2010/02/15
セイウチ
オットセイに似た、大型の海獣。北極海に群棲する。太くてあらい、あごひげと長い二本の牙を持つ。肉・脂肪・牙が利用される。〔セイウチ科〕。普通、{海象}・{海馬}と書く。
かわいた銃声が静寂をつらぬき、女房のひとりが血を吹いた。おれのすぐ横で。
途端。他の女房たちは慌てふためき、先を争いばたばた海へ飛び込んでいく。撃たれた女房も、のたうち這い回り転げながら海へ逃れた。瞬く間、氷山の上におれひとり残されて。主であるおれが。
何が起きたのかって、確かめるまでもない。ああ、迂闊(うかつ)だったね。人間だ。ライフルをこっちに向けている。カヤックを海に浮かべて。おい、いつからそこにいたんだ?
威厳たっぷりに首をもたげ、背を反らし、牙を見せつけてやる。すなわちそれが、礼儀ってものさ。ホッキョクグマだって敬意を示すのだ、おれの牙には。
まあもっとも、礼儀の通用する相手ではないからな、人間は。
二発目の銃弾がおれの首をかすめる。目の中で風景がひずむ。白金の太陽が水平線にバウンドして。痛くない、と言ったら嘘になる。現にこうして氷に血を撒き散らしているのだから。しかしおれくらい長生きすると、生半可な痛みではうろたえたりしないものだ。それどころか、痛がっているのはおれか、おれが乗っかってるこの氷山か、海か、空か、太陽か、はたまたそれらぜんぶか、区別がつかなくなるものだ。
おふくろが死んだのはちょっとした事故が元だったが、あの時、本当に痛がっていたのはオーロラだった。おふくろが自分で言ったのだから間違いない。坊や、ごらん。オーロラが痛い痛いって悲鳴をあげてる。
おふくろが死んでからおれは常にひもじかったが、おれがひもじいと宇宙ぜんたいがひもじいと泣いた。
何百年も何千年も生きた気がする。ひょっとすると百万年かもしれない。
なにしろおれは自分の誕生の時を憶えていないのだから、記憶は時間を無限にさかのぼれる。長い人生の中で俺が囲った女房の数は数え切れないし、彼女らが産んだ子供の数となると、さらに計り知れない。
岬の海岸をびっしり埋め尽くして寝そべる群れを見るたび呆れたものだ。なにせ、何百頭とひしめくこれすべて、おれの子供で、子供の子供で、子供の子供の子供ときている。これだけ大勢で暮らしていると、おれが誰だろうと構わなくなる。たとえばおれがおれでなく横にいるこいつだろうと。おれがおれでなければならない理由がない。あいつでもこいつでもそいつでも、誰でもいい。おれなんてものは無いも同然だ。たとえ、本当のところおれの血を引いてる子孫が群れのほんの一部だったとしてもだ。それは大した問題じゃない。
おれってやつは謎だ。群れを離れてから、おれとは誰なのだと、ずっと考えてきた。おれはおれであり、おれを乗せた氷山であり、氷山を浮かべた海であり、空であり太陽であり星であり、おれを狙う人間でありおれに死を与える。なにもかもがおれの中にある。結局のところ、おれという謎は宇宙の謎でもあるのだ。
何をぼんやり考え込んでる。三発目の銃弾がおれの胸に穴を開けた。まいったね。こいつは効いた。
人間がライフルを銛に持ち替えた。あの銛を食らったら最後、もう逃げられないんだ。ひと声、吠えてやる。くそう、鼻息まで血しぶき混じりだ。
飛んできた銛をかわし、どうにか海へ飛び込んだはいいが、それから先がどうにもならん。体ぜんたい痺れて、おれはおれの重みで沈んでいく。見上げれば海面の鈍い輝きにカヤックの舟底が黒く浮かんで。ぽっかりと、穴みてえに。
おれの女房たちが見送ってくれる。ありがとうよ。それが礼儀ってもんだ。けれどここまででいい。海の色がどんどん暗くなっていく。こっから先はおれだって潜ったことがないんだ。あばよ、いとしい女房たち。もうなんにも見えねえや。ああ、水圧で肺がちぢむ。でも変だな。初めてって気がしない。初めてなのに馴染みがあるのはなぜだ。思い出せよ。忘れた思い出も思い出のうちだぜ。こんなさびしい海の底がどうしてこんなに懐かしいんだ。おれはこの暗さから生まれてきたんじゃなかったっけ。
クジラの歌が聞こえる。もう痛くもねえや。
なにか思い出せそうな気がする。なんだっけな。何を思い出そうとしてたんだっけ。
そいつを思い出せばきっとおれの謎も解けるし宇宙の謎も解けそうな気がするんだが。
たとえばおれがなぜいるのかってことや、宇宙がなぜあるのかってことや。
でももう遅い。暗い水におれの生きてきた時間が溶けていく。
それに、わかったところでいまさら、どうにもなりやしない。