2010/09/01
ねこみみ【猫耳】
耳あかが柔らかで、近づくと少しにおう状態(の耳)。
おや、見かけねえ顔だな。新参者かい? おめえだよ。隠れてねえでこっち来な。
小僧、いつからそこにいた。ひとの縄張りに入ってくる時は挨拶くらいするのが筋ってもんだ。
親の躾がなってねえ。親の顔が見てえもんだって、そう言いたいところだが、まあ無理か。おめえさんだって親の顔を知らねんだろ。わかるんだよ。人間に育てられたやつはそういう匂いがする。乳臭さがいつまでも抜けねえんだ。
ここいらじゃ見かけねえ毛色だが、おめえさん舶来かい? どこから来た? トウキョウ? ふん、知らねえな。それは鉄橋のこっち側かい、あっち側かい?
そうびくびくするな。誰も取って食ったりしねえよ。取って食おうにも、ほら、おいらの歯はガタガタさあ。歳はとりたくねえな。これでも昔は、棍棒みてえなカツオブシだって食いちぎったもんだが。鮭だって一匹まるごと、くわえて歩いたこともあったんだ。あん時は大変だったよ。魚屋のおかみが包丁振り回して追っかけてきてなあ。小僧も気をつけな。下駄をはいた女を見かけたら近づかねえこった。
小僧、取りあえずその、おっ立てたシッポを寝かせたらどうだい。そういうのを見てるとおいら、落ち着かねえんだ。ここいらはおいらの縄張りだが、よそ者を追い出そうなんて狭い了見は持ってねえ。うろつきたいなら好きにしていい。寛容がおいらの信条だ。ただし小便はするな。いいか、絶対にだ。こう見えてもおいらは紳士で通ってる。手荒な真似はしたくねえ。だからな、小便がしたくなったらできるだけ遠くへ行け。それさえ守ってくれたら、後はおめえさんの自由だ。
ふん、今朝から髭がムズムズする。こういう日は決まって雨が降るんだ。ほら、見てみな。ツバメが低く飛んでるだろ。覚えておけ、雨雲が近づくとツバメはあんな飛び方をする。若かった頃は草むらにひそんで、地面すれすれに飛んでくるツバメに飛びついて仕留めたもんだ。そうさ、昔はおいらもノラだったからな。
おめえさんも捨て猫だろう。違う? いいや、捨てられたんだ。なんだい、そんな顔するない。嘘と思うなら、そのへんの匂いを嗅ぎ回ってみな。知った匂いがあったか? 嗅いだだけでほっとするような匂いが。寂しくなる匂いばっかりだろ。
小僧、それがなにより証拠だ。
そう鳴くな。自分を憐れむな。ノラの世界じゃ、自分を憐れむ者から死んでいくんだ。小僧、自分は特別だと思いたいんだろう。誰でも初めはそうだ。ついさっきまで王子様でいられたんだ。しかしな、ここは、要らなくなった王子様の捨て場だ。今までどんな可愛い名前で呼ばれていたが知らんが、捨てられちまえば名前は消える。誰も彼も、ノラだ。どんな血筋だろうと、呼び名はひとつ、ノラなんだ。
ここんところ、おめえさんみたいなのがポイポイ捨てられる。それというのも、おいらのこんな姿が、ひょんなことでテレビに流れちまったからだが。この町は猫にやさしいと勘違いした人間が、わざわざ遠くからやって来て捨てていくのさ。「にゃんこちゃん、みんなに可愛がってもらうのよ」ってな。
ところがどっこい、やって来るのはホケンジョさ。ホケンジョだよホケンジョ。ああ、知らんか。気をつけな。あいつらに捕まると生皮はがされてシャミセンにされちまうからな。いや、シャミセンがどんなものかは知らん。なんでも、シャミセンにされた猫は死んでも鳴き続けるって話だ。つまり、死んでも救いはないってことだ。
嘘じゃあねえよ。おいらもホケンジョに捕まったんだ。シャミセンにされる一歩手前まで行ったんだ。
それから、何がどうしてこうなったんだか、今じゃあ駅長だ。
さびれた駅の人気者。ネクタイしめて無人駅の親玉だよ。帽子だけは、うっとうしいから拒み通したがな。
人間ってのはつくづくわからんものよ。おいらみてえな年寄りをアイドルにしちまうんだからな。おかげさま、改札口にこうして座ってりゃあ黙ってでも食い物が手に入る。饅頭だろうが沢庵だろうが、人間の食い物はたいてい食えるようになった。寒かろうが暑かろうが、ここにいるのがおいらの仕事さ。おかげですっかり足腰が弱っちまった。
いや、見た目ほど楽じゃねえよ。クソガキに頭をぽんぽん叩かれる。髭を切られた時なんか、しばらく自分を見失ってた。鼻にワサビを塗られた日にゃあ七転八倒で死ぬかと思ったね。そうそう、人間のガキには気をつけな。あと、酔っぱらったオヤジ。若い女だって油断ならねえよ。
なぜ逃げないかって? さあなあ。宿命って言ったって、小僧にはわからんだろう。つまりな、おいらは、いるべくしてここにいるんだ。なぜいるんだか自分でも説明できねえよ。それでもいるっていうことは、やっぱり宿命なんだ。
駅長になったのはたまたまさ。好きでやってるわけじゃねえ。前はここの駅も人間が駅長をしてた。その駅長がいなくなったから、代わりにおいらが駅長になったんだ。前の駅長がどうしてるか、おいらは知らん。おおかた、電車に乗って旅に出たんだろう。いつまでも電車を見送るばっかりじゃあつまらないからな。
切符バサミを持って遠くに行ったんだよ。
小僧、なにをそんなにじろじろ見やがる。
ああ、おいらの耳か。最近耳だれがひどくってな。臭えって評判だ。こうなると、おいらももう長くはねえ。時々、腐った脳味噌が溶けて流れてるんじゃねえかと思うよ。
この傷かい? 人間に切られたんだよ。薄くて柔らかい、体のどこより敏感なおいらの耳を、パチンだ。そりゃあ痛かったさ。耳の先から尻尾の先まで痺れたね。全身の毛という毛がピンと逆立ったまんま、しばらく元に戻らなかったくらいだ。
でもな、こいつのおかげでおいらは駅長になれたんだ。つまり、この傷がおいらの宿命そのものなんだよ。
老猫は思い出す。
老猫は四年前まで、前の駅長の家で飼われていた。
その前は野良猫だった。魚屋のおかみに捕まり下駄で踏んづけられ、そのまま保健所に連れて行かれたが、処分される寸前で、うまい具合に引き取り手が見つかった。それが前の駅長だった。
駅長には幼い娘がいた。猫を飼いたいと娘にせがまれ、ペットショップへ行くより先に保健所へ直行したのだ。保健所には血筋のよさそうな猫が何匹か保管されていたが、駅長が選んだのは雄の茶トラだった。野良猫というのが気に入った。餌代が安く済むからだ。名前はそのままノラにした。ノラはねこまんま以上の餌を要求しなかった。足りなければ鳩でも鼠でも自分で狩った獲物で腹を満たした。食いきれなければ駅長の家族に分け前を与え、彼らを小躍りさせた。
駅長の家で飼われていた数年は、ノラにとって最も心安らぐ日々だった。
しかし、娘が中学生になった頃から、家の様子がおかしくなり始めた。家の中から娘の気配が消えた。娘が消えると家の中は黴臭くなった。時々は現れ、いっとき華やいだ空気に染まるのだが、しばらくするとまた消えた。その繰り返しのうちに、家の中はしだいに汚れていった。
帰ってくるたび、娘の匂いが濃くなった。病院の裏のゴミ捨て場で同じ匂いを嗅いだことがある。どう言えばいいのか、鼻の奥からげんなりしてしまう匂いだ。
ある時から、娘の顔そのものが変わった。頭がつるんとなり、眉毛も消えた。ぜんたいに浮腫んで人相が違ったから、初めは娘だと気づかず得体の知れんやつが来たと警戒し奥へ引っ込んだ。呼ぶ声を聞いて娘と知ったが、やはり近寄りがたかった。
頭を撫でる手のひらは以前の通りにやさしかった。それでもノラは落ち着かなかった。込み上げる不安の正体がノラにはわからなかった。できれば逃げ出したかった。しかしノラは元野良猫のわりに義理堅い猫だった。娘に撫でられるのを責務と感じ、娘の膝でじっと目を閉じていた。
人間の喜怒哀楽がノラにはわからない。腹が減れば悲しい。敵に遭遇すれば怒る。ノラの知っている喜怒哀楽はそのようなものだが、人間の喜怒哀楽はそれと少し違うようだ。
娘に頭を撫でられるとノラは悲しくなった。なぜ悲しくなるのか、そんな必要がどこにあるのか、ノラにはわからなかった。
ある日、座敷にたくさんの花が飾られ、四六時中、煙がただよった。嫌いな匂いなのでノラは座敷に寄りつかなかった。物陰から覗くと黒熊みたいなのが何頭ものそのそ動いていた。彼らの頭の上で娘がひらひらと踊り、ノラに気づくと寂しそうに手を振った。娘は裸足のまま縁側から外に出て行った。それきり、二度と戻らなかった。
家の様子は荒れてきた。それというのも、駅長の奥さんが何にもしないからだ。一日、縁側に座ってぼんやり外を眺めてばかりだ。膝に上がろうとすると邪険に払われた。家の内と外と区別がだんだんつかなくなり、次々に湧いてくる虫を捕まえるのにノラは余念がなかった。食ってみたら腹をこわした。こりごりしたが、それでも、這い回っているのを見ればつい手が出てしまうし、捕まえればついつい食ってしまうのだ。
ある日、猛烈に腹をこわして、つい茶の間で粗相をしてしまった。奥さんが鬼のような形相で追いかけ回した。手に触れた物を片っ端から奥さんは投げつけた。奥さんに腕力があったらテレビだって投げつけただろう。ひらりひらり、かわしながらノラは逃げた。猫同士の戦闘と比べたら奥さんの攻撃などダンスみたいなものだ。しまいに奥さんは縁側から転げ落ち、額を血だらけにして泣き崩れた。
駅長はノラを外に連れ出し駅で飼い始めた。ノラの縄張りが駅に変わった。駅で働いているのは駅長一人だったから、誰も文句は言わなかった。駅長は一人で切符を切り、電車が来れば旗を振り、切符を受け取った。昼飯はそば屋の主人が自転車で持ってきた。そば屋の主人は年来の宿敵だが、駅で見る主人はたいていエビス顔だった。それどころか、ふやけた煮干しやエビのシッポを餌皿に置いていってくれた。何か魂胆があるようでもなかった。
ある朝、久し振りに奥さんを見た。大きなスーツケースを手に、駅にやって来たのだ。奥さんは顔がやつれて別人に見えた。匂いもおかしかった。
奥さんは待合室のベンチに座り、ノラを膝に抱いて駅長と長いこと話していた。奥さんの手はひどく乾いていて、背中を撫でられるたびパチパチ火花が散った。ノラは恐ろしい予感がしたが、なぜか逃げようとは考えなかった。
奥さんの手に、いつから切符バサミが握られていたのかわからない。それは駅長の宝物で、誰にも触らせなかったはずなのだ。
とにかく、駅長が離れた時、チャキチャキいう音を聞いて首を上げたら、奥さんの目が吊り上がっていた。なぜか、腐った魚の匂いがした。殺気を感じた時は遅かった。奥さんの指がノラの右耳をつまんだ。逃げる暇もなかった。激痛が走りノラは跳び上がった。奥さんがノラの耳を、切符を切るように切符バサミで切ったのだった。
後も見ずに逃げ出したから、それからのことはわからない。わかっているのは、切符バサミで切られた跡が、ノラの右耳に四角く残ったことだ。肉球に触れる耳の感じで、それはわかった。
ノラは自分が切符にされた気分だった。だから旅に出た。切符を切られた者は旅に出る。誰に教わったわけではないが、それが宿命なのだ。
旅の間に幾多の冒険があり、何度か死地をくぐったが、それは省く。長い旅をへて駅に戻ってみると、駅長の姿がなかった。駅そのものがひっそりとして、さびれた感じになっていた。それでも時間がくれば人は集まり、電車が来れば改札口を抜けてホームに出ていく。改札口に駅長は立たなかった。誰も切符を切らなかったが、それでもかまわないらしかった。
旅に出ている間に何が起きたのだろう。駅の変化と、右耳の傷とは、何か関係があるのだろうか。
ノラはためしに、改札口に跳び上がってみた。改札口には一部、木の板で台になっている箇所があり、これが大変座り心地がよろしいのだ。以前なら駅長にこっぴどく叱られたものだが、今では誰もノラを叱らなかった。どうやらノラは、右耳を切符のように切られたことで、改札口に居座る資格を得たらしかった。
「まあ賢いのね」と、ノラはたびたび誉められた。猫撫で声をかけられると吐き気をもよおしたが、じきに慣れた。おだてに乗らず猫としての気高さを保つには、要するに相手を軽蔑しさえすればいいのだ。
ノラが新しい駅長に就任したのはそれから間もなくのことだ。おかげでノラは有名になった。全国に猫駅長は何匹もいるが、切符のような耳を持った猫はノラしかいないのだ。
駅に人がいなくなると、ノラは丸くなって居眠りをした。たまには元駅長やその奥さんや娘の夢を見る。三人が長い旅を終え、そろって電車から降りてくる夢だ。三人とも切符は持っていない。ノラが切符そのものだからだ。
「なあ、小僧」とノラは言った。小僧、と呼ばれた捨て猫はピンと尻尾を立てた。
今は夏だからいいが、おめえさんのような小僧が冬を越すのは大変さあ。おめえさんはまだ冬を知らんだろう。大変なもんだよ。ほら、あそこらへんの茂みはみんな枯れて、木の葉も落ちて裸んぼうになる。獲物は減る。夜は長い。雨に濡れりゃ骨の芯まで凍えちまう。おいらは嫌になるくらい子猫の死体を見てきた。冬を越せるのは三匹いたら一匹くらいのもんだ。まだピンと来ねえか。そりゃあそうだ。冬の辛さは経験してみないことにはわかりっこねえ。
しかしな、おいらは勘でわかるんだが、おまえさんは人間に好かれそうな毛色をしている。顔つきも賢そうだ。おそらくいい血筋なんだよ。うまく振る舞えば人間に可愛がってもらえるかもしれん。
どうでえ、ここに上ってみる気はないかい。変な顔をするない。縄張りを譲ってやろうっていうんだ。そうさ、早い話が、おいらの代わりに駅長になるんだよ。いいや、親切心なんかじゃねえ。おいらはもう疲れたんだ。そろそろ死に場所を探して旅に出てもいい頃だ。
さあ、上がって来な。おめえさんのような小僧にじっとしてろというのは酷かもしれんが、なあに、四六時中ってわけじゃねえ。肝心な時にいさえすればいいんだ。そのへんのコツはおいらが教えてやる。まあ、最初のうちはいっしょにいてやるさ。おめえさんはおいらの横にいるだけでいい。おいらの耳が臭えのは我慢するこったな。おめえさんがうまくやれるようになったら、おいらは潔く消えていくよ。
ただしな、おいらがここにいる間は、ここはおいらの縄張りだ。小便はよそでしろ。いいか、絶対にだ。
(注 梶井基次郎『愛撫』から着想を得ています。「私は子供のときから、猫の耳といふと、一度「切符切り」でパチンとやつて見度くて堪らなかつた。これは残酷な空想だらうか?」 筑摩書房版全集一巻より)