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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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ぬえ

2010/08/02

ぬえ【鵺】
①渡り鳥であるトラツグミの古称。②夜、無気味な声で泣き渡ったという怪鳥。〔源頼政ミナモトノヨリマサ〕が禁中で射た怪獣は、頭はサル、からだはタヌキ、手足はトラ、尾はヘビ、泣き声は「ぬえ①」に似ていた所から、後世正体不明の存在を指した。

 その酒場には深夜の一時から明け方の五時までいた。
 ぱっとしない酒場に集まるのは、ぱっとしない客ばかりだ。おまけに雨。明け方の雨は頭が重くなる。客は愚痴をこぼして店を出ていき、わたし一人、止まり木に残された。
 どうも、この街とは相性がよろしくなさそうな。昨夜遅く着いたばかりだけど、見切りをつけるなら早いほうがいい。
 この街はあきらめよう。そう決めて、足下のバッグを膝にのせた時、ドアが開いた。
 雨音がざああっと鼓膜をたたき、水の匂いが流れ込む。振り向くと男が立っていた。黒い雨合羽を頭からすっぽりかぶって、びしょ濡れの鳥に似ていた。大きな、黒い鳥。フードの透明なひさしがくちばしに見えた。
 一瞬どきりとしたが、マスターが「ガッチャマンのお出ましかい」と軽口をたたいて、男が「似合うなんて言うなよ」と応じて、それで馴染みの客だとわかった。
 フードの下から現れた顔が、猛禽類を思わせて眼光するどい。けわしい顔のまま、「行け、行け行けガッチャマン」とアニメソングをくちずさみ、しずくを飛ばしながら雨合羽を脱いだ。
 蒸れた汗の匂いの下から、ケモノの匂いがふわりと広がった。
 獣医なのかな。いちばん奥の止まり木に座った男の横顔を、そっとうかがった。獣医にしては顔が精悍すぎる。前髪から雨のしずくをぽたぽた垂らして、拭き取るハンカチも持っていない。
 男はカレーとビール注文した。
「あいにくカレーは品切れた」マスターは澄まし顔で言った。
「この店、カレー以外に食えるものがあんのかよ」
「ナンだけでいいなら焼くけど」
「それでいいや。タバスコをかけりゃカレーっぽくなるだろ」
「あの、わたしも」わたしはすかさず口をはさんだ。「ナンにタバスコ」
 ものを食べる時、男は無口になった。一人で食事をするのに慣れた人だ。それは雰囲気でわかる。丸めた背中に影が濃くなる。
 外に出ると小雨になっていた。男は雨合羽を肩で羽織った。わたしはひりひりするくちびるを舐めながら、勝手に男の後をついて歩いた。
 コンクリートの塀に沿ってゆるゆるの坂道が続いた。高い塀だ。その上に有刺鉄線が張りめぐらされてある。塀の向こうはうっそうとした森。木の実みたいなのが歩道に落ちて紫色につぶれていた。時おり、鳥の鳴き声が聞こえた。朝のさえずりなんてしおらしいものじゃない。甲高い、叫ぶような声だ。むかし観た外国の映画で、人間の赤ん坊をさらっていった鳥が、あんな鳴き声だった。
 男がふり返った。わたしはどきりとしたが、とがめる目つきではなかった。
「なんでついてくんの?」醒めた声で男は尋ねた。
「泊まるところがないの」わたしは答えた。
「もう朝だけど」男は少し笑った。「泊まるもなにも」
 わたしは空を見上げ、肩をすくめた。
 男はアパートに住んでいた。木造で、木の階段がみしみしいった。どう考えても獣医の住むアパートではない。裸になっても男はケモノ臭かった。汗ばむとよけい匂った。男はタフではないし、スゴ技もなかったが、まじわっている時間は濃密だった。

 ヤドカリ、というのだそうだ。わたしのような人を。
 そうわたしに教えたのは単身赴任の銀行員だった。彼とは一ヵ月同居した。
 人から人へ、宿を借りて歩くからヤドカリ。
 高校を卒業して、就職は決まっていたのに家出した。それからずっと行き当たりばったり、出会った男と同居しながら日本を転々としている。同居の期間は三日の場合もあれば、数ヵ月間におよぶ場合もある。愛人になるのとは違う。同居すれば相手の男と当然まじわるが、関係が粘ついてきたなと思ったら出ていく。
 愛とか恋とか、よくわからない。男がそういうことを口にしだすと、あぶなくなる。眼の色が変わる。
「こんなことをしていて、そのうち殺されるぞ」と、よく言われる。
 それは純然たる忠告と違う。忠告のふりをした欲望の表明だ。やたら親切だったり、やさしかったり、情の深い男はあぶない。向こうから言い寄ってくる男は避ける。相手が気づかないうちに、いつの間にか居座ってしまうくらいが理想だ。
 いろんな男と同居していると自分がなくなる。相手に合わせていくうち、自分の中身がからっぽになっていく。それはある意味で楽だが、ある意味で苦しい。その苦しさに知らん顔して、平気で自分をなくしてしまえるのでなければ、こんな生活は続けられない。

 その男は獣医なんかではなかった。「動物園で働いてる」と彼は言った。
 まじわって、ひと眠りして、昼過ぎに起きだして、またまじわって、メシを食いに外に出て、近所の蕎麦屋に入った。男はビールと鴨南蛮を頼んだ。わたしはとろろ蕎麦。
「しいく係?」わたしはうずらの卵を割る。箸でとろろと掻き回す。
「いや、夜間警備」男はビールをグラスに注ぐ。
「動物園って、この町にあるんだ」男はわたしのグラスにもビールを注ぐ。
「あるよ。つうか今朝、近くを通ったろ」
「あ、あの壁がそう」合点がいった。あの鳴き声は動物園の鳥だったんだ。
「二人一組で、かわりばんこに、監視カメラを見張ったり、園内を巡回したり。敷地が広いから、歩くのけっこう大変」
「どおりで。ケモノ臭いと思った」
「そんなに匂うか」彼はTシャツの襟を引っ張ってくんくん嗅いだ。「夜の動物園って匂いが濃い。動物は小屋に入って檻はどれもからっぽだけど、みんな一生懸命マーキングしてるだろ、けっこう匂う。姿はないのに、いかにもいるぞいるぞって感じで」
 夜の動物園って不思議な場所だ。彼の話を聞いて思った。動物がいなくなった檻や岩山に、動物の気配だけが濃い影になってうろついている気がする。動物って、姿が見える時よりも見えない時のほうが、存在感は濃いのかもしれない。
 彼はこの町の生まれだった。高校生の時、親が仕事の都合で遠くへ引っ越し、彼だけが残ったそうだ。
 彼はわたしのことを何も尋ねなかった。名前だけ聞いて、それで終わりだった。
 わたしの名前は少々変わっている。常識的な親ならまず付けない名前だ。名前のおかげでずいぶん損をしてきた。名前が変だと人格まで変だと思われる。変わった子と思われたくなくて、ふつうでいようとつとめてきた。でも、ふつうを演じようとして、かえってふつうでなくなった気がする。いまでは、ふつうがわからない。
 彼は、わたしの名前に特別な感想を持たなかった。ふうんと鼻を鳴らしただけだった。年齢も出身地も訊かなかった。わたしが誰でもいいみたいだが、そういう軽いあしらわれ方が、逆に心地よかった。
「あっち行くと動物園のゲート」
 蕎麦屋を出て、三叉路に来て彼は一方向を指差した。道の先に虹色で塗りたくられたアーチがあり、いろんな動物の人形がごてごて飾られていた。
「目玉の動物っている? コアラみたいな」
「コアラはいないけど、四不像がいる」
「シフゾウ。なにそれ?」
「頭はウマで角はシカ、体はロバで、それからええと、ひづめがウシ。四つの動物が組み合わさって、とらえどころがないから四不像」
「それって鵺みたいなもの?」
「ヌエ?」
「頭はサルで、体はタヌキ、手足はトラで、しっぽはヘビの動物」
「空想の動物だろ。四不像は世界的に見ても数が少ないんだ」
「鵺は雲の上に住んでて、夜になると気味の悪い声で鳴く。知ってた?」
「知らねえ」
 それで会話は切れた。わたしの空想の鵺が、糸の切れた凧みたいに飛んでいった。空はどんよりと重く曇っていた。
 アパートに戻って、またまじわって、テレビを見たりうだうだ過ごしているうち夕方になって、牛丼屋で豚丼を食い、彼は仕事に出かけた。
 いろとも帰れとも言わなかったから、わたしはいることにした。
 脱ぎっぱなしの服でとっちらかった部屋だ。初夏なのにセーターまで混じっていた。特に趣味はなさそうだった。ちょっと整理をすればがらんとしてしまいそうな部屋だ。何が楽しくて生きているのだろうと、首をかしげた。
 汚れた衣服を集めていて、女の人の写真を見つけた。女子高生だ。かわいい。むかし付き合っていた彼女かも。でも、こんなかわいい子がこんな汚い部屋にちょこんと座った光景は、ちょっと想像できない。誰だろう。妹でもなさそうだ。畳の上に落ちていた百円玉を何枚か拾って、近くのコインランドリーへ洗濯に行った。
 コインランドリーの壁に「この人さがしてます」のポスターが貼ってあった。白黒コピーの、手作りっぽいポスターだ。この町の女の子が行方不明になった。十七歳の女子高生だ。学校の帰りに忽然と消えたらしい。
 さらわれて、海に沈められたか、山に埋められたか。そう思うと可哀想になった。でも考えてみれば、わたしの両親にとってはわたしだって行方不明者なのだ。
 こんなふうに、わたしの写真があるポスターが、家の近所に貼られているのだろうか。それは嫌だ。そのポスターを見た人はやっぱり、わたしが海に沈められたか山に埋められたと考えるのだろう。想像しただけで寒気が走った。
 行方不明の女の子がわたしに似ているようで、顔を寄せてよく見たら、似ても似つかなかった。でも確かに見覚えはあり、どこで見たのだっけとよく考えたら、さっき彼の部屋で見つけた写真の女の子だった。うそ?
 どきどきしてきた。どうして彼の部屋に行方不明の女の子の写真があるのだ。
 衣服を洗濯機に突っ込み、彼のアパートに戻って女の子の写真を拾い、コインランドリーに取って返して写真の子とポスターの子とを見比べたら、やっぱり同一人物だった。なぜ? なぜなのだ。
 アパートに帰って、押し入れの中を探ってみたのは、まさか女の子の死体が出てくると思ったわけではない。そんな、サスペンス劇場みたいな展開、あるわけない。
 古着ばかりを詰め込んだダンボール箱の後ろから出てきたのは(なぜかこの部屋にはやたら古着が多いのだ)、八本のPコーラだった。どれも未開封。しかも賞味期限が五年前に切れている。
げっ! 五年前。わたしは高校生だ。驚くとか呆れるとかを通り越して、戦慄が走った。
 翌朝帰ってきた彼に、なぜ五年前のPコーラがあるのか尋ねた。本当は女の子の写真のことを尋ねるべきだろうが、怖くて訊けなかった。
「あ、まだあったんだ」彼はさらっと言った。Pコーラの景品の、特製ヨーヨーの応募シールが欲しくて大量に買った、その残りなのだった。
「箱買いして、飲んでも飲んでも減らないから途中で飽きて」
「そんなにヨーヨーが欲しかったの」
「当時はやってたんだよ」
 そうだろうか。五年前、どこの世界でヨーヨーなんてはやったのだろう。
「そのヨーヨーいまもある? 見せて」
「ねえよ。一個も当たんなかった。大損した」
「Pコーラ、捨てればいいのに」
「食べ物を捨てたらバチが当たる。腐ったら食べ物でなくなるから腐るまで待つ」
「もう腐ってるよ」
「そんなかんたんに決めつけんなよ」
 彼は栓を抜いて一気飲みを始めた。止める間もなかった。
「Pコーラってこんな味だっけ」彼は大きなゲップをした。「薬みてえな味。成分が化学変化したのかな。でも毒じゃなさそう」
「なさそうって」
 彼は押し入れに首を突っ込み、残りのPコーラを奥に戻した。どう言ったらいいのかわからないが、常識では計り知れないところのある男だ。
 女子高生の失踪事件と五年前のPコーラと何の関係があるかというと何もない。それはわかるが、論理を超えたところでわたしは彼を怪しみ、背中がぞくぞくした。

 彼と初めて会った酒場へ行く途中の、長い坂道に並んだ電柱の一本一本にも女子高生のポスターは貼られていて、夜になると街灯にしらじら照らされた。塀の向こうで鳥がぎゃあぎゃあ騒いだ。塀を越えて動物園の森が夜空に黒々と盛り上がり、鳴き声は夜の闇に奥行きを与えた。安っぽい小説ではないけれど、あの中にいる彼が、異界の住人みたいに思えた。
 彼女が最後に目撃されたのはこの坂道だった。ポスターを作ったのは彼女の両親で、重要情報の提供者には百万円を差し上げると書いてあった。警察はきっと、ろくな捜査をしてないのだろう。
 殺人事件とは死体が見つかって初めて殺人事件になるので、そうでなければただの失踪事件だ。日本には失踪者が十万人はいるらしいが、その中でどれくらいの人間が殺されているのだろう。怖い話だが、わたしの親が捜索願いを出していたら、わたしだって十万人のうちの一人だ。
 彼が彼女を殺したとは考えにくい。でも何らかの関係があったことは確かで、そんな男となぜ同居を続けているのか、自分がよくわからなかった。
 酒場で待っていると、明け方に彼はやって来た。彼の体からはやはりケモノの匂いがした。いろんなケモノの匂いが混じり合って、彼こそが四不像なのかとも思ったが、何者かわからないという意味ではわたしも同じだ。彼が四不像なら、わたしは鵺だ。
 アパートに帰って、何者かわからない同士、まじわった。声を出していると、部屋の壁がどんどんと鳴った。隣の住人が怒っている。わたしの声は筒抜けなのだ。うるせえ、うるせえ、うるせえ。拳が狂ったように叫んでいる。恥ずかしかったが、彼が止めないのでわたしは声を出し続けた。

 そんなふうに数日が過ぎた。
 夜の動物園に、わたしも入ってみたかった。そこは廃墟じみていながら、生き物の匂いのむんむんする場所で、明け方、仕事を終えた彼とまじわるたび、わたしは彼の匂いを通じてそのような場所を想像した。それはクマの巣穴に手を差し入れて毛皮を撫でるのに似た、ぞわぞわする快感だった。
「そりゃ無理だ」彼は断った。
「どうしても駄目?」
「そんなことしたら一瞬で首を切られる」
 彼は親指で自分の喉元を掻き切るしぐさをした。指の動きがリアルで、なまめかしかった。背筋がぞくっときて、わたしは彼に殺されたいのかなと思った。
 こんな生活がいつまでも続くわけがなくて、いずれ行き詰まるのは目に見えてるから、ぼろぼろになる前に誰かに殺されれば楽だと、心の隅ではいつも考えていた。でも深刻ぶるのが嫌いなので、欲望に見て見ぬふりをしてきたのだ。
 彼の部屋にあった写真の謎は、ある日、いともかんたんに解けた。謎でもなんでもなかったので、拍子抜けしたくらいだ。
 その夜、例の酒場で彼を待っていたら、常連客たちが失踪した女子高生の話を始めた。
 テレビでたまにやる、霊能力者による捜査は信用できるかどうかという、論じ合うのも馬鹿らしくなる話だ。でもみんな真剣なのが不思議で、「消えた女の子の知り合いなんですか?」と訊いたら、「そうよ。ここの常連の一人娘でさあ」と答えが返った。
「警察なんて当てにできないから、俺たちで捜してやろうって捜索隊を作って、写真を焼き増ししてもらってさ。その写真を見せて回りながら、目撃した人はいないか探したんだけど、無駄だったね。ドラマみたいにはうまくいかないもんだよ」
「あ。もしかして○○君も捜索隊に入ってました?」○○君とは、彼の名前だ。
「○○は昼間が自由だから貴重な戦力だったよな」。「貴重なわりに使い物にならなかった」。「写真をどっかになくしたとか言って、それっきりだもんな」
 ははは。気が抜けて笑うしかなかった。あははは。現実ってこんなもんだ。

 明け方、いつものように彼が店に入ってきて、いっしょに外へ出たが、わたしは彼の魅力が薄れているのに気づいた。なんだか、どこにでもいるふつうの人だった。
 でも、だとしたら、わたしはいままで彼に、何を期待していたのだろう。なぜふつうでは物足りないのだろう。「期待はずれ」から始まる恋があってもいいのではないか。
「ゆうべ、巡回していて気づいたんだけどさ」歩きながら彼が言った。「夜の動物園に入るのは無理だけど、ほんの一部なら覗けるポイントがある」
 彼はわたしを連れて歩道橋を上った。そこから樹木越しに、動物たちの檻や岩山なんかが見え、水銀灯の光に、アスファルトの通路がほの白く浮き上がっていた。
「あれがキリンで、そっちがシマウマで、手前に鳥舎が並んでいて、孔雀なんかもいる。孔雀は見た目きれいなくせにすげえ声で鳴く。いちど昼間の動物園を見てみろよ」
「ねえ、あそこの道も巡回するんでしょ」わたしは指差した。
「する。くまなく巡回する」
「あっちからこの歩道橋、見えるかな」
「こっから見えるってことは、あっちからも見えるってことじゃねえの」
「じゃあ約束して。今晩、時間を決めてさ、わたしがここから合図を送るから、それが見えたら○○君はあっちから合図を返して」
「まあ、それくらいなら、時間割りを調整すればできないこともない」
 歩道橋の手すりにもたれて、彼はくつくつ笑った。
「なにか可笑しい?」
「いや、案外子供っぽいこと思いつくんだなあって」
「わたしはペンライトを持って、こうやって振るから。ぜったい見つけてよ。見つけなかったら、ただじゃすまないから」
 わたしはコンサート会場で観客がよくやるように、腕を大きく振って見せた。
 動物園に人影はなくて、動物の姿もまだ見えなくて、鳥の鳴き声だけが聞こえた。
 わたしは盛んに腕を振ったが、応えてくれる者は誰もいなかった。

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