2010/07/01
なきりゅう【鳴(き)竜】
壁・天井などに向かって手をたたいたりすると特有の反響を起こす現象。日光輪王寺の薬師堂のものが有名。
「竜が飛んでいる」と思ったのは、飛行機雲だった。
飛行機雲が珍しいわけではない。横田基地と厚木基地を結ぶ直線コースの真下にリュウの住む街はあるから、自衛隊のジェット機は頻繁に飛び、空に白い航跡を残していく。見慣れた景色だ。ただ、この日の飛行機は格別だった。
夕焼けの終わり。空は透明な藍色に染め上げられ、しかし山の端には埋み火のような夕焼けが残っていて、飛行機雲は夜の色に変わりゆく空の中で、夕陽の余光に照らされ赤々と燃えている。輪郭がぼやけて膨れ、風に吹かれて少々歪んでいるのも、竜らしかった。生き物めいて、力強くて、艶めかしくもあった。
暮れていく空に、竜が吠えている。次第に力を失いながらも、精一杯の咆吼を空に広げている。
「おい、竜。ぼくもリュウだ」
リュウは息を吸い込んだ。吠えたいくらいだ。ランドセルに立てたそろばんを鳴らしながら、新興住宅地の坂道をしゃかしゃか上った。リュウの家は丘の上にある。
リュウはそろばんが好きだ。ハマッテいると言っていい。学校の友だちはそろばんなんて時代遅れだと口をそろえるが、それは違う。友だちの電卓と計算競争をしたって負けない。0,1秒単位の戦い。そろばんの珠がぱちぱち火花を散らす。そろばんは数字の格闘技だ。ダイブし、キックし、投げ飛ばす。ゲームの敵キャラを倒すように数式をやっつけていく。そろばんはエキサイティングだ。
ネットで全国珠算競技大会の動画を見たのが始まりだった。上級者の指さばきは神業だった。TVゲームなんて目じゃなかった。
そろばんを習うとリュウが宣言した時、アニメオタクの両親は目を白黒させた。自分の子供がいきなり外国語を話し出したような顔だった。特に父は、息子を空手道場に通わせたかったので、無言のまま、頭の上に?マークを五つも六つも並べたものだ。
リュウの両親は『北斗の拳』にイカレていた。二人が出会ったのも『北斗の拳』のイベント会場だ。父の名は憲一郎で、母は由里。二人は「ケンシロウ」、「ユリヤ」と呼び合った。結婚してもそれは変えなかった。
ケンシロウは北斗真拳で悪者を懲らす世紀末の救世主で、ユリヤは彼の麗しき婚約者。名前こそ似ているものの、そこは現実の悲しさで、憲一郎は色白のやさ男、由里は小太りときている。それでも夢は夢として守り合い、生まれてきた子供に「リュウ」と名づけた。『北斗の拳』のリュウは、ケンシロウによって北斗真拳の次代後継者に選ばれた男だ。
両親は、リュウが片言をしゃべり始めた時から、自分たちをケンシロウ、ユリヤと呼ぶようしつけた。家の内でも外でも、パパ、ママとは呼ばせなかった。生まれてきた子を、自分たちの仲に加わった新しい友だちと考えていた。
両親はリュウに強くあれと願った。できれば格闘技を習わせたかった。しかしリュウ自身は、筋肉を鍛えるよりも頭脳を鍛えるほうが好きだった。だからそろばんを友とし、ちまちました計算の世界を自分の戦場に決めたのだ。
塾帰りだった。ランドセルには五級の合格証書が入っていた。今日、塾で先生から手渡された。合格は前から知っていたし、進級のお祝いもすんでいるが、合格証書をもらうと実感が違う。自分がひと回り大きくなった気がする。
「やったな!」と、そろばんが背中でしゃかしゃか騒ぐ。自然、足も速まる。自宅の真下まで来ると坂道から外れ、リュウは近道になる長い階段を勇んで駆け上がった。
玄関のドアを開け、靴を脱ぎ捨ててすぐ、リュウはぎすぎすした空気を肌で感じた。高ぶっていた胸が一気にすくんだ。
「ただいま、ユリヤ」声まで沈んでしまう。
ぎすぎすした空気の中にユリヤがいた。腕組みし、難しい顔で天井をにらんでいた。
「お帰り、リュウ」ユリヤはリュウを見向きもしない。
スーパーの買い物袋が食料を入れたままテーブルに置いてある。ぐたっとした袋から、ネギ。白ネギが突き出ている。
「ケンシロウ、いるの?」リュウは天井を見上げた。悪い予感がした。
「いるってゆうか、引きこもってんの」
「またぁ?」
「またなんて言わないでよ。今度のは重症かも」
ユリヤの目は天井を突き抜け屋根裏部屋を見ている。ケンシロウの書斎兼寝室。建て売り住宅の天井裏をケンシロウが日曜大工で改造した。『北斗の拳』のグッズやフィギュアであふれたそこは、いわばケンシロウの聖域だ。
リュウは椅子に腰かけ、買い物袋に指をかけ中身をのぞいた。
「今日、塾で五級の合格証書もらった。見る?」
「入り口に鍵かけちゃって。いくら呼んでもうんともすんとも言わない」
「あ、レーズンパイ。食べていい?」
ユリヤはいきなり両手を打ち鳴らした。ぱあんとリビングに音がはじけた。
リュウは肩をすくめた。天井でごとごと音がした。
白い天井に二つの赤黒い染み。以前、ケンシロウが屋根裏部屋で酔っぱらい、赤ワインをこぼして作った跡だ。その二点を両眼に見立てれば、天井に竜が浮き出てくる。雲を割って恐ろしい顔を突き出し、リュウを見下ろす。
ユリヤの柏手が竜を召喚した。まるで鳴き竜だ。
鳴き竜。遠足で見たことがある。お寺の天井に巨大な竜の絵があった。手を叩くと音が反響し、竜がうわんうわん鳴いたのだ。あれと同じだ。
ユリヤに続き、リュウも手を叩いた。
「やめなさい」ユリヤが叱った。「遊びじゃないんだよ」
「遊んでないよ」
「ケンシロウにはそう聞こえるの」
ケンシロウの足音がした。見えない竜が胴をくねらせ、天井をのたうっていた。
夕食の仕度ができても、ケンシロウは引きこもっていた。ためしにリュウは、ケンシロウの携帯電話に電話をかけてみた。ソファの上で呼び出し音が鳴った。
屋根裏部屋の出入り口は天井の一角に四角く切ってある。扉の留め金に鈎付き棒を引っ掛ければ、扉が開いてアルミの梯子がメカニックな音を立てて飛び出す仕掛けだ。秘密基地のゲートらしい見事な装置で、鍵さえかければ難攻不落だ。
ユリヤは鈎付き棒を手に、なんとか扉をこじ開けようとがちゃがちゃいわせたが、首や腕が疲れるばかりで、おまけにホコリが目に入った。
「ああもう」ユリヤは鈎付き棒を投げだし目をこすった。完全に腐っていた。
「今度はぼく、やってみようか」リュウは腰を上げかけた。
「いいよもう。お腹がすいたら下りてくるでしょ」
ユリヤはケンシロウのぶんの食料もテーブルに並べた。リュウはケンシロウのご飯茶碗を箸でちんちん鳴らした。「やめなさい」ユリヤは叱った。「仏さまじゃないんだから」
「今日、塾で合格証書をもらったんだよ」
「ああ、そうだったわね。後でちょうだい。額に入れておくから」
「今日、五級の合格証書もらった」リュウは天井に向けて声を張り上げた。
天井は沈黙していた。ケンシロウの気配だけが重かった。
「仕事がうまくいってないの。先月に引き続き今月も売り上げゼロだって。不景気だし、世の中全体が自動車離れだし。新車が売れないのは当然って言えば当然」
ユリヤは箸を持った手でテーブルに肘をついている。給食で同じことをすると先生は叱る。先生に叱られることをユリヤはしている。そう言おうかどうか迷って、リュウは口をつぐんだ。
「いまの若い人ってわかんないなあ。あたしが若い時なんか、自動車がない人とはデートしなかったもん。電車でデートだなんて言われたら涙が出た」
「ケンシロウはなんて車に乗ってたの?」
「真っ赤なフェアレディ。暴走族だって振り切ったのよ。あたし、暴走族の頭に投げキッスをしてやったんだから。すごいでしょ」
ケンシロウは大学を卒業して不動産会社に就職した。地価が高騰していた時代で、面白いように土地が売れた。地価が頭打ちになるとゴルフ会員権を売る会社に転職した。景気は下降していたが、口八丁で売りさばいた。その会社が検察に睨まれていると知り、慌てて退職した直後に会長が詐欺容疑で逮捕された。次に就職したのが現在の自動車販売会社だ。ユリヤと知り合ったのもその頃だった。
ユリヤにとってケンシロウは王子様だった。三十代前半で大金持ちだった。ローンも組まずに新築の家を購入した。そんな人と結婚したのは、女子大の同級生でユリヤだけだった。なのに今、ケンシロウは仕事に行き詰まりウツ状態だ。少なくなった収入の埋め合わせに、ユリヤはパートの仕事を始めた。
「当分は友だちを家に連れてこないでよ。わかってるわね」ユリヤは言った。
ユリヤは五級の合格証書を、六級に重ねて額に入れ、リュウの部屋の壁にかけた。
「ケンシロウ。ちょっと下りて見に来なさいよ。リュウの合格証書を飾ったのよ」
ユリヤは天井に向けて声を張り上げた。反応はなかった。
彼らの家は、一階にガレージと、コミックばかりの書庫があり、二階にリビングとキッチン、リュウの部屋とユリヤの部屋がある。リュウの部屋は、元はケンシロウの部屋だった。リュウが小学校に上がるとケンシロウは部屋をゆずり、屋根裏に自分の居場所を移したのだ。まさか、その時から引きこもりを想定していたわけでもないだろうけど。
「ねえ、いつまでいじけてんのよ」深夜、ユリヤの怒鳴り声でリュウは目が覚めた。自分が叱られているように、リュウは縮こまり毛布の端を握った。
「不景気なんだから車が売れないのは仕方ないじゃない。あんたのせいじゃないわよ。あたし、あんたを責めた? お金のことで愚痴こぼした? ないでしょ。あんたがそうやってるから家の中が暗いの。空気が重いの。あたしもう耐えらんない。明日も休みたいなら休んでいいから。あたしが会社に電話しとくから。でもね、有給とるなら病院で診断書もらわないと。どの病院に行けばいい? あたし付き添うから。ケンシロウがどの病院にするか決めてよ。いい? 自分で決めてよ」
病院って? 精神科?
翌朝になっても状況は変わらなかった。天井にケンシロウがいると思うだけで朝食が暗くなった。ユリヤは箸を休めては溜め息を吐いた。溜め息は空中で無数のトゲに変わり、リュウの手元に降り注いだ。リュウも、うんざりした。
夕方、学校から帰っても同じだった。ケンシロウは屋根裏部屋から下りずに、病院にも行かなかった。
「お腹すかないのかな」
「あたしがパートに出てる間にこそこそ食べてるのよ。冷蔵庫の食料、減ってるもん」ユリヤは答えた。「トイレは、そうね。簡易トイレにしてるのかも。ほら、リュウも使ったことあるでしょ。車が渋滞した時の緊急用で、袋にするやつ。いやだ、食事中なのに思い出しちゃった」ユリヤは眉間に皺を立てて笑った。
「ぼくが空手習わなかったから、こうなっちゃったのかな」
学校にいる間に、ふとそう思ったのだ。
「バカね、関係ないじゃん」ユリヤは言った。そして天井を見上げ、「リュウがね、自分のせいじゃないかって悩んでるわよ」大声を出した。
リュウはびっくりしてスープをこぼした。こんなこと、いつまで続くんだろ。
五日たっても、ケンシロウは屋根裏部屋から出てこなかった。姿は見えないのに、家中がケンシロウの気配で満ちていた。家自体が、頭痛でずきずきしてるみたいだ。
天井の染みが竜の目となり、いつでもリュウたちを見下ろしていた。竜の目は恨んでいた。リュウたちを責めていた。ぼくらの何がいけないんだろう。リュウは考えた。リュウを嫌っているのかもしれない。あるいは、家族というかたちそのものを。
家族が壊れかけてきた。その日、学校から帰るとテーブルに宅配ピザや寿司やうな丼のチラシが載っていた。携帯電話が鳴り、出てみると、ユリヤからだった。
「一階の書庫にいるのよ」ユリヤはふて腐れていた。「あたしも引きこもるから。夕ご飯は宅配好きなの頼んで勝手に食べていいから。お財布のある場所、知ってるよね。あたしだけ損してるみたいで、もう嫌なの。泣きたいくらい」
泣きたいのはこっちだ。リュウは電話に吠えた。地団駄踏んで吠えまくった。しかし、電話が切れてしまえば虚しいだけだった。ピザをとって食べた。泥の味がした。
もっとも、ユリヤの引きこもりは半日も続かなかった。「ごめんね」と言って、翌朝には書庫を出て、朝食の仕度をしていた。「あたしはもう大丈夫。あたしまで病んじゃったら、リュウひとりぼっちだもんね」そう言ってリュウを抱きしめた。
ユリヤに抱きしめられるのは何年ぶりだろう。けれど、温かい抱擁ではなかった。息苦しいだけだった。ユリヤはぼくを抱きしめているのではなくて、自分の寂しさを抱きしめているんだ。リュウはそう感じた。
夜になって外に出てみると、屋根から突き出した明かり取りの窓に光がともっているのが見えた。屋根裏部屋の光だ。「あっ、あそこにいるんだ」と、いるのはわかっているのに、光を見ると安心した。物音は気配だけど、光は生命だ。光を見ていると、まだ間に合いそうな気がした。
そうか、ケンシロウに会いたいなら屋根に上ればいいんだ。
リュウはひらめいた。
問題はどうやって屋根に上るかで、ざっと見たところ取っ掛かりになりそうなものはない。電柱も離れている。どう見ても、隣の屋根から飛び移るしかない。隣の屋根に上るにはそのまた隣の屋根に上るしかなく、そこへは坂道の上から飛び移るしかない。
本当にできるか。転げ落ちたら死ぬぞ。でも、それしか手段がないならやるしかない。
翌日、リュウは計画を実行した。一番目の屋根。これは簡単だった。崖崩れ防止のフェンスから車庫の屋根に移り、家の屋根によじ上ればよかった。二番目の屋根。あまり離れてはいないが、つるつるした瓦の屋根で怖かった。瓦を割ったり落としたり、自分が足を滑らせて落っこちる危険もある。しかし、ここまで来たら引き返せない。思い切って飛んだ。足が滑ったが、かろうじて雨樋につま先を引っかけた。
三番目が目指す屋根だ。最も離れている上に、瓦屋根で助走をつけると大きな音がして家の人に気づかれる怖れがある。かといって、一足飛びで飛び移れる自信もない。地上にはスチールのフェンスがあり、落ちれば間違いなく複雑骨折だ。
自衛隊のジェット機が飛んできた。はるか上空なのに爆音が激しく、ソニック・ブームで空気がびりびり震える。この音を利用しよう。リュウは屋根の頂上に上った。ジェット機が上空を通過する瞬間を狙い、音が立つのもかまわず一気に瓦屋根を駆け下り加速をつけて空中に飛んだ。
成功。リュウの家はスレートの屋根だ。蛙のかっこうで屋根にへばりつき、リュウは首を上げた。ひと筋の雲を鋭く引いてジェット機は彼方の空へ飛んで行った。
明かり取りの窓を叩いた。ベッドに寝そべっていたケモノのようなものが、むっくり頭をもたげた。リュウは目を疑い、たじろいだ。ケンシロウはまるで別人だった。生気が抜けると、こんなにも人相は変わるものか。いや、人相ですらない。のっぺらぼうに目鼻口を描いた、出来の悪いラバーマスクだ。こいつは本当に父だろうか。別人の変装じゃないのか。父と認めたくない。リュウは逃げ出したくなった。
表情のない目に力が入り、ぐぐっと寄り目になった。それが驚きの表現らしかった。
ケンシロウはのそのそと這い寄り、窓を開けた。一週間分の無精髭が眼前に迫って、思わずリュウは首を引いた。物が腐ったような異臭がケンシロウの体から漂ってきた。
「どうしてここにいる」抑揚のない声でケンシロウは言った。
「会いに来たんだ。話をしたかったから」
「元気だったか」
「まあね。なんとかやってる」
「ユリヤは」
「ちょっとやばいかも」
「そうか」
ケンシロウは窓枠に顎を載せて目を閉じた。これだけ話すのも、やっとの感じだった。
「ぼく、そろばんをやめるよ。空手の道場に通う。それでいいだろ」リュウは言った。
「何の話だ」
「ケンシロウは、ぼくが空手をやらずに、そろばんなんて始めちゃったから、がっかりして生きる気がなくなったんだろ。だったらいいよ。ケンシロウの望みどおりにする。体を鍛えて強くなるから」
しばらく、ケンシロウは沈黙していたが、唐突に「リュウはカツアゲってされたことがあるか」と訊いた。「ううん」と、リュウは首を振った。「ケンシロウはある?」
「しょっちゅう。中学と高校時代な。おれは体が弱かったから。拒めば殴られ、チクるともっと殴られ。弱いからだ。強くなればな。そのためには金。いや、ちがうな。金が力だ。大人になれば腕力なんていらない。金のあるやつが強い」
ケンシロウはそこで言葉を切り、ひと休みした。「でも、大人になっておれのしたことって、年寄りや弱い者をいじめたり、だましたりで、金をかせぐことだ。カツアゲよりひどいや。おれがこんなになったのは当然だ。報いだ。誰かに秘孔を突かれた。七年殺し。もっと前かな。誰だろう。いまごろ利いてきた」
「死ぬの?」
「先のことはわからん。しかしな、人間いつか死ぬ。どう生きようが死ぬまでの間だ。強いも弱いもない。正しいも悪いも。あるのは好きか嫌いか、それだけ。リュウは、自分が好きと思うことをしろ。それがいちばんいい」
それからは、二人して黙った。黙って、飛行機雲を眺めた。
飛行機雲は逞しかった。希望なんてなくても生きていける。そう思わせる姿だった。
ケンシロウの引きこもりは続いた。
十三日目。夕方になってもユリヤがパートから帰ってこなかった。
何があったのだろう。胸騒ぎを抑えながら待っていると、家の電話が鳴った。ユリヤからだ。声が震えていた。感情を押し殺しながら、どこか切羽詰まっていた。
「リュウ? お母さんよ」お母さん? ユリヤが口にすると、珍妙な言葉に聞こえる。
「いまどこ? いつ帰ってくる?」尋ねても、要領を得ない。
「お父さんを出してちょうだい」お父さん? お父さんって?
「無理だよ。知ってるだろ」
「いいから出して。無理でも引っ張り出して。お父さんでなきゃ駄目なの、早くして」
「わかった。やってみる。でもすぐは無理だよ」
「じゃあ、いい。伝言頼むわ。お母さんはいま、駅前の鈴成スーパーにいます。そこの事務所に来て下さい。いいわね。なるだけ早くしてよ」
電話は切れた。何が起きたのだろう。でも、困っていたことは確かだ。
リュウは柏手を叩いた。竜を召喚するために。何度も何度も叩いた。やっと、鳴き竜がどすどす鳴った。けれど、それきりだった。リュウが叫んでも、喚いても、応答はなかった。ユリヤの一大事だ、と怒鳴った。さらわれて監禁されてる、と嘘をついた。今すぐ鈴成スーパーに行かないと殺されちゃう。応答なし。励まし、罵り、金切り声を上げ、応答がないと、仕方なしにリュウは自分で鈴成スーパーへ出かけた。
ユリヤはスーパーの事務室でしょぼくれていた。テーブルの中央に細かいお菓子が積まれていた。駄菓子ばかりだ。ユリヤの正面には水色のジャケットを着た女の人がいる。部屋の隅には、スーパーのエプロンを付けた男の人。なんだか、前に見たことがある。そうだ、テレビで見た。「万引きGメンの事件簿」。あれそっくりだ。
ユリヤはリュウを見るなり、驚いて首をそむけた。怒りと悲しみで肩がふるえていた。
万引きGメン、だろうか。女の人も、リュウを見て困惑していた。
「息子さんですか?」Gメンがユリヤに尋ねた。ユリヤは首を横に振った。激しく。
「この人は、お母さん?」今度はリュウに尋ねた。リュウはうなずいた。
「奥さん、息子さんがお迎えに来ましたよ」Gメンは皮肉っぽく話しかけた。「息子さんがあなたの身元引受人ですか? 子供が身元引受人とは、ちょっと困りましたねえ」
「父は病気なんです。起き上がれないから、代わりにぼくが来ました。ぼくじゃ駄目ですか」リュウは言った。
「坊やは小学生だね」隅に立っていた男の人がにこりとした。作り笑顔は醜い。嫌いだ。
「坊やじゃありません」声に、敵意がこもった。「この人の息子です」
「お母さんが何をしたか、想像つくわね」Gメンがリュウを見据えた。「はっきり言って犯罪よ。身元引受人は、犯罪者に責任を持てる人でないといけません」
「難しいことはわかりません。でも家族です」
家族、という言葉が、自分でも意外なくらい、強く胸に響いた。犯罪者だろうと悪人だろうと知ったこっちゃない。家族なら守らなくちゃならない。そのために来たんだ。
「しっかりした息子さんじゃないですか。奥さん、こんな立派な息子さんに恥をかかせちゃいけませんよ」男の人が言った。
ユリヤは背中を丸めて小さくなった。こんなに弱い母を見るのは初めてだった。
あらかじめ用意してあった宣誓書に、リュウはユリヤと連名でサインし、拇印を押した。
上下に並んだ真っ赤な指紋を見て、まるで共犯者だ、とリュウは思った。でも、これは絆だ。共犯の絆が、ぼくたち親子の絆なんだ。
「帰ろう、ユリヤ」リュウは言った。
「ユリヤ?」Gメンが冷笑的な笑みを浮かべた。「お母さんをそう呼んでるの?」
「ええ。お母さんの名前ですから」リュウは答えた。
帰り道、ユリヤはずっと黙っていたが、人通りの少ない道まで来ると突然泣き出した。むしゃくしゃしてつい万引きしてしまったこと。子供の時から盗み癖があったこと。でも結婚してからはずっとしていなかったことを、泣きながら告白した。
泣きじゃくるユリヤの手を引いて歩いた。通りすがりの人が変な目で二人を見た。
見るなら見ろ。リュウは心で叫んだ。もっと見ろ。これがぼくたち親子だ。
自宅のある丘の下まで来て、坂道をよたよたと下りてくるケンシロウを見つけた。
スーツ姿だが、ワイシャツの裾がはみ出していたり、ネクタイの結び目がおかしかったり、スラックスなのにスニーカーを履いていたり、生まれて初めてスーツを着たホームレスみたいだ。一歩ごとに体が揺れて、今にも膝から崩れそうで、それでも、一生懸命に歩いていた。
「今頃迎えに来たって遅いよ」リュウは手を振った。ケンシロウは手を振り返した。
「かっこ悪いケンシロウ」ユリヤは泣きながら笑った。「弱っちいね」
「人間って、ちょっと弱いくらいがちょうどいいんだと思うよ」リュウは言った。
バス停まで来て、ケンシロウはベンチに倒れ込んだ。顔が白い。二百メートルもない距離なのに、精も根も尽き果てたような顔だ。しかし、その顔には表情が戻っていた。
「すまん。なかなか起き上がれなくて」ケンシロウは詫びた。
「謝るのはあたしだよ」ユリヤはケンシロウの横に座り、背中を撫でた。「リュウがね、助けに来てくれたんだよ」
「おれも、リュウのおかげで屋根裏から抜け出せた」
はは、と笑った。苦しみから絞り出すような笑いだった。でも本物の笑いだ。
みっともない家族だ。でも、許し合えるから家族なんだ。人間は、みっともなさでつながることだってできるんだ。
三人で手をつなぎ、長い坂道をゆっくりと上った。飛行機雲の消え残りが空に浮かび、夕陽を浴びていた。竜が空に帰っていく姿に、リュウの目には映った。