2010/08/02
ぬれつばめ【濡(れ)燕】
①雨に濡れたツバメ。②雨中にツバメの飛ぶ様子をかたどった模様。
これも異常気象なのだろうか。めったに雨の降らない国で豪雨に見舞われた。
列車は峡谷の村で停止した。真夜中のことだ。目を凝らしても窓の外は漆黒の闇。窓を伝う雨のしずくだけが車内灯に照らされ銀色に光った。
今朝、隣国の空港で飛行機を降りた時から雨はぱらついていた。雨季なのかな、そう軽く考えていたが、列車が国境線を越えてから雨の降り方は尋常でなくなってきた。線路の片側に連なる岩山の地肌を、文字通り削り取るほどの激しさだった。
深夜、峡谷の村に停車したまま列車は動かなくなり、乗客がざわめきだした頃、車掌が客車を回り状況を説明していった。しかし私には車掌の言葉がちんぷんかんぷんだ。たぶん土砂崩れだろうが、雨に乗じて山岳ゲリラが蜂起したとも考えられる。言語のわからない異国でこうした場面に遭遇すると、想像は悪いほうへ悪いほうへ傾いていく。
車掌の言葉を英語にして私に伝えてくれたのはアメリカ人だった。不安そうにしている私を遠くから見て、わざわざ通路を歩いて教えに来たのだ。幸いにして、英語なら少しは理解できる。
「土砂崩れです。列車はとうぶん走りません。その代わり、バスを回してくれるそうです。明日の昼までには着くでしょう。明日中に、我々を首都に送り届けてくれる予定です」
「信じてもいいのでしょうね」意味もなく腕時計を覗き、私は肩を落とした。
「この国に確実なことなどありません」彼は窓の外を指さした。「道路がどこも崩れていないと誰に断言できますか。この国で楽観を語れる人は、現実を見ていない人です。傘を持っていない人に限って、たいした雨ではないと言い張るものです」
私の英語の能力は怪しいものだが、ニュアンスは間違えていない。肝心なのは、穏やかな微笑に反して、彼の口調には、この国への憎悪がひそんでいたことだ。
「私は、建国三周年を祝うセレモニーに招待されています。このぶんでは間に合いそうにありません」
「あなたは大学教授ですか?」
「とんでもない。私は詩人です」
「それは素晴らしい。私は宣教師です。五年前、紛争のどさくさで私の仲間が殺されました。その土地を見に行きます」
「危険な旅ですね。どうかご無事で」
「あなたも、どうかご無事で。あなたに神のご加護がありますよう」
宣教師は皮肉でもなさそうに指で十字を切ったが、言葉は空疎だった。彼の仲間を殺したのはおそらく、私を招待した政府の軍隊なのだ。
長い内戦をへて三つに分裂した国のひとつに、詩人が初代大統領に就任した国がある。驚くべきことに、詩人が尊敬される国が世界にはまだ残っているのだ。もっとも、彼は民主主義を標榜しているが神輿に担がれているだけで、実際は軍事政権だという評判だ。
その国のことは正直、よく知らない。建国三周年式典に世界中から詩人が招待され、日本人代表がこの私というわけだが、なぜ私なのか、腑に落ちない。なぜ私なのだ。
それにしても、「私は詩人です」などと、恥ずかしげもなくよく言えたものだ。日本で「詩人」といえば、変人か生活不適応者を指す言葉だ。私が抵抗詩人だったのは三十年も前の話で、今では毒にも薬にもならない詩しか書かない。
夜が明け始めると、退屈した乗客たちが雨に濡れるのもかまわず外に出て行った。外に何があるわけではなかったが、少なくとも広々とした空間だけはあった。
その村がなんという村か知らない。言葉の通じない村で名前を知ってもどうにもならない。駅にプラットホームはなく、乗降口から直接地面に飛び下りるしかなかった。着地の瞬間、砂利に足を取られて前のめりに転び、水たまりに手をついた。顔に泥水をかぶったが、気の毒な東洋人を誰も笑わなかった。女も子供も器用にぽんぽん飛び下りていた。みんな遠くばかり見ていた。
朝明けの光に雨脚のひと筋ひと筋が白い。雨は垂直に降り注いだ。地球の引力そのもののような雨だ。叩かれて、叩かれて、これではまるで、何かの罰みたいだ。
灰褐色の村に人影はなかった。どの家も乾燥地らしい煉瓦作りで、雨に打たれて濡れそぼった姿がどこか無惨だった。家が雨ざらしになるのは当たり前なのに、その当たり前がここでは普通でなく、いかにも雨ざらしといった景色なのだ。
たくさんの乗客が列車から降りたはずだが、人の姿が村に見当たらない。不思議だが、不思議と思うのは二流詩人の勝手な感傷で、どこかに旅人を迎える集会所があり、そこで温かいお茶でも飲んでいるのかもしれない。ざっと見、そんな親切な村とは思えないが。
紐に吊された洗濯物がずぶ濡れだ。荷車の下に隠れて、痩せ細った犬が恨めしげな目を向けている。雨に煙る小麦畑も、石垣で囲った牧草地も、寒々として痛々しい。いったいここはどこなのだ。ここはまるで、地球のかすり傷みたいな場所だ。
道路標識があるが、日本では見たことのない奇妙な記号だった。その下に書かれた文字はなおさらわからない。もちろん、この標識が何を意味するのか見当もつかない。
村の外れに聖堂のような建物があった。
建物の中にも雨は降っていた。石畳の床が雨をはじき、水飛沫を無数に散らしている。これも内戦の爪痕だろうか。ドーム型だったはずの屋根に大きな穴が開き雨空が見えた。堂内が暗いせいか、鉛色のどんよりとした空が不思議なくらい明るかった。
壁画はほとんどが削り取られている。顔の部分は特に念入りにえぐり取られている。祭壇もない。燭台もない。椅子もない。がらんとして、空洞だ。
どんなむごい意志が、ここで働いたのだろう。沈黙が深すぎて、うまく想像できない。
妙な物を見つけた。壁に鉄の輪が取り付けられている。なんだろう、あれは。
確かめようとして壁に寄った。拷問具か処刑器具に思えた。
人の気配がして振り向いた。アーチ型の扉が片方だけ開いた入り口に、人影がシルエットになって立っていた。ぎくりとして、もう少しでホールドアップをするところだった。村の秘密を見てしまったと思ったのだ。
しかし、人影から敵意は感じられなかった。よく見れば十四、五歳の少女だ。
ほっとしたのも束の間、「ダンッ」と銃声が響いて反射的にホールド・アップした。紛争は終わったはずだが内情はわからない。少女の兵士がいないとは限らないのだ。
しかし銃声ではなかった。なんてことはない、バスケットボールが弾んだ音だった。少女はバスケットボールを手にしていた。石壁に音が鋭く反響して銃声に聞こえたのだ。両手を上げたままの私が阿呆みたいだ。
少女は無言のまま、ダンッとまたボールをバウンドさせた。私のことなど見てもいなかった。少女はボールを放った。ボールは私の頭を越えて放物線を描き、鉄の輪の内側をくるんと回り、はじき返された。
拷問具か処刑器具に見えたのは、バスケットボールのリングだった。ネットがないので気づかなかった。目を凝らせば反対側の壁(つまり祭壇をすべて取り去った跡の壁)にも同じようなリングがあった。
信じられなかった。かつての神聖な祈りの場所が、そのままバスケットボールのコートになっているなんて。迫害された信者にとって、そして神(もしそういうのがいれば)にとって、これほどの屈辱があるだろうか。
ボールが床に転がる。少女は小走りに駆け寄ってボールを拾った。ドリブルをして反対側の壁に走り、リング下でジャンプする。シュートは外れた。彼女が履いているのは薄汚れた運動ズックだ。黒いショールをまとっているが、民族衣装だろうか。動きにくそうだが、雨の降り注ぐ堂内の中央を、激しく水飛沫を立てながら突っ切っていく。まるで濡れ燕だ。
私が目に入らない代わり、彼女には仮想の敵チームと味方チームがいるらしく、彼女の動きは明らかに、見えない敵の防御をかいくぐる動きで、時にはパスをするように左右の壁にボールを投げ、はね返ったボールをキャッチしてリングに走った。
ジャンプ力は素晴らしかった。思わず見とれたくらいだ。思い切りよく床を蹴って、背筋をぴんと伸ばし、一瞬、空中で制止する。指からボールが離れると、彼女は地上に引き戻される。シュートは決まったり外れたりした。どちらだろうと、彼女の表情は変わらなかった。
いかなる経緯でここにバスケットコートが作られ、彼女は練習に励むのだろう。コートを往復するたび濡れていく彼女の姿に、冒しがたい神聖なものを感じた。ジャンプし、着地をすると、黒いショールがしずくを散らした。飛翔を試みては落ちる燕のようだ。
言葉はなく、堂内にボールの弾む音が重く響く。紛争に巻き込まれた村で彼女が何を見、何を乗り越えてきたか知らない。しかし、この響きこそ雄弁だ。ボールの響きが死者の魂を呼び覚ます。ボールの響きで死者と語らう。地球の中心にまで届きそうなこの響きに比べれば、詩の言葉のなんと貧弱なものか。
ボールが転がり、雨が降り注ぐ中央に来て止まった。彼女は肩で息をつき、ゆっくり歩いて雨の中でボールを拾った。ボールを両手で抱き、水たまりに足を浸して空を見上げる。彼女はそのまま、屋根に開いた穴を通路にして、空へ吸い込まれていきそうな姿だ。
雨の外に出て、彼女は初めて気づいたというように、私に眼差しを向けた。
あなたは誰? どうしてここにいるの? そう問いかけるように、ダンッ、ダンッとボールを床に叩きつけた。
私は何者なのだろう。答えが見つからなかった。ボールを貸してくれと言う代わりに、私は両手を前に差し出した。彼女はためらい、ボールを抱いたまま、黒い瞳でじっと私を見つめ返した。