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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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にんぎょ

2010/07/15

にんぎょ【人魚】
①胴から上は若い女性で、魚の尾を持つという、想像上の動物。②ジュゴンの別称。

 かれこれ六、七年前のこと。それまで勤めていた会社をリストラされ、新しい仕事を探したところでろくな仕事がないのは火を見るより明らかで、それなら自分で会社を作って就職すればいいんだと考え一人で出版社を立ち上げたまではよかったがなにしろ基本がいい加減だからまるで先行きが見えない。このまま立ち腐れてしまうのか。旅をすれば何か掴めるだろうと祈る思いで沖縄に飛んだ。日本を南端から攻める計画だった。北海道の北端から攻めてもよかったのだが沖縄を選んだのはたまたまだった。
 沖縄は本土とまるで違った。何が違うといって、ひと口で言うなら神が違った。日本と切れている。沖縄という土地が神なのだった。ビルにせよ道路にせよみんな沖縄という神の上に載っかっていて、アスファルト一枚コンクリート一枚めくればたちどころに神は剥き出しの顔を見せる。
 誤解されそうなので断っておくと僕は神を信じる人ではない。なのに沖縄の神だけは素直に信じられた。信じるというか神の方から僕の中にえぐりこんできたのだった。それで何か悟ったということはなく僕は僕のままだが、沖縄にいる間は常に神の気配を肌で感じた。沖縄の神は生々しい。体温がある。那覇の中心街だろうと基地の街だろうとやんばるの森だろうとそれは変わらなかった。
 那覇にいる間は民宿で借りた自転車で走り回り、人と会ったり出版社を訪ねたりした。ジュゴン保護団体ともそうして出会った。人から人への縁で半ば偶然につながった。ジュゴン? 知らなかった。沖縄の海にジュゴンがいることを初めて知った。
 それを皮切りに何度も沖縄に飛んだが行き先はもっぱら辺野古で、目的は辺野古の海に棲むジュゴンの保護活動だ。辺野古というのは普天間基地の移設先に目された土地で、当時は海上基地建設に先立つボーリング調査を実力で阻止しようと沖縄内外から人が集まり辺野古港で座り込みを続けていた。毎日やって来る防衛施設局の局員を追い返していた。初めのうち僕はジュゴンに対して何の思い入れもなく、実際に自分の目で見たわけでもないものに思い入れを抱けるわけがなく、たまに自分のしていることに違和感を抱いた。国と闘うのは楽しい。申し訳ないが楽しいものは楽しい。けれどなぜ自分が、と考えると必然性はないような気がした。沖縄のためジュゴンのためというのはきれい事で本当は自分のためで、つまり僕はそうやって沖縄とつながっていたかった。
 辺野古の近くに「ジュゴンの見える丘」と呼ばれる丘があり、でもその丘からジュゴンを見たという人は一人もなく、だから正確には「ジュゴンを見たい丘」だがそれはともかくジュゴンのいる海を一望できるのはたしかで、一週間そこに通い大学生といっしょに海を眺めジュゴンを探した。しかし地元の漁師でさえ滅多に見られないものを一週間かそこら頑張ったところで見られるわけがないのだ。見られたとすれば奇跡だ。奇跡を頼りに茫洋とした海を見続けるのは一種の信仰に近い。信じる者が救われるわけではないが信じながら眺める海は一日中でも飽きなかった。
 ジュゴンが見えたとか見えなかったとかいうのもどうでもよくなって、海を眺めていると海が自分の中に入ってくる感覚があり、それだけで心がいっぱいになった。ジュゴンが見られなくてもジュゴンがそこにいると信じられるだけで幸せだった。ある意味そういう心の働きこそ信仰なのだ。無神論者の信仰というものがあるのならその時の僕の心がそうだった。
 個人的には、なぜジュゴン保護活動を保護するのかというとジュゴンは神の使いだからだ(そういう伝説がある)。僕がそう言うと人はきょとんとする。ひどい場合は聞かなかったことにされる。たしかに論理的でない。論理的でないから説得力がない。日米政府を相手にしようというのに神を持ち出されても困る。もっともな話だ。
 けれど僕の論理では沖縄を沖縄たらしめるのはその風土であり、風土というものは(仮定の)神という精神的なものによって性格づけられているのだから神の使いのジュゴンが消滅すれば神の死につながる。神が死ねば沖縄も死んでしまう。沖縄が沖縄でなくなる。たとえ見た目はきれいだろうと死んだ海だ。もぬけの殻なのだ。
 そんなふうに何年か過ぎて、出版社も非力ではあるけれどなんとか活動は続いて、そうしているうち僕の書いた小説が新人賞を取るという大事件が起きて生活は一変した。すべてを捨てて作家生活に入った。
 二作目は沖縄を舞台に、ジュゴンの津波伝説を題材に取り上げ書き上げた。僕の沖縄体験を精一杯盛り込んだが政治的な部分はすべて削られた。書き直しに継ぐ書き直しで苦労したものの、出版してみると期待したほど評判にはならなかった。なぜだかわからなかった。それを境に僕はジュゴンから離れていった。その後結婚したこともあって日々の生活に追われる身となりジュゴン保護団体とも離れていった。青春が終わったと感じた。青春といっても、沖縄と東京を往復していた頃の僕は四十歳を過ぎていたのだけれど。

 それが昨年(二00九年)夏、ジュゴン保護団体から沖縄ツアーに参加しませんかという誘いの葉書があった。僕は作家として行き詰まっていた。沖縄の日々を思い返すと遠い昔に感じた。あの頃は若かったなあ、なんて。実際はほんの三、四年前なのに。
 ツアー初日。最近ジュゴンが現れたという古宇里島を見てから美ら海水族館に入った。何度も沖縄に来ていたが美ら海水族館に入るのは初めてだった。
 そこでマナティーを見た。大水槽のある本館とは別の、マナティー館というところに彼はいた。マナティーはジュゴンの親戚で見た目ほとんど同じだがどこが違うかというと尾びれの形が違う。ジュゴンは三日月形でマナティーは団扇形だ。
 美ら海水族館にマナティーがいると知らなかった。ジュゴンとの見分け方は知っているし、入り口に「マナティー館」としっかり書かれていて、それを見ていたはずなのにジュゴンと思い込んだ。
「ジュゴンがいたんですね」と僕は団体の東京支部長に話しかけ、彼が僕の間違いを聞き流し訂正しなかったので僕の思い込みはより強固になった。
 やっぱり、変な生き物だった。風船みたいに浮いたり沈んだりしていた。体長は三メートルくらい、灰色の肌をした、ずんぐりむっくりで、顔つきはというとどのクラスにも必ず一人はいた、愛想はいいけど鈍くさい、不器用で、愚直で、先生に指されると口ごもり、球技が苦手で、でも清掃は真面目で、生き方下手の、影は薄いのにいないと気になる、そんなタイプを彷彿させて、どこかで見た顔と思ったら宮沢賢治の風貌に似ていた。宮沢賢治に似た生き物がぬうぼうと水の中にいるのだった。
 僕はジュゴンを、その弱さにおいて好きなのだった。初めて沖縄に来た時、僕の心も相当弱っていたから。そして今も僕は相当弱っている。ジュゴンが絶滅危惧種なら純文学作家だって絶滅危惧種なのだ。
 水槽で泳ぐジュゴン(と、思い込みは続いていた)は、自分が絶滅危惧種だと知らない。もし仮に、ジュゴンの減数がこのまま進んで自分が世界で最後の一頭となったら、地球的規模の孤独を彼は本能で知るのだろうか。もし知るとすればどんな心境になるのだろう。それとも、種の絶滅も個体の死も本人にとっては違いはない、それだけのことだろうか。ジュゴンの中に入り込んで考える。水槽の外側から見たジュゴンはふわふわしたお化けみたいだが、水槽の内側から外を見た人間は幽霊みたいだ。
 こんなふうに考えるのは感傷だろうか。ジュゴンはジュゴンで人間は人間だ。けれどたとえば梅と桜は違う種類だけど同じ春という現象の一部であるように人間と他の動物も地球という現象の一部であって、視点を高くしていけば人間とジュゴンの境が消えてしまう高度は必ずある。それを仮に神の視点と言ってもいい。問題は神がいるかどうかではなく、そういう抽象的な視点を仮定できるかどうか想像力の問題なのだ。
 ジュゴンを探して丘の上から海を眺めていた日々が思い返されて、そのジュゴン(と、まだ思い込んでいる)が当たり前のように目の前を泳いでいる。繰り返し夢の中で見ていた相手とばったり現実で出会ったような妙な懐かしさで胸がいっぱいになり、しかしそれは同時に夢の終わりを示してもいて、少し寂しかった。
 外に出ると夕暮れで、いつの間にか雨が降っていて、灰色をした海の向こうに伊江島が煙って見えた。帰り道にガチャポンが置いてあり魚やなんかの模型を売っていて、ふだん僕はこういうのに手を出さないのだがこの時はおみくじ気分でためしてみた。出てきたのはウミガメの赤ちゃんが卵を割って生まれた場面だった。
「おみくじだと小吉ってとこかな」と僕は言った。
 ツアーに参加していた若い女性が「あ、かわいい」と言って自分もためしてみたら出てきたのはサメで、彼女は複雑な表情になった。
「いいじゃん、かっこいいじゃん」と僕は若者言葉で言ったが、たぶん慰めにはならなかったろう。

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