。
</p></blockquote>

　体の弱い弟のためにお父さんが買ってきたキンギョは一匹一万円近くした。
　らんちゅう。
「これでも安い方なんだよ」お父さんは弁解がましく言う。少し悪びれながら。「十万円以上するものだってざらにあるんだから」
　わたしはたぶん、膨れっ面をしていたのだと思う。だってわたしは、靴屋の店先でねだった一足三千円のサンダルを「高すぎる」という理由で却下されたばかりだったのだ。
　らんちゅう。
　どこが可愛いのかわからない。お腹がやけに膨れてずんぐりむっくり。背びれがなくて不器用そうなよたよた泳ぎ。そしてそう、顔。瘤だらけの不細工な顔。うろこだけは、見事なくらい紅いのだけれど。
　グロテスク。そう思った。なのに見る人が見れば、この瘤が愛らしいのだという。顔がでこぼこなほど値打ちがあるそうだ。人の価値観ってさまざまだ。
　弟はらんちゅうのどこが気に入ったのだろう。弟は動物が好きで、けれどアレルギー体質だからペットは飼えなくて、だから近所のホームセンターに家族で買い物に行く時は必ずペットコーナーに寄ってガラス越しに犬や猫を見せてあげるのだが、ある日、弟はひとつの水槽の前で釘付けになって、何を熱心に覗いているのかと見てみれば、やけに丸っこい赤いのがひらひら泳いでいて、それがらんちゅうなのだった。
「キンギョが好きなの？」と訊ねてみても、返事は「アー」か「ウー」。
　弟は口がきけない。弟は十三歳だが三歳か四歳くらいの知能しかない。体も不自由で生まれてこのかた自分の足で立ったことがない。どのくらい言葉を理解しているのかわからないけれど話をするのは好きで、わたしがお父さんやお母さんと話をしていると「アー」とか「ウー」とか割って入る。邪魔をする。お父さんやお母さんをわたしに取られると心配になるのだ。弟は独占欲が強い。わたしの会話は中断されて、お父さんもお母さんも弟にかかりきりになる。わたしは放っておかれる。
「カッちゃんは長生きできないのだから」さんざんそう聞かされてきた。克己というのが弟の名前だ。「なるべくよくしてあげないと」
　そう、弟のおかげでわたしは我慢強い子に育った。長くは生きられなのだからと、ずいぶん弟の面倒をみてきた。誰からも感謝されずに。でも頭の片隅ではこうも思っていた。
　ひょっとして、弟は死なないのではないか。
　もちろん、弟が早く死ねばいいと願っているわけではない。けれど、自分を犠牲にして弟に尽くす日がこの先何年も続くのかと思うとぞっとする。心が暗くなってしまう。わたしは冷たいのかもしれない。でも、わたしの人生はわたしのものなのだ。わたしだって、誰にも邪魔されずにわたしの人生を生きたいのだ。
　お父さんがらんちゅうを買ってきた時も、わたしはうんざりした。なぜって、らんちゅうの世話をするのはわたしに決まっているからだ。
　お父さんは大きな水槽も買ってきていた。水槽に砂利を敷いて、水を入れて、ぷくぷく泡の出る装置を仕込んだら、案の定、「じゃあこれを読んでおいてね」とお父さんはわたしに『らんちゅうの飼い方』という本を渡したのだ。お姉さんなのだから当たり前だろう、というように。わたしはうんざりを通り越して、なんだか悲しかった。でも悲しいなんて誰にも言えない。おくびにも出せないのだ。

　らんちゅうは品種改良によって作られた生き物で、存在そのものが不自然だから、当然のことながら体が弱く、水温の管理とかエサの与え方とか神経を使う。世話がやけるのは弟と同じだ。夏休み前、予想に反して気温がぐんぐん高くなっていく日があり、わたしは部屋のカーテンを閉め忘れてきたような気がして、もし閉め忘れたのなら部屋の温度もぐんぐん高くなって水温が上昇しらんちゅうは死んでしまうのだが、お父さんもお母さんも働いているから確かめることができず、心配で心配で先生の声がちっとも頭に入らなくなり、昼休みに友だちの自転車を借りて家に帰ってみたら、部屋のカーテンはちゃんと閉まっていた。汗だくになって自転車を飛ばした自分がばかみたいだった。
　放課後は、養護学校に寄って弟を引き取り、車椅子を押して家に帰る。おかげでわたしは部活動だってできないのだ。感心ですねって大人には褒められる。褒められるとうれしい。でも小学校の時はクラスの男子によくからかわれた。「アー」とか「ウー」しか言えない弟はみっともない。元気な弟のいる友だちがうらやましかった。できたら交換したかった。「おねえちゃん」とスカートの裾を引っ張られながら弟と散歩してみたかった。わたしは弟にいろんなことを教えてあげられたのに。どうして雨は降るのかや、どうして虹ができるのかを。
　家に帰れば、キンギョ一匹には大きすぎる水槽を、らんちゅうは深紅の尾びれをひらひらさせて気ままに泳いでいる。わたしの苦労なんて知るよしもない。知るわけがない。瘤の谷間に埋もれたちっちゃな黒い目は、赤ん坊みたいに無垢だ。
　死んでたらよかったのに。わたしはらんちゅうを恨んだ。死んだらよかったのに。
　弟は水槽の横に車椅子を寄せて、指先を水面に差し込む。らんちゅうはエサをもらえると勘違いし、ふらふら寄ってきては口をぱくぱくさせる。弟はそれがうれしいのだ。何度でも同じことを繰り返す。らんちゅうもまた、何度でもだまされるのだ。似た者同士、とひそかに思う。似た者同士。
　カーテンを開くと西の雲が夕陽に紅く染まっていた。まるでキンギョのうろこみたいな紅蓮の空だった。
『らんちゅうの飼い方』によれば、らんちゅうを作ったのは江戸時代の日本人なのだそうだ。たぶん、物好きな江戸人が、たまたま変な形に生まれたキンギョを、もっと変わった形にしてやろうと、似たようなキンギョと掛け合わせて、どんどん変な形にしていって、それを「らんちゅう」と名づけたのだ。「らんちゅう」が世に出回ると、変な形を競うようになり、いつの間にか変な形ほど「可愛い」ということになった。きっとそういうことなのだろう。
　らんちゅうは自分をどう思っているのだろう。不格好で、醜くて、泳ぎも下手で、本来ならマイナスでしかない性質を逆に愛でられるなんて、自分が悲しくはならないのだろうか。

　らんちゅうが死んだのは夏の終わりだった。
　深夜のこと。お隣の家が火事になった。お隣は中華料理屋さんで、その厨房から火が出たのだった。ドンッという何かが爆発するような音に飛び起きたら、窓ガラスはもうお隣の炎に赤々と染まっていたのだ。
　パジャマのまま階段を駆け下りたら、お父さんは消火器を手に、爆風で割れた廊下の窓から外へ向けて消火剤を吹きかけていたが、そんなもの役に立たないくらい見ればわかりそうなものだった。
　弟の部屋ではお母さんが弟を叩き起こしていた。寝ぼけている弟を車椅子に乗せるのをわたしも手伝った。こんな時だからこそ実感してしまうのだけれど、弟は重い。思春期に入って食欲が増し、腰がひとまわり太くなった。おまけに半分眠っているから抱きかかえるだけでもひと苦労だった。
　弟を車椅子に移すとお母さんは現金や預金通帳や土地の権利証や、大事な物を取りに寝室へ戻り、わたしは弟の体に毛布をかけてやりながら、ちらっと水槽に目をやった。らんちゅうは淡い光の中に沈んで眠っていた。わたしはそのまま車椅子を押して玄関に向かった。
　弟と家の外に出ると、道ばたにはもう野次馬が集まっていた。わたしは自分の洋服や教科書を取りに家へ戻ろうとして、みんなに引き止められた。その頃には、火はわたしの家に燃え移っていたのだ。
　日常って、こんなに簡単に壊れるものなんだ。否応なしに奪われていって、もう取り返しようがないんだ。わたしは茫然と突っ立って、燃えていく我が家を見ているしかなかった。
　でも、わたしが大切にしている洋服や教科書やアルバムなんかを、お父さんは両手に抱えて運んできてくれた。泣きたいくらいうれしかった。お母さんも大きなバッグを提げて出てきた。不幸中の幸いというか、お隣さんもふくめて全員無事だった。
　ただし、らんちゅうを除いて。
「らんちゅうは？」わたしは訊ねた。
　お父さんは、はっと思い出したような顔になり、「仕方ないさ、あきらめよう」とため息を吐いた。お父さんはらんちゅうのことをすっかり忘れていた。
　わたしは気づいていた。なのに見捨てた。その気になれば助けられたのに、時間の余裕はあったのに、どうして見殺しにしたのだろう。自責の思いに、心臓がぎゅっと押し潰された。涙があふれてきたが、誰にも涙の理由を言えなかった。
　そうしているうちにも火は燃え広がり、消防車のサイレンの音は遠くから聞こえるのだけれど、どこでつかえているのか、なかなか近づいてくる様子がない。
　ようやく到着した消防隊が消火作業を始めても、火の勢いは止まらなかった。すっかり目覚めた弟は興奮してやたら叫び続けた。
　屋根が崩れ、ぽっかり開いた穴からひときわ高く火柱が立ち上がり、夜空を焦がした。
　その時、わたしは見たのだ。舞い上がる火の粉のただ中から、巨大ならんちゅうが現れるのを。顔の瘤が炎を浴びて紅蓮に輝き、緋色のうろこが火の粉を振り払い、らんちゅうは悠然と尾びれを振りながら、天空を泳いでいった。
　幻覚だろうか。もし幻覚だとしても、同じ幻覚を弟も見ていたのだ。
　弟は車椅子から身を乗り出し、炎に顔を赤く染め、まるでらんちゅうみたいな顔で、しきりに口をぱくぱくさせながら夜空を見上げていた。
　声にはならなかったけれど、その口の形がわたしには、俺も連れて行ってくれと、訴えているように見えたのだった。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>りきゅうねずみ</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001382" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1382</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T10:29:28Z</updated>
	<summary> りきゅうねずみ【利休鼠】緑色を帯びた鼠色。利休色で鼠色がかったもの。 　雨はふるふる城ヶ島の磯に　利休鼠の雨がふる 　わたしが泊まっている民宿の一階が大衆食堂で、お店の入り口に下がった藍のノレンにこ...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>りきゅうねずみ【利休鼠】<br />緑色を帯びた鼠色。利休色で鼠色がかったもの。
</p></blockquote>

　雨はふるふる城ヶ島の磯に　利休鼠の雨がふる

　わたしが泊まっている民宿の一階が大衆食堂で、お店の入り口に下がった藍のノレンにこの詞は染め抜かれていたので、ノレンを何度もくぐって出入りしているうちに、自然と覚えたのだった。
　北原白秋が作詞した歌の一節だというが、どういうメロディなのかは知らない。「利休鼠」とは色の名前らしいが、どういう色なのかも知らない。「城ヶ島」がどこにあるかも知らない。少なくとも、わたしが泊まっている部屋の窓から見える島ではない。
　あの島は、なんという島なのか。お椀を伏せたような、こんもりとした森がある小さな無人島。それでもコンクリートの桟橋はあって、釣り人は舟を漕いで島に渡り、桟橋に腰かけて日がな釣り糸を垂らしている。
　わたしは釣りはしない。釣りどころか、魚を素手で触れもしない。生き餌を釣り針に刺す、もうそれだけで無理。
　入社二年目で会社が倒産し、退職金をもらったので旅に出た。他に使い途を思いつかなかった。海を見たいと思い、旅に出ていちばん初めに入った食堂の焼きホタテ定食がことのほかおいしく、二階が民宿だと知って泊まろうと決めた。以来ずっとそこにいる。
　雨がふると退屈だ。町には娯楽というものがないのだ。窓に腰かけ、細い雨脚にかすむ島をながめて、わたしはつい「雨はふるふる」の歌を口ずさむ。メロディは知らないので適当な節をつけて歌う。「あぁめぇはあふぅるぅふぅぅるぅぅ」とか。目の前にある島は城ヶ島ではないが、ぜんたいが暗い色に沈んで山水画っぽくなった景色は城ヶ島の歌に似ている、と思う。

　死んだ叔父が、わたしの部屋に訊ねてきた。
　叔父は三年前に胃癌で死んだのだった。結婚はしてなかった。
　雨降りの日に、無人島の桟橋にぽつんと人影があり、それが釣り人ではないダークグレイの背広姿なので、なにをしているのだろうと不思議に思っていたら、叔父さんなのだった。顔はよく見えないが背中の丸め方に特徴があるのだ。
　その日は朝から雨で、雨の日はこれまでにも何度かあったのに、なぜかその日に限って天井から雨漏りがして、雨だれを受ける容器をもらいに帳場に降りたが誰もいないので、勝手に厨房に入って黒い丼鉢をひとつ持ち出し、雨漏りの下に置いていた。お風呂場の洗面器を使うと惨めったらしいが、丼鉢なら多少は風流になると思ったのだ。
　一時間ほどしておかみさんが帰ってきたので雨漏りの件を話すと、おかみさんは大層もうしわけない顔をして「部屋を変えますか」と言ってくれたが、わたしは「いい」と断った。わたしの部屋は角部屋なので、島がよく見えるのだ。
「地震の影響で瓦がずれたのかねえ」おかみさんは天井を見上げてため息をついた。
「この辺りもずいぶん揺れたんですか」
「お茶碗がいくつか割れた程度だけどねえ。それにしても情けない」
「いままでは雨が降っても平気だったのに」
「この建物も古いから。地震は別にしても、あちこちガタがきてるんだよ。わたしの亭主と同じ、あっちが痛いこっちが痛いって。そのうちぺしゃんこに潰れるよ」
　おかみさんは陽気に笑いながら部屋から出ていった。
　わたしは東京で地震を体験したのだった。ビルが大きく揺れて、わたしのノートパソコンは机から飛ぶようにして落ちたのだった。わたしの会社の取引先は東北に集中していたから、取引先が潰滅すると一蓮托生でわたしの会社も潰れたのだった。
　しずくは天井の一点から生まれ、木目に沿って横へとすべり、すべりながら大きくなって、四つか五つ一列に並び、ある一点まで来ると自分の重さに堪えられなくなるのか、順番に天井をはなれて、丼鉢めがけ落下するのだった。しずくの運動には秩序のようなものがあって、わたしを心地よくさせるのだ。
　わたしは叙情的になろうとして窓を開けたが、雨雲の隙間から差し込む陽射しのせいで雨脚のひと筋ひと筋がよく見え、それはくうかんを傷つけているように見えた。雨はくうかんを傷つけながら降っているのだ。
　島の桟橋に人影を見つけたのはそのときだった。
「叔父さん？」と呟くと、その声が叔父さんを引き寄せたのか、いつの間にか叔父さんはわたしの部屋にいた。北側の窓に寄り添い、畳の上でゆるくあぐらをかき、煙草などふかしていた。
　叔父のたたずまいは生きている人と変わらないが、煙を吸いこむたび体は透けていき、吐き出すとまた元に戻るのだった。吸いこまれた煙は、送り込まれるはずの肺がないものだから行き場をなくし、半透明化した叔父の顔の中でもわっとした白いかたまりになり、大半は毛穴から抜け、わずかな残りが口から出るのだった。
「煙草を吸うと体が透けていくよ」
　わたしが指摘すると、叔父は自分で気づかなかったらしく、目の前に手のひらをかざして煙草を吸い、透けていく手のひらに「ほお」と感心したような声をあげた。
「体が透けるくらいだから、やっぱり煙草って体に悪いんだよ」わたしは言った。
「死んでまで禁煙をすすめられるとはな」
　でたらめに生きてきた報いだと、わたしの父は死ぬ間際まで叔父を叱っていた。叔父は貧しかったので、手術代や入院費を肩代わりしていたのだ。葬儀代も父が払った。「迷惑ばかりかけやがって」と、死んでも叔父を責めていた。
「そうじゃないけど。幽霊も煙草を吸うんだって、びっくりしただけ」
「幽霊って言うなよ」
　叔父は悲しい目をして横を向いた。幽霊になったくせに、叔父は「幽霊」と呼ばれるのが嫌いらしい。
「叔父さん」とわたしは呼んだ。「利休鼠ってどういう色か知ってる？」
「あめはふるふるじょうがしまのいそに利休鼠のあめがふる、の利休鼠か」叔父は城ヶ島の歌を（たぶん）正確に歌った。
「利休は茶人なのに、秀吉に切腹を命じられたんだよ」叔父は言った。叔父は物知りなのだ。「利休は死んで鼠に生まれ変わったのさ。利休は鼠になってもお茶会を開いた。鼠の間にも侘び寂びを広めようとしてね。鼠になった利休がお茶を点てるたびに雨がふったという記録が残っている」
「嘘ばっかり」叔父は物知りだが、同じくらい嘘つきでもある。
「本当だよ。その鼠の毛並みが薄墨色で見事だと評判になって、その色を利休鼠と呼ぶようになったんだ」
「鼠のお茶会を見た人がいるの？」
「いくらでもいるよ。ときどきは人間を招待していたからね」
　叔父は煙草を窓から捨てると、雨だれ受けの丼鉢に手を伸ばし、あぐらをかいたまま、茶を飲むようなしぐさで雨水を飲んだ。
　実体のない叔父の体のなかで水はどうなるのか見守っていたら、水は叔父の体をすり抜け、尻の下にじわじわと水たまりが広がっていったのだった。
　わたしは慌てて、雑巾をもらいに階下へ降りていった。
　雑巾を手に部屋に戻ると、叔父は悪びれもせず、窓に腰かけて新しい煙草をふかし、やっぱり、体を透きとおらせたり元に戻したりを繰り返していた。叔父の体が透きとおると、叔父の背後に降る雨が仄かに見えてきて、まるで叔父の体の中に雨が降っているように見えるのだった。
「ねえ、叔父さんはどうしてあの島にいたの？」
　わたしは濡れた畳を雑巾で拭きながら尋ねた。
「さっちゃんはどうしてここにいるの？」叔父さんは逆にわたしに尋ねた。
「さあ、どうしてだろう」わたしは首をかしげた。
「さあ、どうしてだろう」叔父さんはわたしの口真似をした。「死んだ人はみんなそう言うよ。さあ、どうしてわたしは死んだのだろう」
「神も仏もない？」
「信じてる人はあの世でも信じてる。でも見たという人はいない」
「幽霊になっても会えないのか」
「幽霊って言うなよ」
　叔父は悲しい顔になり、深く煙を吸いこむと、そのままどこまでも透きとおっていき、しまいに消えていった。煙だけがくうかんに漂っていた。

　しばらくして、屋根の上からガタガタ音がするので傘をさして外に出てみると、食堂兼民宿の主人が屋根に上りブルーシートを広げているところだった。
「明日の朝まで降り続くというからさ。みっともないけど応急処置ってところさ」
　おかみさんも、傘をさして屋根を見上げていた。
「どうもすいません」
「なにもあんたが謝ることはないさ」おかみさんは笑った。「ところであんた、煙草を吸うんだねえ」
「え、吸ってました？」
「さっき、あんたが窓に腰かけてぼんやり煙草をふかしているのを、うちのあれが見たって言うんだけど、煙草を吸う人に見えなかったからさ」
「あ、そうなんですか」
「別にかまわないんだよ、火の始末さえ気をつけてくれたら」
　それからもしばらくは雨漏りが続いたが、日が暮れかかる頃にぴたりと止んだ。わたしはお礼を言って、丼鉢を厨房に返した。
　雨は夜になっても降り続いた。わたしは蒲団をかぶって目を閉じていたが、暗い小島の桟橋に立っている叔父の姿が目に浮かび、ときどきその姿がわたし自身の姿に入れ替わって、悲しくなり、泣いた。いちど泣き出すと無性に寂しくなって、蒲団の端を握りしめながらわんわん泣いた。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>りす</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001383" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1383</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T11:08:44Z</updated>
	<summary> りす【栗鼠】森林にすむ小動物。背中は灰色で、薄い茶色の斑紋（ハンモン）が有る。腹部は白色、尾はふさ状。巧みに木の上を活動する。きねずみ。〔リス科〕 　はい。大家さんの庭のモミの木を伐り倒したのは私で...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>りす【栗鼠】<br />森林にすむ小動物。背中は灰色で、薄い茶色の斑紋（ハンモン）が有る。腹部は白色、尾はふさ状。巧みに木の上を活動する。きねずみ。〔リス科〕
</p></blockquote>

　はい。大家さんの庭のモミの木を伐り倒したのは私です。ええ、この斧です。間違いありません。近所のホームセンターで斧を買い、大家さんの留守をねらって庭に侵入しました。伐り倒すのに一時間はかかりました。見事なモミの木でしたから。ええ、木を伐るのは初めてです。斧を斜めに振り下ろすのって案外と難しいですね。わき腹がまだ痛い。こんなところの筋肉、ふだんはあまり使いませんから。途中でノコギリにすべきだったと後悔しました。でも、ノコギリにしたらしたで、斧にするんだったと後悔したでしょう。人間ってそういうものです。え、電動ノコギリ？　そうですね、電動ノコギリを使えば楽だったでしょうね。ぜんぜん思いつきませんでした。
　いえ、モミの木を盗むなんて馬鹿げてます。盗むつもりで伐ったんじゃありません。だいいち、どうやって運び出すんですか。あくまで、モミの木を伐り倒すのが目的だったんです。倒れた後のことは考えませんでした。伐り倒しさえすればよかったんです。どの方向に倒そうなんて計算はしてません。どっちへ倒れるか神のみぞ知るです。
　いや、ですから、モミの木が大家さんの家に倒れるなんて予想しなかったんです。もちろんびっくりしました。あ、あ、あーってくらいです。夢でも見てるみたいでした。まさか、あんなに見事に屋根を押し潰すなんて。え？　違います。大家さんの家を壊すためにモミの木を伐り倒したんじゃありません。モミの木を伐り倒したかっただけです。大家さんの家が壊れたのは事故、偶然の事故です。だって、考えてみてください、大家さんの家を壊して私に何の得があるっていうんですか。
　はい、そうです。アパートと大家さんの敷地の間には塀があります。その塀を越えてモミの木が枝を伸ばして、先端はアパートの屋根に届いていました。そのこと自体は気にしてません。日照権とか、昼間はほとんど部屋にいないので関係ない。仕事ですか？　工場で働いてます。タオル工場です。主におしぼりを作っています。けっこう重労働です。夕方は毎日へとへとです。だから夜はぐっすり寝たいんです。友だちはいません。酒も飲みません。働いて食って寝るだけの毎日です。寝ることは大事です。人間はね、一生の三分の一を寝てるんですよ。眠りの邪魔をする者がいたら誰だろうと許しません。
　こんな性格だから結婚できないんでしょうね。いえ、したいとは思わない。奥さんをもらったって、しょせんは他人ですから。面倒なだけです。性行為もしたくない。性欲はありますよ、人並みに。でも性行為のために時間を無駄にしたくない。お金を使いたくない。性欲は自分で処理します。それがいちばん簡単です。生まれてからずっとそうです。いえ、寂しいとは思いません。結婚したって寂しい人は寂しいんです。
　いや、私の性欲なんてどうでもいいんです。問題は栗鼠です。
　私がね、どうしてモミの木を伐り倒したかっていうと、栗鼠なんです。栗鼠がね、枝を伝ってアパートの屋根に飛び移り、私の部屋に侵入してくるんです。栗鼠の習性、知ってますか？　木の実を土に埋めて隠すんです。後で掘り出して食べるために。でもその栗鼠はちょっと変わったやつで、よりによって私の口の中に胡桃を隠そうとするんですよ。こんな大きな胡桃です。寝ている私の額によじ上って口をこじ開け、胡桃を無理やり押し込むんです。窒息しかけて飛び起きます。二個も三個もぐいぐい押し込められたことだってあります。
　さあ、どうしてでしょう。理由は栗鼠に聞いてください。栗鼠を捕まえられたらの話ですけど。すばしっこいですよ。私が吐き出した胡桃を抱えて一目散に逃げ去ります。捕まえようったって無駄。柱を伝って天井板を押し上げて屋根裏に逃げ込みます。見えるのはいつも尻尾だけです。ええ、シマシマの模様がある尻尾。
　それが毎晩なんですからたまりませんよ。睡眠不足で気が狂いそうです。もちろん大家さんに相談しました。でも大家さんは私の話をまともに聞いてくれません。せめて証拠になる胡桃があればいいのですが、ないものは仕方ない。せめて、アパートの屋根にかかる枝を剪らせてくれと頼みましたが、許してはくれませんでした。
　鼠取り？　もちろん試しました。五個も六個も蒲団の回りに仕掛けて寝ました。でも無駄です。いろいろ餌を変えてみましたが、栗鼠は食いきれない胡桃を隠そうと私の部屋にやってくるのですから、空腹のはずがないんです。
　でもね、それだけならまだ我慢できます。いずれ近いうちに栗鼠は冬眠に入る。春がきたら状況が変わるだろう。もう少しの辛抱だ。そう自分に言い聞かせていました。
　我慢できなくなったのは昨夜です。昨夜は私にしては珍しく、なかなか寝つけなかったのです。それで、目だけ閉じて栗鼠の到来を待つでもなく待っていました。目覚めながら栗鼠を待つなんて初めてです。やがて、天井でカタッと音がして栗鼠がやってきました。栗鼠は、私が仕掛けた鼠取りの間を縫って枕元までくると、そのまま額によじ上るのかと思いきや、私の耳に鼻先を差し込んで、そっと囁いたんですよ。いえ、何を囁いたかは言えません。言えないくらい屈辱的なことです。一瞬で血の気が引きました。毎晩、眠っている頭にこんなことを吹き込まれていたのかと思うと、悔し涙があふれました。同時に、栗鼠を絶対に許さないと誓いました。
　栗鼠はきっと、私が狸寝入りをしていると気づいていたのでしょう。その日は胡桃を抱えてそのまま帰っていきました。
　明くる朝、というのは今朝のことですが、私は工場に電話を入れて欠勤しました。そうしてホームセンターに行って斧を買ってきたのです。それからのことは前に話したとおりです。だから私はつまり、栗鼠を退治しようとして栗鼠の巣があるモミの木を伐り倒したのであって、大家の家が壊れたのは偶然でしかないんです。ええ、おっしゃるとおり思慮が足りなかったのかもしれません。でも、住宅地の中ですからどの方向に倒したって何かは壊していたはずです。
　はい。懲役刑は覚悟してます。と言うか、むしろ望んでます。刑務所はいわば密室なわけでしょう。栗鼠が侵入してくる隙間はありませんよね。でしたら、安心して眠れそうです。いまのところ私の望みはそれだけです。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>るしゃな</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001384" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1384</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T10:38:21Z</updated>
	<summary> るしゃな【盧遮那】「毘盧遮那ビルシャナ仏」の略。（「毘盧遮那仏」＝知徳の光で全宇宙をあまねく照らすとされる仏。〔密教では大日如来〕） 　引っ越しをした。妻が男を作って逃げたからだ。 　ある晩、仕事場...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="る" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>るしゃな【盧遮那】<br />「毘盧遮那ビルシャナ仏」の略。（「毘盧遮那仏」＝知徳の光で全宇宙をあまねく照らすとされる仏。〔密教では大日如来〕）
</p></blockquote>

　引っ越しをした。妻が男を作って逃げたからだ。
　ある晩、仕事場から帰ると妻の姿はなく、代わりに離婚届がテーブルに置いてあった。妻のサインと捺印はすでにしてある。置き手紙らしきものはなかったが状況はほぼ呑み込めた。ははん、男と逃げたのだなと。まあ、これくらいあっさりと去ってくれたほうが私としても、後腐れがなくてむしろ気持ちがいいくらいだ。
　それで、私のしたことといえば妻と住んでいた賃貸マンションを引き払い、仕事場として借りていた部屋に引っ越したことくらいだ。私は一人で建築事務所を経営している。なぜ妻の心が私から離れたかというと、私の収入が落ち込んで明るい見通しが立たなくなったからだが、なに、贅沢さえ慎めば充分にやっていけるのだ。仕事場にしている部屋は、泊まり込みで仕事をする日も多いので必要最低限の日用品は揃えていたから、元の家から運んだものはそう多くない。家電品でいえば洗濯機くらいのものだ。
　それでもまあ、引っ越しは引っ越しに違いなく、煩瑣な雑用に追われて離婚届のほうは後回しにしているうち、どこに紛れ込んだものやら失せてしまった。どこをどう引っかき回しても出てこないのだ。
　ああ、まずいな。妻に連絡してもう一度サインを、と思っても連絡先がわからない。行き先を告げて駆け落ちする馬鹿はいないのだ。
「無理して独立なんてするからよ。このええかっこしい」
　妻はさかんに私を責めたが、なんのことはない、妻が駆け落ちした相手は私より生活力のない、ただのやさ男だった。どうせ口車に乗せられたのだろう。男には腹が立ったが、あの程度の男に騙された妻が憐れでもあった。妻を憐れむとその反作用で優越感がちょっぴり込み上げてきた。
　妻のためにもさっさと離婚届にサインをして手続きをすませたいと思うが、肝心の離婚届が見当たらないのだからどうしようもない。だいたい、離婚届に自分だけサインをして出ていくという妻の遣り口が卑怯だったのだ。私は別に困らないが妻は困るだろう。しかしそれも自業自得というものだ。
　まあいいや。離婚届がこの部屋のどこかにあるのは間違いない。そのうちひょっこり出てくるだろう。あきらめて、ベランダでごとごと洗濯機を回した。なぜ引っ越しの初日に、しかも空が暗くなりかけてから急に洗濯を始めたのかわからない。でも洗濯物の渦を眺めていると、消えてしまった離婚届のありかを思い出せそうな気がしてくる。もちろん洗濯物の渦と離婚届との間にはなんの関係性もない。私が思い出そうとしているのは別のなにかかもしれない。でもなにかってなんだ？　なにかってなんだってなにか？　なにかってなんだってなにかってなんだ？
　玄関のチャイムが鳴ったのはそのときだった。
　らちの開かない物思いを捨て、私は玄関に直行した。ドアの覗きレンズを覗いたら外に宅配便の配達員が立っている。ウミガメ印の宅配便だが、なぜ宅配便のキャラクターがウミガメなのかわからない。でもそれはどうでもいいことだ。得意先に頼んでおいた資料が届いたのだろう。配達員の抱えている箱はちょうどそれくらいの大きさだった。
　ドアを開けると黄金色の光が玄関にどっと差し込み目がくらんだ。玄関が真西を向いているので西日がまともに照りつけるのだ。逆光になった配達員の顔が黒ずんでよく見えない。しかし「お届けに上がりました」という無愛想な声になぜか聞き覚えがあった。誰だったかな、と首を傾げていると、押しつけられるように荷物を手渡された。意外なくらい軽い荷物だった。中身はからっぽではないかと思ったくらいだ。
「サインか印鑑を」突っ慳貪に配達員は言った。
「じゃ、ボールペンを貸してもらえますか」
　私は憤懣を押し殺し、配達員の胸ポケットにあるボールペンを指差した。
　ボールペンを借り、配達員が差し出した伝票にサインをしようと下を向いた。そのとき初めて、配達員が裸足だということに気づいた。まったくの素足で玄関先に立っていたのだ。え、なぜ？　サインの途中で首を上げた途端、ごつい拳が飛んできた。顔面に衝撃が走り、一瞬、暗くなった目の中で火花が散った。私は物凄い力で背中から吹っ飛び、その勢いで床板を滑り突き当たりの壁に頭を打ちつけた。痛いよりも怖ろしかった。理由はわからないが殺されると思った。
　西日を背負い、配達員はとてつもない大男に見えた。いつの間に大きくなったのか、ゆらゆらと巨体を揺らして背を屈めドアの内に踏み込んでくる。ゆったりとした動作に見覚えのあるような気もするが思い出せない。男がそのまま玄関に上がり襲ってくるのかと覚悟したが、彼は足下に転がっていた荷物の上に伝票の控えを置き、何も言わずに去っていった。
　ドアが閉じると西日も閉ざされ、玄関は元の薄闇に沈んだ。ただ、きな臭い匂いだけが残った。箱を開けてみると、やはり中身は空っぽだった。紙切れの一枚も入っていない。伝票を見れば送り主は、さるまた県さるまた市のさるまた株式会社。悪い冗談だ。私のサインは名字の途中で切れていた。緊張が解け、警察に通報する気も失せた。
　ベランダで洗濯機がピーピー鳴った。洗濯が終わったのだ。
　私はベランダに戻り、洗濯物を干していった。妻のズロースが一枚、なぜか混じっていた。どうしようか迷ったが、洗濯ばさみにはさんで吊り下げた。捨てるにしたって、乾かしてからでないと気持ちが悪い。
　配達員に殴られた頬はいつまでもひりひり痛んだ。あれだけ強く殴られたのに骨に異常はなさそうで、その代わり皮膚の表面が焼けつくように熱い。
　道路を隔てた向こうにカラオケルームのビルがあり、ブラインドを下ろして暗い窓に夕陽が映っていた。ビルの谷間に落ちかかった夕陽は赤々と映え、輪郭がくっきりとして存在感を際立たせていた。なぜか夕陽に見られているような気がした。男に殴られた頬は、夕陽に呼応して痛みを増すような気がした。
　あの男は何者だったのか。私は窓に映った夕陽と妻のズロースをひとつの視界の内に眺め、ひょっとしてあれは神さまだったのではないかと、なぜかしら唐突に思った。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>るりこうにょらい</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001385" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2012://7.1385</id>
	<published>2012-01-24</published>
	<updated>2012-01-24T10:42:46Z</updated>
	<summary> るりこうにょらい【瑠璃光如来】薬師如来。（「薬師如来」＝一切の人間の病気を治すという如来） 　引っ越しをした。妻が男を作って逃げたからだ。 　ある晩、仕事場から帰ると妻の姿はなく、代わりに離婚届がテ...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="る" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>るりこうにょらい【瑠璃光如来】<br />薬師如来。（「薬師如来」＝一切の人間の病気を治すという如来）</p></blockquote>

　引っ越しをした。妻が男を作って逃げたからだ。
　ある晩、仕事場から帰ると妻の姿はなく、代わりに離婚届がテーブルに置いてあった。妻のサインと捺印はすでにしてある。置き手紙らしきものはなかったが状況はほぼ呑み込めた。ははん、男と逃げたのだなと。まあ、これくらいあっさりと去ってくれたほうが私としても、後腐れがなくてむしろ気持ちがいいくらいだ。
　それで、私のしたことといえば妻と住んでいた賃貸マンションを引き払い、仕事場として借りていた部屋に引っ越したことくらいだ。私は一人で建築事務所を経営している。なぜ妻の心が私から離れたかというと、私の収入が落ち込んで明るい見通しが立たなくなったからだが、なに、贅沢さえ慎めば充分にやっていけるのだ。仕事場にしている部屋は、泊まり込みで仕事をする日も多いので必要最低限の日用品は揃えていたから、元の家から運んだものはそう多くない。生き物でいえばサボテンくらいのものだ。
　サボテンは妻が趣味で集めていた。私たちには子供もいないし、マンションだからペットも飼えない。それで妻は、口をきかず歩きもしないペットとしてサボテンを飼っていたのだ。そう、妻はサボテンを「育てている」でなしに「飼っている」と言った。「うちで飼っているサボテンが花を咲かせたのよ」とか。もちろん真顔で。
　ある種の俗説のようにサボテンが人語を理解するとは信じていなかったが、それでも妻は「○○ちゃん」などとサボテンをちゃん付けで呼び、まめに話しかけていた。そうすると花がきれいに咲くのだと小学生のとき先生に教わったらしい。
　それで気晴らしになるのだったら止めさせる理由はない。サボテンを見てると確かに、その静かなたたずまいは内省的な生き物に見えなくもない。サボテンへの妻のささやきに聞き耳を立てたことがあるが、妻はなにやら人生相談めいた話をサボテン相手にしていたので、思わず私はのけぞった。いまにして思えばあのときすでに妻は病んでいた。病んでいたのでなければ、どうして生活力のないやさ男なんかと駆け落ちするだろう。
　廃品業者には「なまものは駄目なんで」と処分を断られ、引き取ってくれそうな友人もいない。仕方なしに事務所兼住居となった部屋のベランダに棚を置いて並べた。水もやらずに放っているが、サボテンは苦もなく生きている。サボテンに意識があるとは信じないが、いざ妻に去られてしまうと、サボテンに妻の妄念が残っているようで少々怖ろしくもある。さんざん妻の病を吹き込まれた彼らは、丸っこい形であれ、柱状であれ、うちわ型であれ、沈思黙考にふけって「むむ」とか唸っているように見えてしまう。
　ある日、建築現場から戻ってみるとベランダが荒らされていた。棚に置いたサボテンのうち、最下段にあったひとつが倒され、無惨に食い散らされていたのだ。なんだか、猛禽類にやられた小動物みたいで痛ましかった。飛び下り自殺者の、脳味噌が飛び散った死体の写真を見たことがあるがあれに似ていた。誰の仕業だ。ネズミかカラスくらいしか思い浮かばないが、ネズミやカラスがサボテンを食うなどとは聞いたことがない。犯人の正体がつかめないのでは対策の立てようがない。しばらく様子を見ることにしたが、案外早く犯人は姿を現した。
　翌朝、歯を磨きながらベランダに出てみたら、なんとイグアナがサボテンを食べていたのだ。びっくりして、思わず口から泡を吹き出した。
　イグアナが振り向いた。私はイグアナと目を合わせた。イグアナの眼差しは涼しかった。しばらくじっとしていたが、棒立ちの私を敵ではないと見定めたのか、前に向き直り平然とサボテンに食らいついた。棘などなんのその、ばりばり噛みちぎって飲み下している。その泰然自若とした後ろ姿に私は恐れ入った。
　イグアナは体長六十センチくらい。体表は目の覚めるように鮮やかな緑色をして、背中に青紫色のまだら模様がある。その青紫色が陽射しを受けて宝石のように輝くのだ。怖いというより美しさに息を呑み、私は後ずさりして部屋に戻りアルミサッシをそっと閉め、ガラス越しにイグアナを観察した。イグアナはサボテンを食い散らすと、落ち着き払った態度で回れ右をし、悠然と私の目の前を通りすぎ、ベランダの仕切りの下をくぐって隣のベランダへと消えていった。
　あ、なるほどね。イグアナは隣人のペットなのか。ベランダに放していたら、イグアナはこちらのサボテンに目をつけてやってきたわけだ。わかってしまえば不思議でもなんでもない。よくわからないが、サボテンを見れば食いつくのはイグアナの習性なのだろう。イグアナに罪はない。罪を問われるべきは隣の住人だが、日頃から付き合いはなく、どんな人なのか顔も知らないのに苦情を申し立てに行くのは気が引けた。隣人がまともだったらよいが、相手によっては隣人トラブル、果ては殺人事件に発展しかねない。殺人事件は得てしてこういうつまらぬことが発端になるのだ。
　そうすると、次善の策として思いつくのは、イグアナが侵入してこないよう仕切りの下に障害物を置くことで、これがいちばん手っ取り早い。善は急げで、適当な障害物を探して部屋の中を引っかき回しているうち、まあいいや、イグアナの好きにさせようと気分が変わった。イグアナがサボテンを食べてくれるなら邪魔だてする理由はない。サボテンを食べてくれるということは、妻の病んだ妄念を始末してくれるということでもある。それなら好きなだけ食べさせてやればいいではないか。あはっ、まるで問題ない。
　私はイグアナが食べやすいようサボテンを棚から下ろしてベランダの隅に並べた。イグアナは決まって朝の七時から八時にかけてやって来た。そうしてサボテンをひとつずつ食い散らかしては帰っていった。私は毎朝、イグアナの到来を心待ちにするようになった。イグアナの鮮やかな体表に魅せられた。特に背中の青紫色のまだら模様は、光の当たり方によっては虹色が走った。それを目にするたび私は胸が涼しくなる思いがした。薄荷のようなものが喉をすっと降りていく心地がした。一種の浄化作用かもしれない。イグアナの背中のまだら模様から、ふと、青紫色の神さまが涼しげな顔をして立ち上がった気がしたのだった。
　しかし、終止符は唐突に打たれた。
　ある日の夕方、玄関のチャイムが鳴りドアを開けてみると、いかにも水商売ふうのけばけばしい女が死んだイグアナを抱いて立っていた。「あの、隣の者なんですけど」と女は言った。「おたくのベランダのサボテンをうちのイグアナちゃんが食べて、棘を喉に詰まらせて死んだのよ」と女は詰め寄った。「知ってたんでしょう？　そんな危険なものを食べさせておいて、どうして放っておいたのよ」
「ふざけるな」と私は言い返したが、情夫らしい男が女の後ろに立ち、私を無言で威嚇した。私は慰謝料として三万円を渡した。それで女は満足していた。
　はあ。私はため息をついた。
　サボテンはふたつ残っていた。そういえばサボテンのステーキなる料理があったよな、と思い出し、表皮の棘をていねいに抜き取り、水洗いをして輪切りにしフライパンで炒めてみた。サボテンは苦かった。舌がひりひりし、とても食えたものではなかった。

]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>よじん</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001378" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2011://7.1378</id>
	<published>2011-10-30</published>
	<updated>2011-10-30T12:39:25Z</updated>
	<summary> よじん【余燼】火事場で、まだくすぶっている火。 　気がつけば焼け野原さ。 　敵機が去った後の空が嘘のように静かでなあ。 　工場の屋根が落ちて、ひん曲がった鉄骨ばかり残って。地上には焼け焦げたトタン板...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="よ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>よじん【余燼】<br />火事場で、まだくすぶっている火。
</p></blockquote>

　気がつけば焼け野原さ。
　敵機が去った後の空が嘘のように静かでなあ。
　工場の屋根が落ちて、ひん曲がった鉄骨ばかり残って。地上には焼け焦げたトタン板が散乱しておった。
　嘘みたいだったよ。ついさっきまでプレス機を動かしていた、同じ場所がほんの小一時間で瓦礫の山さ。いたる所から真っ黒な煙が上がってな。油が燃えてるんだ、そうそう簡単に消えるものか。
　両足を火傷してうずくまっていたよ。生き残ったことがさほど幸運とは思えんかった。
　敵機が襲来してきたとき、わしはたまたま外にいて、真っ先に防空壕に逃げ込んだのだが、その防空壕ときたら半ば倉庫代わりでなあ。入り口近くにガソリン缶を積み上げてたのだから話にならん。ガソリンに火がついて防空壕の中は火の海。煙が奥の方まで流れてきたものだから、このままじゃ窒息すると思い、わしは思い切って火の海を駆け抜けて外に出たんだ。
　運動靴に火が移りわしは転がった。燃え上がる靴を大慌てで脱ぎ捨てたら足の皮膚がべろべろに剥がれてな。しかし痛がってる場合なものか。空からは爆弾が絶え間なく落ちてくる。耳のすぐそばでどかんどかんさ。
　どうやって助かったものか。まるで覚えちゃいないが、気がつけば空襲は去り、わしは焼け野原にうずくまっていたのよ。
　あんな状況でよく生き残ったものよ。そこらじゅう死体だらけでな。黒焦げの顔に歯ばかりが白く剥いていたり、すっかり炭化して縮こまっていたり、あれは爆風で吹き飛ばされたのだろうな。ちぎれた体の一部がゴミみたいに電線にぶら下がっていたりもした。
そいつらみんな、ついさっきまでわしといっしょに鉄を曲げたり伸ばしていた仲間さ。もう誰が誰やら見分けもつかん。まともな死体なんぞひとつもない。
　わしは考えたよ。どうしてわしはこいつらでないのだろう。そこにどういう違いがあるんだろうってな。生きているという感覚は変なものだった。うまく言えんが、生きている自分の体が馴染めなかったんだ。
　わしの両足は焼け爛れてまっ赤さ。赤剥けの肉そのもので、とても自分の足とは思えなかった。おまけに煙を吸って火傷したのか、喉が焼けるように痛い。声も出ない。なんとか水のあるほうへ行きたかったが、周りは火のくすぶる焼け野原で、這って歩くこともかなわん。途方にくれたよ。助けが来るのが先か、自分が死ぬのが先か。
　せめて靴があればと思った。まともな靴があれば水のある所まで自力で歩いていけるのに。水を飲んでそのまま死ぬのであればそれでもかまわん。とにかくわしは水が飲みたかったのさ。

　鳥居陽造は八十歳でこの世を去った。肝臓癌だった。
　自分はもう長くはないと悟ったときから幾度となく病室に家族を呼び寄せ、全員納得の上で遺言書を作成してきたから、死後に禍根を残すことはないはずだったが、臨終の後に遺言書を開いてみると、その末尾には奇妙な一行が書き加えられていた。
「死に装束に足袋・わらじは無用。素足のまま納棺すべし」
　遺族は面食らった。陽造の両足には火傷の痕がある。足の裏からくるぶしにかけて皮膚にひきつりが残っているが、そう見苦しいものではないし、陽造も気にかけている様子はなかった。素足に下駄履きで、火傷の痕を平然と人目にさらしながら街を歩いていたのである。十五の歳に空襲で受けた傷だと人には話していた。
　陽造の真意をはかりかね、遺言通りにすべきか否か話し合いが持たれたが、実際的な人間の多い一族であったから、世間体を重んじ慣習どおり足袋・わらじを履かせて送り出すことに決まった。遺言を無視したからといって死者が化けて出るとは、よもや信じない人たちだったのである。
　一人、孫の雅直だけが書き加えられた遺言に思い当たることがあった。できれば祖父の願い通りに弔ってやりたがったが、大学を出たばかりの雅直に何ができただろう。葬儀の朝、家にやってきた葬儀社の人が、硬直した陽造の足に難儀しながら白足袋を履かせるのを黙って見守るしかなかったのだ。
　なんにせよ、陽造は約束通りに雅直の秘密を墓の中まで持っていってくれた。今度は雅直が陽造の秘密を墓の中まで持っていく番だった。

　小学六年生のときに雅直はスーパーで万引きをし店員に捕まった。ただちに自宅へ通報されたが、たまたま家にいたのは祖父の陽造だけだった。
　初めてだったし、盗んだのも一個百円の菓子だったので、学校には連絡されず、雅直はあっさり陽造に引き渡された。ほんの出来心だったのだ。どうして自分がほしくもない菓子を盗んだりしたのか、雅直自身にもわからなくなっていた。
　帰り道、代金を支払って買い取った菓子を陽造は「ほれ」と雅直に手渡したが、雅直は見るのも嫌になっていた。陽造にうながされて口にしたものの、口の中が乾いて味がわからなかった。舌がひりひりしただけだった。
「もういらないよ」
　雅直は残りを陽造に返そうとした。陽造は受け取らなかった。
　どんなに後悔しようが、やってしまった以上は後戻りできない。自分で始末をつけるしかないのだ。雅直は残りを無理やり口に押し込んだが、胃が痙攣を起こして道端に吐いてしまった。
「ねえ、お父さんとお母さんには内緒にしてほしいんだ」
　雅直は目に涙をにじませて懇願した。
「万引きなんてのは、たいした罪じゃない」陽造は遠い目をして言った。
「万引きも犯罪だよ」意外な言葉に雅直は目を丸くした。
「犯罪じゃないとは言ってない。たいした罪じゃないと言ったのだ。わしは、罪を犯したことのない人間は信用しないことにしている。そういう連中ほど陰でこそこそ人の悪口を言っては集団の力で人を傷つけるものよ。罪のないような顔をしてな。平板で取るに足らん連中だ。人間は、多少の罪を犯して疚しさを抱くほど深みが出るものだ。結局、自分の罪をどう自分で引き受けるかだ。人間の価値はそれで決まる」
「でも、犯罪は悪いことだよ。僕はもうしない。友だちはストレス解消だって言ってた。ゲームと同じだって。でも、やってみたら面白くなかった。たとえ見つからなかったとしても、後味の悪い気分にしかならなかったと思うんだ。それがわかったからもう二度としない。だからお父さんとお母さんには言わないでほしいんだ」
「なあ、人のすることでいちばん悪いことはなんだと思う？　わしはな、死体から衣服や金品を剥ぎ取ることじゃないかと思うんだ。実を言うとわしはそれをしたことがある。なあ、取り引きをせんか。これからわしはそのことを雅直に話そう。今まで誰にも話したことのない秘密だ。雅直は死ぬまで誰にも話さず秘密を墓の中まで持っていけるか。約束してくれるのなら、わしも今日のことを秘密にして墓の中まで持っていこう」
　雅直はうなずいた。陽造は公園に入ると芝生に座り、靴と靴下を脱いで、火傷の痕がある素足を見せた。
「死人の足から靴を盗んだのさ」と陽造は話し出した。「十五歳のときだ。太平洋戦争の最後の年。あのころは子どもも工場で働かされていた。わしは兵器工場で戦闘機の部品を作らされていたんだよ。空襲があった、あの日までな」

　トタン板を剥ぐと、鉄骨の下敷きになって仲間が死んでおった。
　腰から上はほとんど黒焦げでな、異様な臭いが鼻をついた。なのに、わしに向かって伸びている足はというと、二本ともきれいに残っていたのさ。靴もほとんど無傷でな。まるでわしに向かってお取り下さいと言わんばかりに。
　わしは迷った。死人から衣服や金品を盗むなど、盗っ人の中でも最低の部類さ。人として、それだけはやっちゃいかんと自分に言い聞かせたんだが。
　わしは、なるべく顔を見ないように顔をそむけながら、死体の足から靴を剥ぎ取ったのさ。生白い素足が剥き出しになった。あの足はいまだに忘れられん。ぷよぷよと柔らかくてな、あまり力仕事をしたことのない上品な足さ。
　靴を履いて立ち上がると、痛みのあまり気が遠くなった。それでも一歩一歩、焼けたトタン板を踏み、わしは懸命に川のほうへと歩いた。靴が歯を立てて火傷の傷に噛みついているのかと思ったよ。一生、取り返しのつかない罪を犯したと思った。なにしろわしは死人から靴を剥ぎ取ったのだ。生きながら地獄を歩いている気分だった。
　きっと、この傷は死ぬまで残る。傷を見るたび今日のことを思い出す。それでもわしは後悔しなかった。どんなに非道な行いをしようが、いったん生きるほうへと歩み出したからには、最後まで歩ききるしかないのだからな。

　焼却炉の扉が開き、金属の台がレールに乗って滑り出てくる。荼毘に伏された陽造は、台の上であっけらかんと骨になっていた。「おお」と感嘆の声が遺族の間から上がった。台の余熱が、取り囲む遺族の顔をかっと照らした。焼かれたばかりの骨はまだ熱かった。頭蓋骨、肩甲骨の一部、腰骨、大腿骨。火葬場の係官が上から順に骨の説明をしていった。太い骨は残っているものの、他はほとんど灰になっていた。
　まるで焼け野原だと、雅直は思った。焼け野原を上空から俯瞰しているみたいだ。祖父は、自分の記憶の火で、自分を焼いたのかもしれない。自分で自分を焼け野原にしたかったのだ。
　遺族が、手にした箸を伸ばし足のほうから骨を拾っていく。雅直もそれに従った。
　焼け野原。自分の死体の焼け野原を、足袋もわらじも捨て、裸足でとぼとぼと歩いていく祖父の姿が、雅直の脳裏に浮かんだ。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>よびみず</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001379" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2011://7.1379</id>
	<published>2011-10-30</published>
	<updated>2011-10-30T12:41:55Z</updated>
	<summary> よびみず【呼び水】ポンプから水が出ない時に、水を導くたまに上から別の水を入れること。また、その水。迎え水。〔何かを引き出すきっかけを作るものの意にも用いられる〕 　沖縄の三月は肌寒い。沖縄はまだ冬な...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="よ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>よびみず【呼び水】<br />ポンプから水が出ない時に、水を導くたまに上から別の水を入れること。また、その水。迎え水。〔何かを引き出すきっかけを作るものの意にも用いられる〕
</p></blockquote>

　沖縄の三月は肌寒い。沖縄はまだ冬なのだ。
　冬？　沖縄に冬があるなんて知らなかった。沖縄なら一年中泳げるものと信じていた僕が浅はかだった。
　おまけに連日の雨。雨が止んでも雨雲は切れず、沖縄に来てから三日間、まともに太陽の光を浴びてもいない。なあ、と僕は自分に問いかけた。こんな寒々しい沖縄で、誰が好きこのんで泳ごうというんだ？
　僕が予約したホテルは海のすぐそばに建っていた。食堂の大きな窓から望む水平線はいつも雨に霞んでいた。海岸とホテルの間には雨にしっとり濡れた芝生があり、そら豆の形をした子供用の小さなプールがある。プールの水が雨を受けて無数の波紋を立てている。すぐ近くに海があるのにどうしてプールなんか作ったのか、理由がわからない。海から切り離された水はひどく孤独そうに見えた。
　僕は毎朝、朝食をとりに食堂に下り、もそもそとサンドイッチを食べながら、こうした景色を眺めた。ホテルは閑散としている。従業員の手間をはぶくためか、客室番号を書いたプレートはすべて窓際のテーブルに集められ、相席を求められた。おかげで食堂の残り半分はがらんとしていた。ＢＧＭで流れる三線の調べさえ、沈鬱に聞こえた。
　シーズン・オフとはいえ春休みなのだから、もっと客はいていいはずだ。実際、僕が予約を申し込んだ半月前は満室に近い状態だったのだ。やっぱりキャンセルが相次いだのだろう。そういう僕だって、本当は恋人と来るはずだった。最初からひとり旅のつもりだったら、こんな中の上クラスの観光ホテルなんか選ばない。
「あなたはこんなときによく平気で遊んでいられるわね」と恋人は言った。「自粛すべきよ」
「まるで平気ってわけじゃない」と僕は言った。「でも、僕らが自粛したからって何がどう変わるっていうんだ」
　見ず知らずの人のために泣けないからといって、冷血漢呼ばわりされるいわれはないのだ。

　その日の朝、少し遅れて食堂に入ると、僕の真向かいの席には五、六歳くらいの女の子と、三十歳前後の母親らしい女性がいた。ふたりとも食事はあらかた終えて、女の子の前にはデザートのプリンが、母親の前にはコーヒーが残っているだけだった。
　あまり幸福そうな親子には見えなかった。女の子は眉間に皺を寄せてむっつりとプリンを見つめ、母親は気だるそうな顔を窓の外に向けていた。
　昨日までは海兵隊の家族らしい白人の老夫婦が座っていた。息子に招待されて観光に来たが、日本が大変なことになってお気の毒だと、簡単な英語で僕に語っていた。ふたりの人なつっこい態度が記憶に残っていたから、この寡黙そうな親子に、なおさら近寄りがたい空気を感じた。
　母親がちらりと僕を見た。どうしてここにいるのよ、と言いたげな目で。そういう視線に僕は慣れっこだ。どこの世界でも大学生というものは余計者なのだ。
「おはようございます」と、いちおうの挨拶をした。
「あ、おはようございます」と、母親は挨拶されたことに驚いたような顔をした。「○○ちゃんもご挨拶なさい」と娘をうながしたが、女の子はむっつりしたままプリンを見つめていた。プラスチックの容器に入った、市販されているプリンだ。
　どうしてプリンに手をつけないのか、プリンが女の子を拒んでいるのか、女の子がプリンを拒んでいるのかわからない。とにかく女の子はプリンを前に緊張していた。どう見てもそれは、何の変哲もないただのプリンなのだ。
　母親は不思議そうに娘とプリンを交互に見ていたが、やがて疲れた顔になり、窓の外に視線を戻した。
　海には相変わらず雨が降りそそいでいた。沖合いには一塊の岩礁が、化石化した古い神さまのようにぽっこり顔を突き出している。茫漠とした海に、その黒い一点はあるべくしてそこにあるようで、岩を見つめていると逆に、岩に見つめ返されている気分になる。
　なぜ、あの岩はあそこにあるのだろう。漠然とした疑問は自分にはね返り、なぜお前はここにいるのだと岩から問い返されているような気がした。
　なぜ、僕は、ここにいる？
　理由なんてない。成り行きでここにいるだけだ。

　ふと、テーブルに視線を戻すと、女の子の右手が動いていた。
　ようやくプリンに手を伸ばすのかと見ていたが、女の子の手は彼女とプリンの中間あたりで止まり、人差し指がテーブルの上に押し当てられた。そのまま、じっと動かない。
　何をしているのだろう。海を眺めている母親は娘の動作に気づかない。
　女の子の眉間の皺が険しくなった。不自然な力が指先に込められている。
　僕は目を疑った。人差し指の下から、じわり、水が染み出てきたのだ。テーブルは乾いていた。水が染み出すようなものは何も置かれてなかった。女の子の指先も裸だったのだ。どう見ても水は、女の子の指から染み出しているようにしか見えない。
　でも、こんなことってあるのだろうか。手品でなければ、これはいったい何だというのか。女の子は無心に自分の指先を凝視している。見ているうちにも水は広がり、プリンの底を濡らして僕のほうにも押し寄せてくる。水の表面が微妙に波打っているのがわかる。まるで、水が意思を持った生き物であるかのように。母親はまだ気づかない。水はついに、テーブルの端からこぼれて彼女の膝を濡らしていった。
　水音に母親は振り向いた。慌てて女の子の手首をつかみ人差し指をテーブルから引き離した。
「また？」母親は言った。その顔が険しく歪んだ。「ダメって言ったでしょ。どうしたっていうのよいったい？」
　女の子は抵抗し、母親の手を振りほどこうとした勢いで、雫が僕の頬にかかった。女の子の指先にはやはり何もなかった。ただ、強く押し当てていたために指の腹が赤くなっていただけだ。
　母親は女の子の手首をつかみながら片方の手でハンカチを取り出しテーブルの水を拭いた。それでも足りないとナプキン立てのナプキンをいっぺんに抜いて水の上に散らした。
　僕は自分のハンカチを取り出し、水を拭くのを手伝った。そうすることで、この異様な出来事の意味がわかるかもしれないと思ったからだ。しかし無理かもしれない。母親だって混乱しているのだ。
「あ、ごめんなさい」と母親は言った。「後で洗濯しますから」
「いいんです、これくらい」と僕は言った。
　母親は娘を椅子から引きずり下ろし、食堂から出て行った。プリンはテーブルに残された。その後からウエイトレスがやってきて、システマチックな身のこなしで食器を片づけ、手にした布巾でテーブルを拭いた。うるさい客で嫌んなっちゃう、というふうに。いたずらでコップの水をこぼした娘と、口うるさい母親くらいに思っているのだろうか。しかしテーブルにはそのコップがない。水はこぼしようがないのだ。
「いまのお客さんは？」僕はウエイトレスに尋ねた。
「昨日の夜遅く着いたお客さんです」ウエイトレスは素っ気なく答えた。
　それ以上のことは知らない様子だった。

　ホテルの裏玄関から外に出て、芝生の庭を横切る。アダンやシュロの茂みを抜けて石段を下りれば目の前が海岸だ。
　相変わらず雨は冷たい。海の上を覆う雨雲は濃淡をくっきりとさせて妙に明るい。南国の雨雲なのだ。降りそそぐ雨にも光はある。海もまた、雨雲を映しながら暗さに沈まず、活き活きと波打っている。爽快とは言い難いが、不思議と人を魅了する景色ではあった。
　僕は白砂にしゃがんで足ヒレをはき、シュノーケルをくわえ水中マスクをつけた。僕以外にこんな雨の中を泳ごうという物好きはいない。
　ウエットスーツの用意はなかったのでＴシャツを着て海に入った。海に潜りさえすれば雨のことは忘れられる。魚たちも気にしている様子はない。しかし、空に太陽がなければ水の色も暗い。魚たちの色もくすんでいる。それでも豊かな世界は満喫できる。海面一枚へだてて、表と裏とではまるで世界が違うのだ。
　冷たい海は容赦なく体温を奪った。小一時間も泳げば体が芯から冷えきり筋肉が強張ってくる。ひとたび海面に顔を出せば、降りそそぐ雨の中に自分だけがいる。沖合いの岩礁は押し黙っている。海面を静かに叩く雨音ばかり四方に広がり、世界に見捨てられたようで心細くなる。
　砂浜に上がり、あずま屋で休憩する。頭からタオルをかぶり、ベンチに両足を載せて膝を抱き、がくがく顎を震わせる。寒さで体中の骨が軋むくらいだ。まったく馬鹿みたいだが、しばらくすれば体温は戻り、肌に赤みが戻ってくる。それでまた海に戻る。その繰り返しだ。
　なぜ、こんな思いをしてまで泳ぐ必要がある？　無理に楽しもうとして、どうして自虐的になっているのだ。
　何もかも、あのいまわしい地震のせいだ。本当は同じ大学の恋人とふたりで旅行するはずだった。大学生活最後の思い出を刻むべき卒業旅行だ。なのに、三月十一日の大震災が計画を台無しにした。ホテルの予約も飛行機の予約も済ませたのに、彼女は大学内で結成されたボランティア団体に加入した。すぐにも被災地に飛ぶという。もちろん僕は彼女に抗議した。彼女は僕を「狭量で自分勝手で薄情」だと軽蔑した。口の達者な彼女は、論理的に僕をコーナーに追い詰め思想的に叩きのめしたのだ。
　僕だって震災の被害には心を痛めた。被災者には深く同情もする。でも、それはそれ、これはこれだ。だって、僕が震災を引き起こしたわけではないのだ。責任はないのに、どうして義務を負わなくちゃならないのだ。個人的な楽しみを楽しんではいけないのだ。もっとも彼女に言わせれば、こんな僕の考えは「子どもの言いぶん」に過ぎないのだけれど。
　そうして僕は彼女と別れ、沖縄に飛んだ。つまり意地を張っていた。沖縄に来れば来たで、天罰を下すような連日の雨。まったく、僕がどんな罪を犯したというのだ。
　雨脚が強くなってきた。風も出て海が荒れてくる。限界を感じて僕は海から上がり、足ヒレを脱いであずま屋に戻った。
　あずま屋には食堂で会った例の親子がいた。大きなバスタオルをふたりして肩にかけ、よく似た顔を並べて、不思議なものを見るように僕を見ている。なんだか、ずっと僕を見張っていたふうでもある。いや、まさかな。なんだって彼女らに見張られなくちゃならないのだ。
　母親は意味ありげに女の子を見た。女の子は口が半開きだった。僕から目を離さず、何か言いたそうにしていた。何か言おうとしても言葉はすべて口から逃げていったかのようだった。
　僕は少し離れてベンチに座り、タオルを頭からかぶってがたがた震えた。本当は震えたくなんてなかったが、納まらないのだから仕方がない。
「大丈夫ですか？」母親が尋ねた。
「焚き火がほしいくらいですね」僕はそう言ったつもりだが、顎がふるえてうまく言葉にならなかった。
「あの、よかったらこれ使って下さい」
　母親はハンドバッグから携帯用のカイロを取り出し僕に差し出した。カイロはピンク色の毛糸のカバーに包まれていた。
「ありがとうございます」僕は手のひらを温めてから、カイロを脇の下にはさんだ。「沖縄でカイロを使うなんて思わなかったな」
「娘のなんです。娘が冷え性だから」
　冷え性と、指先から水が染み出す現象とは関係があるのだろうか。
「あなたが溺れているとこの子が思い込んだんです」母親は娘の頭に手をのせた。「泳いでいるだけだと言ってもきかないものだから、様子を見に来たんです」
「こんな冷たい海で、ふつうは泳ぎませんしね」
「沖縄がこんな寒いとは思わなかった」
「今年は特に冬が長いんだそうです」
「冬？　沖縄に冬があるんですか？」
「ね？　誰だって驚きますよ」
「海が好きなんですね、唇をまっ青にしながら泳いで」
「ほんと、馬鹿みたいです」
　ふたりは何をしに沖縄に来たのだろうか？　ただの観光客にも見えない。
「さびしいところね、ここは」母親は煙草を取り出し火を点けた。煙を吐き出すと視線が遠くなった。吸いますか、と煙草を差し出され、僕は一本もらった。
「海に潜ればにぎやかですよ。こうして見ている海って表面だけでしょ」
「ああ、そうか。表面だけなんだ」母親はくすくす笑った。「表面だけじゃ、見たことにはならないのかもね」
　女の子は心持ち顎を上向け、屋根からしたたり落ちる雨水を見ていた。白目の部分が、ほのかに青みがかっている。
　沖合いに突き出た岩礁が雨に霞んでいた。やっぱり僕は、あの岩礁に自分が見られている気がした。

　その夜遅く、不意に目覚めた。時計を見ると午前零時を回っていた。
　眠り直そうとしても、意識が隅々までぴんと張りつめ、眠れそうにない。ビールでも飲むしかないなと、部屋を出てエレベーターに乗り、自販機コーナーのあるフロアへ下りていった。長く伸びた廊下の一角に、自販機コーナーの青白い光が漏れていた。
　ガラスの扉を開けて中に入ると、思いがけず例の女の子に出会った。女の子はひとりだった。パジャマ姿で、子供用の小さなスリッパをはいている。背中を丸めてしゃがみ、床に人差し指を当てている。その指を中心にして水たまりができていた。
　僕に気がつくと彼女は慌てたように立ち上がった。濡れた人差し指から滴る雫が、水たまりに波紋を作っていた。
「どうしたの？」僕は尋ねたが、女の子は押し黙っている。
　しかし、僕を怖れたり拒んだりしているような、拒絶の沈黙ではなかった。その目は僕に何かを訴えていた。
「お母さんは？」と尋ねると首を横に振る。「部屋にいない？」と尋ねると縦に振った。
　目覚めてみると部屋に母親がいないので、自販機コーナーかなと見当をつけて来てみたらやっぱりいないので途方に暮れていた、ということだろう。
「ロビーの喫煙コーナーにいるかもしれないな」
　ひとり言のように言って缶ビールを買った。ごろん、と出てきた缶ビールは深夜のホテルに大きな音を立てた。
「お母さんを捜しに行こうか」と僕は言った。女の子はうなずいた。
　廊下に出ると、女の子は自分から手をつないできた。彼女の指は冷たく濡れていた。本当に、彼女の指から水は染み出ていたのだ。しかし、それを不思議に思う気持ちは消えていた。不思議に思えば、それだけ彼女を孤独に追いやるような気がしたのだ。

　案の定、母親はロビーの喫煙コーナーにいた。青いＴシャツに短パン姿で、ソファに腰かけて脚を組み、缶ビールを飲みながら煙草を吸っていた。
　彼女の他に人影はない。フロントすらもぬけの殻だ。テーブルに置いた携帯電話が虫の羽音のような声を立てていた。機械的にニュースを読み上げる声。モバイルでＴＶを見ているらしい。
　女の子は僕の手をほどいて母親のもとに駆け寄った。目をぱちくりさせている母親に、僕は事の次第を説明した。
「すいません。母親失格ね、私」ふっとため息をつく。
　女の子は母親にぴったり寄り添うと足をぶらぶらさせ、安心したような顔になった。
「僕にも覚えがありますよ。ホテルで目が覚めたら、両親が深夜デートに出かけていてベッドが空っぽだったんです。捨てられたと思い込んで、わんわん泣いた」
　僕は缶ビールの口金を開けた。
「泣けないの、この子は」母親は娘の肩に手を回して引き寄せた。「泣かないんじゃなくて泣けない。泣くだけじゃなくて、笑うことも怒ることもできない。喜怒哀楽が消えちゃったのよ。精神的なショックで、口もきけなくなって」
　母親は、携帯電話をくるりと回して僕に向けた。
　携帯電話の小さなディスプレイに、青い海と四角な建物が映っていた。「爆発事故が起きた福島第一原子力発電所周辺では」と、アナウンサーの淡々とした声が聞こえる。見ていると、建物は白煙を上げて爆発した。水素爆発。ＴＶで繰り返し見た映像だ。
「ここから逃げてきたの、私たち」母親はさりげなく言った。「地震と津波、その翌日には原発事故。沖縄に逃げろって夫に言われてね。沖縄くらい遠く離れないと安心できないって。このホテルには夫の友人が働いているんです。その人の口利きで、ただで泊まらせてもらって。シーズン・オフで空き部屋はいくらでもあるからって。運がいいのか悪いのか。ホテルって寂しいところね。なんだか地の果てって感じ。私だってね、夜中に目覚めると泣きたくなるわよ。泣きたくないからこうしてビールを飲むのよ」
「旦那さんはどうしてるんですか？」
「夫は地方公務員。危険だからって、簡単に逃げるわけにはいかないでしょ」
　彼女は携帯電話を手の中でぱたりと閉じた。閉じてしまうと、原発事故そのものが魔法のように彼女の手の中に封じ込められた気がした。
「私の家も津波に流されて。この子はたまたま家にいてね、警報を聞いて裏山に上ったんだけど、ペットは置き去りにしちゃった。ポメラニアン。このくらいのちっちゃな犬。臆病な子でさ、地震に驚いて隅っこに隠れちゃって、いくら呼んでも出てこないじゃない。仕方なかったのよ。この子を守るのに頭が一杯だったし。ねえ、誰だってそうするでしょう。子どもを守るためにペットを見殺しにしたからって、誰にも責めらないわよねえ」
「神さまだって責めませんよ」
「神さまには何も言えない。ねえ、理由もなしに人を酷い目に遭わせておいて何が言えるっていうの。私だって、たいした人生じゃないけど、これでも頑張ってきたのよ。中古の家を買うのだって苦労したんだから。その家がさ、ひっくり返って船みたいに流れていったのよ。何かの冗談みたいに。いろんなものが流れていったわ。車の中から助けを呼んでる人もいた。タンスにしがみついてた人もいた。何もかも見たのよ、この目で。あ、ごめんね、夜中につまんない話をして。迷惑じゃない」
「まさか、つまんないだなんて」
「私、あまりのことに茫然としちゃって、この子の目をふさぐのをすっかり忘れてた。気づいたときにはもう遅かった。信じられないかもしれないけど、この子も元はおしゃべりだったのよ。あれ以来ひと言だって口を聞いてくれない。でも心は死んじゃいないのよ。夜中に心細くなれば、こうして私を捜し回るんだし」
「僕が溺れてるんじゃないかと心配してもくれた」
「私はこう思うの。胸の奥にぎゅっと押し込められた感情は、別の形を取るんじゃないかって」
「水が、そうなんですか？」
「気持ちが高ぶると指先から水が出る。あの日からそう。どこの水かわからないけど、水を呼ぶの。今朝、見たでしょう。あのときは私も取り乱しちゃったけど。ああして死にそうな心を生き返らせているのかもね。この子はこの子で必死なのよ。だって、心を殺しちゃったら生きている意味がなくなるから」
「海を怖がったりはしないんですね」
「ああいうことはあっても海は好きみたい。それが救いといえば救いかな」
　気がつくと、女の子は母親にもたれて寝息を立てていた。ロビーの隅に貸し出し用のベビーカーがある。母親はそれを借り、女の子を抱き上げてベビーカーに移すと、「ではまた」と、軽く頭を下げてロビーを出て行った。緊張の解けた女の子の寝顔は、嘘のように安らかだった。

　翌日は雨が上がっていた。しかし寒いことに変わりはなく、海は荒れ、雨雲は波立つように大きくうねりながら空を流れていった。
「もうすぐ夏さあ」と現地の人が空を見ながら話していた。沖縄では、冬の次は一足飛びに夏なのだ。
　しかし、夏がすぐそばまで来ていようと僕には関係ない。僕の卒業旅行は今日の午後をもって終了するのだ。相変わらず凍えながら、最後の海を僕は泳いだ。
　泳ぎながら僕は別れた恋人のことを考え、あの親子のために僕がしてやれることを考えた。けれど、何も思いつかなかった。僕に残された時間はあまりに短く、親子が抱えた問題はあまりに大きいのだ。
　途中から雨が降り出し、海水は濁った。海の底は暗く淀み、奥深くで息をひそめている何かの気配をうかがわせた。それは僕を誘惑した。何かが僕を誘惑し、とらえ、日光の届かない海底深くまで引きずり込もうと身構えている気がした。
　凍えながら海から上がると、砂浜にホテル名が入った大きなパラソルが開いており、その下で例の親子がささやかな焚き火をしていた。雨の中で焚き火？　ああ、そうか。昨日、僕が「焚き火がほしい」と言ったからか。
　母親が缶ビールを持った手を上げた。女の子は僕に背を向け、木の棒で焚き火をつついている。
　僕は照れくさく、おかしくもあり、なんだか泣きたいような気分になったが、寒さで硬直した頬を平手で叩き、無理に笑顔を作って、海辺の花のようなパラソルへと歩いていった。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>ゆめちがえ</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001377" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2011://7.1377</id>
	<published>2011-09-14</published>
	<updated>2011-09-14T12:22:50Z</updated>
	<summary> ゆめちがえ【夢違え】悪い夢を見た時、まじないをして災難をのがれること。夢違い。 「やんなっちゃうなあ」 　昨夜の夢を思い返し、初男君はつぶやいた。 　地下鉄有楽町線新木場行き、始発電車、最後尾の車両...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="ゆ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>ゆめちがえ【夢違え】<br />悪い夢を見た時、まじないをして災難をのがれること。夢違い。
</p></blockquote>

「やんなっちゃうなあ」
　昨夜の夢を思い返し、初男君はつぶやいた。
　地下鉄有楽町線新木場行き、始発電車、最後尾の車両。がらんとした車内に、吊り輪が揺れている。同じ方向に同じ角度で。何かの意思が、そこには働いているように思える。物事を一定の方向に動かそうとする、何者かの意思が。
　初男君は女性誌の吊り広告を見上げた。ピンクのブラウスを着た女の子が開けっ広げな笑顔で立っている。「恋活を応援する春服」とか「春服を着こなすダイエット」とか、目の前には明るい未来しかないような見出し。初男君はうつむき、カツカツと床を踏み鳴らした。心が重くふさいだときの、いつもの癖だ。それから首を上げ、車窓に映る自分の顔に目をやった。
「老けたなあ」と思う。めっきり老けた。初男君はもうすぐ四十歳になる。四十歳で老衰なんて早過ぎると人は言うけれど、最近は夢を見るたびに消耗する。失うばかりで、得るものは何もない。おまけに昨夜の夢。
　件(くだん)として年老いるとはどういうことなのだろう。僕はあと何年生きられるのだろう。
　一般には、件(くだん)になった者は半年くらいで死ぬ。一年も生きれば長寿の部類で、初男君のように件(くだん)になってから二十年も生き長らえるのは例外中の例外なのだ。
　件(くだん)。人偏に牛と書いて件(くだん)。件(くだん)には予知夢を見る能力がある。なければ、ただの人牛だ。
　初男君が件(くだん)になったのは十七歳の秋。それまでは何の取り柄もない、ごくふつうの高校生だった。
　カフカの『変身』のように、ある朝「気がかりな夢から目をさますと」、自分が寝床の中で一頭の牛に変わっているのを発見した。顔だけが人間のまま、首から下は立派な黒毛和牛。なぜ？　わからない。平凡な高校生の僕が、どうして件(くだん)になってしまったのか。もちろん理由なんてないのだ。
　父はふさぎこみ、母と妹は泣いた。しかしカフカの『変身』と異なるところは、毒虫になった『変身』の主人公は家族に疎まれ父の手で殺されるが、初男君の変身はその日のうちに防衛省に通報されたことだ。件(くだん)の出現を発見した者はただちに防衛省に報告する。それが国民の義務だった。
　初男君は防衛省の地下にある研究施設に連れて行かれた。扱いは丁重だった。なにしろ初男君は五年ぶりで日本に出現した件(くだん)だった。初男君は昨夜の夢を語り、四日後にアメリカで同時多発テロが起きた。国際貿易センタービルが崩壊した、あの事件だ。夢の内容が現実と一致したため初男君は正式に件(くだん)と認定された。予知夢が外れたら、人牛として処分されるところだった。
　夢で見た惨劇が現実となったことで、初男君はほっとした。これで葬られずにすんだのだ。テロの犠牲者に対しては胸が痛んだが、正直、予知の的中を喜んでもいた。しかし、喜んでいる自分を責める心もまたあった。
「だって仕方ないじゃないか」初男君は自分に言い訳した。「僕だって好きこのんで件(くだん)になったわけじゃないんだ」
　以来、凶事の夢を見るたび、初男君は小竹向井原駅から地下鉄有楽町線に乗り、市ヶ谷駅で下りて防衛省に向かう。福知山線の脱線事故も、中越地震も、秋葉原の通り魔殺人事件も、初男君は予知した。どの夢にもむごたらしい死体が現れ、人々の悲鳴やうめき声が聞こえた。現場にいるかのようにリアルな夢。臭いや感触まで。件(くだん)が一般に短命なのは、夢の衝撃に心が堪えられなくなるという説が有力だが、初男君は繰り返し惨劇を夢に見ながら死なずにいる。
「ひょっとして僕は冷たい人間なのだろうか」初男君は思い悩んだ。
　他人の不幸に平気でいられるから（本当は平気でもないのだが）生きているのかもしれない。そう考えると、自分が生きていることがなんだか申しわけなくなる。自分が不幸の根源であるかのような。自分が夢に見るから惨劇が起こるかのような。
　しかし、自分がどう思おうと夢は向こう側から勝手にやってくるのだ。それに、自分の寿命は自分ではどうしようもない。
　体は牛でも意識は人間だから、初男君の人権は保障されている。保険証も持っているし厚生年金にも加入している。公務員として給料をもらい、きちんと税金を払う。マルイのカードだって持ってるし、図書館で本も借りられる。
　地下鉄に乗るには定期券を使う。初男君が乗ると、乗客は初男君を避けて別の車両に移動する。差別しているのではない。ただ、初男君が地下鉄に乗ること自体が凶事の予兆だから、怖いのだ。まるで初男君が不幸の母体であるかのように。そばに寄れば惨劇に巻き込まれでもするかのように。
　だから、地下鉄に乗って防衛省に向かうたび「やんなっちゃうなあ」とぼやきが出る。初男君はひとりぼっちだ。車両が連結するドアの窓から隣の車両の混み具合が見える。怖いもの見たさで、ちらちらこちらをうかがう小心そうな顔も見える。吊革は慣性の法則に従い、同じ方向へ同じ角度で揺れる。まるで同じ背格好の透明人間が掴まっているかのように。永遠に手の届かなくなった吊革を見上げながら、「つらいよなあ」と初男君はつぶやく。

「川が流れています。大きな川ではありません。幅が十メートルくらいの。水質ですか、ええ、きれいだと思います。自然に近い川のようです。土手には青々と草が生えていて。でも川原にはゴミが散乱しています。木材の破片がほとんどですがプラスチックのゴミもあります。全体的に荒れた感じです。牛がいます。五、六頭かな。もっとかもしれない。放牧？　いえ、たぶん違います。なんだか落ち着かない様子でうろうろしてます。怯えているのかもしれません。山里ではありません。住宅街の近くです。いえ、人の姿はありません。住所を特定できるものもありません。遠くに鉄塔が見えますが、それだけです」
　防衛省の地下にある特別室は、雑念が入らないよう壁も天井もまっ白で、初男君は純白のマットに寝そべり（雲の上で寝るように心地いい）純白の枕に頭をのせ、昨夜見た予知夢を語る。
　聞き手は精神科医ひとり。白髪が美しい、上品に老けた女性だ。でも壁の向こうには防衛省情報本部の自衛官、国家公安委員会や国土交通省の役員、気象予報士、地球物理学者、犯罪心理学者、脳生理学者で構成されたチームが詰めている。チームの目的は予知夢の内容から時間や場所を割り出し災害対策や事件の阻止に活用することだが、残念ながら今までのところ目立った成果は上げていない。
「事件や事故とは考えにくい。災害ですな」国家公安員会の役員が言った。
「河川の氾濫かもしれません」国土交通省の役員が言った。「今後十日以内に集中豪雨の可能性のある地域はありますか」
「ありません」気象予報士は即答した。「全国的にほぼ安定した天候が続きます」
「木材の破片というのは全壊した民家でしょうか。地滑りでも起きたのか。牛小屋から逃げ出した牛の夢ですか」と、地球物理学者。
「地滑りというのは地震ですか」と、国家公安委員会。
「そうとは限りませんが」
　いずれにせよ、今回の予知夢に彼らはさほど関心を示さなかった。
「情報が少なすぎる。しょせんは怪物が見た夢だ」
「今回もお手上げですか」
「どうやら来年度の予算削減は避けられそうにありませんな」
「いずれにせよ件(くだん)の寿命が尽きれば我々は解散です」
「待って下さい。そもそもこの夢は天災なのでしょうか」犯罪心理学者が口を挟んだ。
「と言うと？」
「川原の状態と牛の存在を関連づけて考えがちですが、それは思い込みかもしれないということです。分けて考えてみたらいかがでしょう」
「なるほど、盲点でした」
「たとえばこういうことです。牛を輸送中のトラックが横転し、逃げた牛が川原にたむろしている。川原は元から荒れていた」
「産業廃棄物の不法投棄かもしれませんな」
「しかし、そんな些細な事故を件(くだん)が夢に見ますか」
「牛がポイントでしょう。彼の意識の牛の部分が、仲間に引き寄せられたのです」
「件(くだん)を長くやっていると、徐々に牛化していくのかもしれませんな」
　審議はなおも続けられたが、結局は「今後を見守る」という結論で終了した。天災にせよ人災にせよ、被害は小さいと判断したのだ。脳生理学者だけが、初男君の脳波の乱れや血圧の上昇、異常な発汗に注目したが、結論は変わらなかった。

「悪い予感がするんだ」チームが引き上げてから、初男君は胸のうちを打ち明けた。「目覚めの気分が最悪だった。漬け物石でも呑み込んだように腹の底が重苦しくて、心臓がぎゅっと締めつけられて。こんな気分は初めてだよ。福知山線の脱線事故の時も辛かったけど、今回はそれ以上だ」
「夢に死体は出てこなかったのでしょう。話を聞いてると、のどかな感じがするけど」
　枕返しの巫女は、膝の上に初男君の首をのせながら、大きな耳を撫でた。耳はひくひくと震え、彼女の指をはじいた。
「表向きはね。情景はどうということはない。なのに空気がまがまがしいんだ。とてつもない暴力の臭いがする。悪魔が行進していった跡みたいな」
「そのことはチームに話した？」
「いいや。夢を話す時は感情を消す。それがルール。感情は情報を歪めるんだって」
「感情も情報のうちじゃないかしら」枕返しの巫女は首をかしげた。
　彼女の任務は枕返しの儀式を行い、夢を浄化することにある。呪法によって悪夢を逆夢に変え、災厄を阻止するのだが、実際は気休めにすぎない。予知夢で見たことは覆らない。ある意味でそれは、既に起きてしまったことなのだ。ただ、件(くだん)の心の慰安のために必要とされているようなものだ。
　枕返しの呪法は一子相伝だ。彼女の家は代々天皇家に仕え、天皇の見る夢を浄化する役をになってきた（平安朝からという説もあれば、江戸時代の中期からという説もある）。明治の世になり儀式は途絶えたが、関東大震災の直後から件(くだん)の予知能力に国家が注目しだすと呪法も復活した。件(くだん)の予知夢を浄化させる効果を期待されたのだった。
　巫女は件の頭を膝にのせ、呪文を唱えながら枕をくるくる回し、背後へぽんと放り投げる。悪い想念を枕に移し追い払う象徴的行為だが、傍目には情婦の戯れにしか見えない。儀式の起源は案外そんなものかもしれない。
　彼女も、初男君を膝枕にしながら呪文を唱え「えいやあ」と枕を背後に放った。枕は軽い音を立てて部屋の隅に転がった。
　儀式が終わり、初男君は「アケミさん」と彼女の名を呼んだ。アケミというのが彼女の名前だ。初男君が肌を接する唯一の女性。初男君が件(くだん)となり初めてアケミに出会った時、彼女は十四歳の少女だった。彼女の母親が急逝したため、若くして跡を継いだのだ。以来二十年も、アケミは初男君の夢を浄化してきた。ほとんど、そのためだけに生きてきたようなものだ。
「アケミさん。いつまでこんなことが続くんだろうな」
「さあ。人類が滅ぶまでじゃない」
「人類は滅ばないよ。もちろん、永遠ってわけにはいかないけど」
「見えるの？」
「いや、一般論を言ったまでさ」
　アケミは初男君の首筋を撫でた。ビロードのように滑らかな肌触りに、生き物の温みがある。アケミは初男君の体を撫でるのが好きだ。撫でているとやさしい気持ちになれる。アケミの愛撫に感じて、初男君の尻尾が左右に振れるのを見るのも好きだ。
「アケミさん」初男君はまた名を呼んだ。
「ん？」
「アケミさんは結婚しないの」
「さあ。しないかもしれない」
「アケミさんはきれいだし、やさしいし、いい奥さんになれると思うのにな」
「男と付き合ったことはある。これ、何度も話したよね。でも結婚まではいかなかった。こういう仕事をしてるとやっぱり、特別な目で見られるから。件(くだん)に添い寝する女って、私そう噂されてるのよ」
「すまないと思うよ」
「ごめん、気を悪くした？　私はそんな噂、平気なんだけどね」
「巫女の家に生まれなければって、思ったことない？　ふつうの家に生まれていれば、ふつうに恋愛してふつうに結婚して、いいお母さんになれたかもしれないのに」
「それで幸せになれるとは限らないから。私はこうしているのが、けっこう幸せだったりするし」
「僕、老けたと思わない？　件(くだん)はやっぱり老けるのが早いのかな」
「そんなことないわよ。誰だって歳をとれば頬がたるんだり皺が増えたりする。初男君はふつうよ」
「アケミさんはいつまでも若いね」
「ありがとう。でも私だって年相応よ」
「アケミさん」初男はまた名を呼んだ。アケミのてのひらの心地良さに、つい甘えてしまうのだ。「僕がいつまでも生きているから、アケミさんに迷惑をかける」
「またその話？　私は別に、迷惑だなんて思ってないから」
「自分の人生なのに、どうして自分で選べないんだろう」
「誰だって同じよ、私たちだけじゃないわ」
「件(くだん)になって、夢を見て、でもそれだけだ。僕の予言は何の役にも立たない。誰も救えないんだ。じゃあ、僕が件(くだん)になった意味がどこにある？　こんなみっともない体になってまでも夢を見続ける理由がわからない」
「私は初男君の体、けっこう好きよ。たくましくて、美しくて、それでいてやさしくて」
「もう終わりにしたいんだ」
　毛皮の下で筋肉が脈打つのを、アケミはてのひらに感じた。初男君の両目から涙がぼろぼろとこぼれ落ち、アケミの膝を濡らした。
「ひどいことが起きるよ」初男は言った。「とてつもなくひどいことが起きる」
「牛が逃げ出すくらいひどいこと？」
「それはほんの一部分だ。夢の裏側にとんでもない災厄が隠れている。わかるんだ」
「でも人類は滅びないんでしょう。だったら私は平気よ」
「僕をあの牛たちのところへ連れて行ってもらえるかな」
「あの牛たちってどこの牛たちだろう」
「今にわかるよ、嫌でもわかる」
「牛にまじって生きていけるかしら」
「簡単さ。牛になればいい」
「でも初男君は牛ではない。人間でもない」
「死ぬ時が来ればいさぎよく死ぬ。それで夢が終わる」
「手助けが必要よ。私も付き合おうかな」
「いや。アケミさんに迷惑はかけられないから」
「ひどいこと言わないで。初男君がいなくなったら私はひとりよ。ひとりぼっちになる」
　アケミは初男君の首を抱きしめた。首筋を走る太い血管の、どくどくいう脈動を腕の中に感じ、アケミは初男君の生命そのものを抱いているような気がした。
　何が起こるのかわからない。地震だろうか、火山の噴火だろうか、突発的な戦争だろうか。しかし、ひとりぼっちで生きるよりも悪いことが世の中にそうそうあるとは、アケミには思えなかった。
]]>
	</content>
</entry>

<entry>
	<title>ゆうこく</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/shiga/#001376" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2011://7.1376</id>
	<published>2011-09-14</published>
	<updated>2011-09-14T12:20:03Z</updated>
	<summary> ゆうこく【憂国】現在の国情についてこのままではいけないと心配し、国家百年の大計について人に先立って考え（行動す）ること。 　暴走族の八代目総長に就任した。 　暴走族、とはいっても百台くらいが連なって...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="ゆ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
		<category term="志賀泉の「新明解国語辞典小説」" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>ゆうこく【憂国】<br />現在の国情についてこのままではいけないと心配し、国家百年の大計について人に先立って考え（行動す）ること。</p></blockquote>

　暴走族の八代目総長に就任した。
　暴走族、とはいっても百台くらいが連なって街路を混乱に陥れ、よそのチームと乱闘したり追走するパトカーを振り切ったり地下道の壁に「夜露死苦」と落書きしたりと極悪非道を尽くしていたのは過去の話で、いまでは暴走族の「暴」の字が取れて走族、せいぜいが騒走族と成り果て、二十台くらいで川沿いのあまり信号機のない直線道路をブンブン走るていどだが、それでもリーダーは「総長」と呼ばれ、代々受け継がれてきた総長服というものもあるにはあったが、おれが実際に自分の目で総長服を見たのは、七代目総長にファミレスに呼び出され八代目にならんかと内々に要請された時が初めてで、もちろんおれは二つ返事で承諾したが、総長服なんてものがあるとは、それまで聞いたことがなかったのだ。
「なんで着なかったのよ」と問えば、「目立ちすぎんだよ。こんなん着て走ってみろよ、他のチームに目ぇつけられちまう」と七代目は相変わらずの腰抜けぶり。
「目立つのが怖くて暴走族やってられっかよ」
「だってこれだぜ」と、七代目が西武デパートの買い物袋から取り出して広げた総長服に思わず「おお」と唸ってしまったのは、白い特攻服の右側に上り竜左側に下り竜はいいとして、背中に刺繍された「憂国」の二文字の堂々とした迫力に圧倒されたからで、「なんか字のバランス悪すぎねえ」と七代目が言うとおりだが、バランスというよりも字が巨大すぎて目を圧迫し、それより困ったことには、おれには「憂国」の二文字が読めなかった。
「国」はさすがに読めるとしても「憂」がわからず、字面だけ見ると女の子がスカートを広げてパンツを見せている図のようだが、代々の総長がそんな卑猥な漢字を背負っていたとも思えず、「国」とあるからにはどこかの国なのだろうが、おれは国語も駄目だが地理もからきし駄目なのだった。
　聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、注意一秒怪我一生、「なんて読むんだ」と問えば七代目は「はあ？」と心底あきれたような、異邦人を哀れむような目でおれを見て「ゆうこく」と読んだ。Ｕ国？
「Ｕ国ってどこの国だよ」おれはさらに問うた。
「知らねえの、おまえ」
「知らねえよ。知ってたらわざわざ訊くか」
「常識だよ、こんなの。イギリスのことを英国っていうだろ、アメリカは米国だ。それは知ってるよな。それと似たようなもんだ」
「だからあ、地球のどのへんにあんだよ」
「ヨーロッパじゃねえかな」
「そういえばユーロって国があったよな」
「ユーロは国じゃねえよ」
「じゃあどこなんだよ」
「知らねえよ。とにかくゆうこくって国がヨーロッパのどっかにあるんだよ」
「なんで暴走族が外国の名前を背負って走んなきゃなんねえのよ」
「しつっけえな。革命が起きたんだよ、たぶん」
「Ｕ国で革命が起きたんだな」
「そうよ、ゲバラみたいなもんだよ」
「ゲバラがＵ国で革命したのか」
「違うよ。違うけど、ゆうこくにもゲバラみたいな奴がいたんだよ、きっと」
「ゲバラはかっこいいよな」
「なにしろ革命だからな」
「キクちゃんがゲバラのＴシャツ色違いで何枚か持ってたな」
「そうだよ。ゲバラを見習って革命精神で走れって、そういう意味だよ」
　じゃあ革命ってなんだよとおれは問うべきだったのかもしれないが、とにかく若い者が銃を持って反乱を起こすのが革命だという漠然としたイメージだけがあって、正確にはゲバラがどういう人物でなにをしたのかも知らなかったが、おれはそれで理解したような気持ちになっていたし、それで不足はなかったし、「憂国」の総長服にしても要は「死ぬ気で走れ」と、そういう覚悟が込められていることは間違いないから、根性なしの七代目が一度も袖を通さず終わったというのもうなずける話だ。
　おれは違うね、とおれは内心で思った。おれは根性なしじゃないもんね。
　時代が変わったと七代目は言い訳するが、暴虐な族だったうちのチームがやんちゃなツーリスト集団に成り下がったのはひとえに七代目が腰抜けだったからで、ヘルメットを着用しろだの歩道を走るなだのといちいちうざったかったが、おれが総長になったからにはチームを本来の族に戻し、革命貫徹、道交法くそくらえで街路に繰り出し民衆を恐怖に陥れ、チームの連中にもおれの走りを強制し、逆らう者には制裁を加えていった結果、おれが考えていた以上におれのチームは腑抜けぞろいだったのか、あっという間に一人抜け二人抜けし、どんどん数が減って気がつけばおれは独りだった。
　なさけねえ。
　チーム解散を宣言した翌朝、おれは例の総長服に初めて袖を通し、いまこそ死ぬ気で走る時だと腹を決め駐輪場まで歩き、あっと息を呑んだ。唖然としてしばらく動けなかった。おれのバイクはきれいに分解されて地上に散らばっていた。ネジというネジが抜かれて可能な限り細かいパーツにばらけ、粉々になった昆虫の標本みたいだった。ただの恨みじゃここまでやらねえ。犯人の冷静な執念に背筋が寒くなった。頭が白くなって怒りも湧かなかった。
　総長服を着たまま街を歩いた。すれ違う誰もが視線をそらし、それとなく道を開けた。おれを取り巻く世界が急によそよそしくなり、そのくせくっきりと鮮明で、３Ｄの映像みたいに、いちいち目に迫ってくるのに手で触れねえみたいだった。なんだかおれは次元の隙間を歩いているみたいだとおれは思った。ここにいるのにここにいねえみたいだ。総長服の「憂国」の文字が生地をとおしておれの背中をジリジリ焼いた。地上のどこかにあるＵ国ではいまも激しい戦闘が続いているはずで、若者が死に物狂いで戦っているはずで、そこがおれの本来いるべき国で、ここは違う、こんなへたれな国はおれの国じゃねえという意識がどんどん強大化していきおれは怪獣になりそうだった。
　ジリジリしながら歩いていたら、「よお、少年」と呼びかける声がした。かまわず歩いていたら「そこの憂国少年」とさらに呼びかけられた。我に返った。右翼のごつい街宣車がおれに並行してとろとろ走っていたのだった。ドアがスライドし、迷彩服を着た男が浅黒い首を突き出し「乗れよ」と言った。
　街宣車には二十代半ばくらいの男が四、五人乗っていた。おれと同じ臭いのする連中だった。「気合い入ってんじゃん」と背中を叩かれ、おれはその手を肩で振り払った。「気安く触んじゃねえよ」
　助手席に座っていた年輩の男が首をねじっておれを振り向いた。
「そうカリカリすんな。少年、国を憂えてるか」
　くにおぐれえてる？　どういう意味だ。意味はわからないが勢いでつい「そうだ」と答えた。「くにおぐれえてるだよ」
「憂国少年、われわれは同志だ。憂国の士だ」年輩の男が手を伸ばしおれに握手を求めてきた。おれは握手をした。おれは気に入られたようだった。
「演説してみるか」とマイクを持たされた。「言いたいことがあるんだろ」と。
　言いたいこと？　あるのか、おれに？　マイクを手にしたままおれは外を見た。街宣車に乗ると神の目になって下界を見下ろしている気分になった。街はどぎつい色のゴミが流れる川だった。ゴミの隙間に人の顔が浮いてへらへらしていた。
　すうっと息を吸って腹に力を溜め、「諸君！」と言った。おれの声が増幅され大音響で街に轟いた。雷みたいだ。右翼の連中がげらげら笑った。はて、「諸君」は変だったか。「みなさん！」と言いなおしたら右翼は手を叩いてさらに笑った。おれは開き直り「てめえら！」と叫んだ。右翼の笑いが止んだ。「てめえら、聞いてんのかこら。ちんたら歩いてんじゃねえぞ一般大衆が」
　大衆は平然としている。おれの声に耳を閉ざし下らぬことにうつつを抜かしている。歯がゆかった。ナイフを突き刺してでも奴らの耳をこじ開けたかった。
「民衆は豚だ！」そう叫ぶと大衆の何人かが反応した。右翼の顔色が変わった。おれの中のなにかがブツッと鈍い音を立てて切れた。「つまんねえことでへらへら笑ってんじゃねえ。ラーメン屋の前に行列つくってんじゃねえ。おめえだよ、こら。知らん顔すんな。ケータイいじりながら歩くな。コスプレすんな。おたくは死ね。ちゃら男も死ね。どいつもこいつも豚野郎だ。日本はごみ溜めの国だ。おれは日本がだいっ嫌いなんだ。こんなへたれな国いっぺん滅べ。地球の恥っさらしが。おれが街を焼き払ってやる。てめえら全員みな殺しだ、わかってんのかこら」
　マイクのスイッチが切られた。それでもおれは叫び続けた。マイクを取り上げられようとしておれは抵抗した。右から左から拳がおれの顔に飛んできた。
「革命だよ革命、革命するっきゃねえんだよ。Ｕ国に行ってゲバラになるんだよ。Ｕ国で武器もらって帰ってくるからな、覚悟しとけよ、こら」
　おれは広場のようなところに連れて行かれ、わけのわからぬまま袋叩きにあい、背中の「憂国」の文字も土足で踏んづけられた。死ぬかと思った。
]]>
	</content>
</entry>

</feed>
