2010/07/15
にげみず【逃(げ)水】
夏の草原やアスファルト道路などで、遠くに水があるように見え、近づけば、遠退いて見える現象。
逃げ水については、あまり書くことがない。
子供の頃、逃げ水を見るのが好きだった。と、これだけで良さそうな気がする。
大人になった今でも好きだ。事情が許すなら、いつまでも眺めて、きっと見飽きない。
なぜ好きなのか、問われても困る。あれが蜃気楼だという知識くらいあるから、格別に不思議とは思わない。
たぶん、逃げ水という現象だけでなく、逃げ水が現れる状況、つまりかんかん照り、乾いたアスファルトの道、静かな気配、それに加えてぼうっと立っている自分もひっくるめて、全体が好きなのだと思う。
逃げ水を見ている時の自分は、だいたいぼうっとしている。暑さにやられてぼうっとした目に逃げ水が見えてくるのか、逃げ水に心を吸われてぼうっとしてしまうのか、どちらとも言えない。気がつくとぼうっとしている。
逃げ水が好きというより、逃げ水を眺めている時の、心がからっぽの状態が好きなのだろう。夏の光に炙られながら、遠い一点をじっと見つめていると、空気が希薄になり、景色が平板になり、物音が遠くなる。気を失いかける直前の感覚に近いものが、現れる。
今日も逃げ水を見た。
地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅を上がると、新宿通りと外苑東通りが交わる交差点に出る。交通量の多い新宿通りに比べると、神宮外苑に向かう外苑東通りの道はたいてい空いていて、真昼時となると、やたら幅の広い道がすっからかんになることもある。
朝方、その交差点の横断歩道を渡った時には、逃げ水はなかった。
正午を過ぎて陽射しがきつくなり、汗ばみながら、同じ横断歩道を逆向きに渡っていると、神宮外苑のほうから救急車のサイレンが聞こえてきて、振り向いたら、陽の照り返しで白っぽくなった道に、逃げ水が現れていた。警告灯の光を逃げ水に映しながら、救急車は逃げ水を踏んで走ってきた。
「おっ」と心の中で思う。思っただけで口には出さない。
「救急車が来る」と、いっしょに歩いていた同僚に見たままのことを言うが、逃げ水のことは黙っている。同僚も「そうだね」としか言わない。同僚の目に逃げ水が見えているのかわからないし、たしかめようとも思わない。
一般に人は逃げ水が見えてもそれを口にしない。なぜなのだろう。
たとえばこれが、砂漠の地平線に浮かぶオアシスだったり、水平線の浮島だったりしたら、きっと話題にする。なんとなく得した気分になるからだ。なのに同じ蜃気楼でも、逃げ水に関してはみな黙っている。見ていないような態度をとる。
ありふれた現象なのに、ことさら不思議がっているようで、大人げないと思われそうだからか。でも、子供の頃だって言わなかった気がする。なぜだか、口にしてはいけないような感じだった。
文芸作品にも、逃げ水はあまり出てこない。少なくとも私は読んだ記憶がない。「逃げ水」は夏の季語だが、逃げ水を詠んだ俳句にいいものがない。追いかければ逃げるだの、逃げ水にあの世が垣間見えるだの、たいてい陳腐だ。
夏の光の中で、目に見える風景が薄っぺらくなり、その中で逃げ水だけが妙にぎらぎらと、見ているこちらに切り込んでくる。あの鮮烈な感覚を、よけいな意味や象徴をともなわずに、そのまま取り出せないものか。
芥川龍之介に『蜃気楼』という小説がある。あれは海の蜃気楼を見に行く話だ。芥川の精神が相当病んでいた時期の作品で、たしか、人の無意識には何があるかわからないとかいう内容の、つかみどころがない、無気味な話だった。あの小説は好きだ。たぶん、海、という舞台がよかったのだろう。
見る、という行為は、ただ眼前の光景を見ているだけではなくて、脳に記憶されたいくつもの光景を重ね合わせて見ている。人は現在の光景を見ながら同時に、過去に見た光景も無意識に見てもいるらしい。
逃げ水を初めて意識的に見た時のことを覚えている。何歳だったかは忘れた。うんと小さい頃だ。道の遠くのほうに水たまりみたいなのがあって、自動車がどんどん、それを踏んで走り抜けていくのに、タイヤの濡れた様子がないのを変だと思いながら見ていた。そのうち消えてしまったのも不思議だった。
けれど不思議は不思議のままに受け入れて、あれは何だったのだろうと、深く考えはしなかった。それでなくても世界は不思議であふれていたから、ありのままを受け入れるので精一杯だった。
あれが逃げ水という、光の屈折で起こる現象だと知ったのは、小学校五、六年生の時だったと思う。友だちの家にあった図鑑を読んで知った。掲載されていた写真まで覚えている。
その頃、私は自転車でひとり、田舎道をあてもなく走るのが好きだった。
ある夏の日、海へ向かうゆるい坂道を下っていて、前方にちらちら逃げ水が見えだし、ブレーキをかけた。両側を田んぼにはさまれた長い一本道で、彼方まで車はおろか人影もない。じっくり観察したいという気を起こしたのだが、見ているうち、自分があそこに立ったらどう見えるだろうと好奇心が湧いた。それで自転車を走らせ、逃げ水が現れていたと思しき地点で立ち止まったが、当然、逃げ水は消えている。
自転車にまたがったままで、後ろをふり返った。さっき自分がいた地点に自分の視点を想定し、その目に自分がどう映っているか想像してみた。
自分が自分自身から遠くなったような気がした。なんだか、自分が自分自身から突き放されてしまったような感じだった。
でも、それは今だからこうして言葉にできるのであって、当時は何が自分を不安にさせるのかわからなかった。わからないまま、さっさとその場を離れたのだった。