2010/01/24
すいみつ【水蜜】
〔水蜜桃〕水けが多くて甘味の強いモモ。実は先が平たくて、白いものが多い。
いもうとが、玄関でおばあちゃんを呼んだ。空気がびりびり裂けるくらいの甲高い声。
おばあちゃんは畑に出ている。
わたしは縁側でサヤエンドウのすじを抜いていた。
田舎の家に来てからいもうとは、誰が訪ねてきても力いっぱいの大声で人を呼ぶ。まったく、声だけ聞いてると、ひとごろしがやって来たみたいだ。
玄関に行ってみると、宅急便のお兄さんが小荷物を抱えて土間に立っていた。ガラス戸の向こうにクール宅急便の車が見えた。こんな田舎にもクール宅急便は来るんだ。そんな当たり前のことが、わたしには驚きだった。
「モモ、モモ」
いもうとは息を弾ませ、小荷物の包み紙の絵柄を指差し、わたしを見る。
お中元? ほんとだね、桃の絵だ。
いもうとは頭の弱い子みたいにすぐ興奮する。わたしはいつもいらいらさせられる。汚れた素足に。シミのついたスカートに。ぜんたいのおしっこくささに。田舎の家にいるといもうとは本当に田舎の子みたいだ。
「これはね、おばあちゃんに来たの。わたしたちのじゃないの」
けれど、伝票を見ると差出人は母になっていた。母が送ってくれた桃だ。
「ここに」宅急便のお兄さんが伝票の隅のほうを指さす。「印鑑かサインを」
わたしはハンコのありかを知らない。だからおばあちゃんの名字でサインをする。
おばあちゃんの名字は、母の旧姓。母はもうすぐ旧姓に戻る。いもうともいっしょに。そうなればもう「旧姓」とは言わない。そのまま母の、いもうとの、名字。わたしの名字はいまのまま変わらない。いずれ、わたしだけが、この家の他人になる。
桃を詰めた箱は、両腕にずっしり重かった。いもうとはわたしの後をついて来る。まだ字の読めないいもうとに、これが母からの贈り物だとは黙っていた。言えば、すかさず包み紙を破くだろう。桃を詰めた箱を台所に運んで、「これはおばあちゃんのだからね」と何度も釘をさした。なにかしら勘が働くのだろうか。いもうとは変にうきうきして、台所の床を踏み鳴らし、小躍りしている。森の小人みたいにテーブルのまわりで跳ねる。
「お庭で遊ぼうか」
いもうとの手を取って外に出た。庭の隅で、大きな石をひとつ選んでひっくり返してやる。乾いた石の裏は黒く湿って、腐った土の臭いがむんと湧き上がる。黒い土からわらわら、こまかい虫が這い出てくる。ダンゴムシ、ムカデ、ハサミムシ、イモムシ。それらみんな、いもうとの友だちだ。指でつついたり、つまんだり、いもうとはすぐ無心になる。いもうとはダンゴムシに似ている。てのひらで丸まったダンゴムシを見つめるとき、いもうとは自分を見つめているのだ、と思う。わたしはいもうとを見守りながら、縁側にすわって、サヤエンドウのすじをまた抜き始める。
こないだ生まれてきたと思ったら、いもうとと、もう別れ別れだ。
先週のこと。「エリカはどっちにつきたい」と母に訊かれて「お父さん」と答えた。
わたしの即答ぶりに母は傷ついたみたいだった。
だって考えてみてよ。いもうとはお母さんが引き取るって、もう決まってるんでしょ。わたしまでお母さん、引き取れる? そんな経済力、ある? わたしにも夢はあるのよ。みすみす貧乏なんてしたくない。したくない、と言い切って、母を泣かせた。
母はずるい。先に泣いたほうが勝ちなのだ。泣かせたほうはわるものになる。わたしだって泣きたいのに。
新しい家と仕事を見つけるまで、母はいもうとをおばあちゃんの家にあずけることにした。ちょうど夏休みだったから、わたしはいもうとの面倒をみるため付いていったのだ。
「母親がわりになってね」と母に言われて、わたしは母をにくんだ。お母さん、かってに家庭を壊しておいて、よくそんなことが言えるね。
四日前、いもうととふたり、おばあちゃんの田舎でバスを降りた。土の道だった。青空にトンビが輪を描いていた。
「ヒロミ、ヒロミ」わたしはいもうとの手を引いた。「ほら、ワシ。ヒロミはちっちゃいから、ワシにさらわれちゃうかもしれないね」
いもうとはわたしの嘘におびえた。テレビアニメに、そういう場面があったのだ。わたしはトンビのかぎ爪に背中をつかまれ、大空に連れ去られていくいもうとを思った。
おばあちゃんの家では、もらい物はまず仏壇にお供えする。お寺を小さくしたような立派な仏壇だ。仏壇の前に桃の箱を置き、線香を立て、チンと鉦を鳴らす。手を合わせるおばあちゃんの後ろで、わたしといもうとも手を合わせる。桃の箱に「食べ頃は八日×日」とシールが貼ってあったから、少なくとも五日間はそのままだ。
「仏さまが先に召し上がって」おばあちゃんがいもうとにそう話す。「わたしらはその押お裾分けをいただくの」
同じことをわたしも小さいころ聞いた。死んだ人がくだものやお菓子を食べるってどういうことだろう。不思議だった。死んだ人がくだものやお菓子を食べても、減らない。減った様子はない。少なくとも見た目は。死んだ人はくだものやお菓子の、なにを食べるのだろう。
「仏さまに召し上がっていただくと、食べ物はおいしくなるから」
おばあちゃんはそう言って、すいと、桃の箱を前に押しやる。
「腐ったりしない?」わたしが言う。
「腐る手前くらいで食べるのがいちばんおいしいんだ」おばあちゃんは言う。
仏壇にまつってある死んだ人のなかで、いちばん若い人は、母の兄だ。わたしには伯父さんにあたる。でも写真に映っている人はわたしと同じくらいの男の子なので、伯父さんという気はあまりしない。台風の日に川に落ちて死んだという。わたしは母親に似てないけど、この男の子には似ている気がする。生きていたら仲良くなれたかもしれない。でも生きていたらそのぶん歳をとるわけだから、写真の中の男の子とわたしが仲良く遊んでいるのを想像するのはおかしい。こういうのを矛盾、という。
桃が母からの贈り物だと聞いても、いもうとはいまひとつぴんと来ないようだった。
「お母しゃん?」と、手を合わせたまま首をめぐらしても、母はいない。ここにいない人と、目の前の桃が結びつかない。結びつくにはまだ、頭が足りない。
桃でさえそうなのだから、夏休みが終われば家族がばらばらになるなんて、どんなに説明したって、きっとわからない。だから黙っている。
夏が過ぎればセミがいなくなったり花が枯れたりするように、わたしがいなくなる。最初は戸惑うだろうし寂しがるかもしれないけど、じきに馴れる。忘れていく。それでいいんだと思う。
桃が食べ頃になるまでの五日間、いもうとはなんとなく仏壇を気にしていて、朝起きれば、お供えのご飯やお茶を取り替えるのを積極的に手伝う。昼間の変な時間に鉦の音が聞こえて、座敷をのぞいてみるといもうとが神妙な顔で手を合わせてたりする。
庭でひとり遊びをしていても、不意に思い出すのか、わたしをふり返って「きょうはモモ、食べれる?」なんて唐突に訊いたりもする。いもうとは桃を特別に好きなわけではないのに。おあずけされているぶん期待がふくらんで、気になって仕方がないのだ。
いもうとの期待はわたしにも伝染した。たとえば、いもうとを連れて川べりを散歩し、滝を見に行ったときも、水飛沫をあびながら、なんとなく桃のことを考えていた。いまこうしている間にも桃は仏壇の前にある。それが不思議なことに思えた。なんだか、桃が世界の中心になったみたいだった。
わたしは桃のなかを流れていく時間を思った。ゆっくりと桃を腐らせていく時間を。
ようやく五日が過ぎ、箱を開けてみると、おが屑みたいな緩衝材の中で、桃はやわらかい網に包まれて、ふうわりおさまっていた。繭みたいだ。手押しポンプで井戸水をサラダボウルに汲み出し、桃を浮かべて冷やした。桃は浮く。ためしに指でぐいと押して沈めても、指をはなせばすいと浮いてくる。生きているみたいだ、と思った。毛羽だった表皮が水をはじいて濡れた感じがあまりしないのも、不思議だった。
いもうととふたり、好きな桃を手にとって、縁側に並んだ。
包丁を使わずに、指で桃の皮を剥く。爪を立てて表皮を引っ掻き、切れ目を入れて、そろりそろり、剥いていく。その下からみずみずしい果肉が現れる。じゅるっとかじると、果汁が顎を濡らしていく。やわらかくて、甘味が口いっぱいに広がっていく。頭の中にまで果汁は染み込んでいく。
いもうとは不器用で、うまく皮を剥けない。あまり強く桃をにぎるから、表皮がへこんでぼこぼこになる。わたしが手伝おうとしても、桃を手放そうとしない。とうとう業を煮やして、ほんの少し剥き出した果肉にくちびるを当て、じゅるじゅる、じゅるじゅる、果汁を吸っていく。ぽたぽた、ぽたぽた、果汁はスカートの上にもしたたり落ちる。
「ヒロミ、昆虫みたいだ」
一心不乱のいもうとに、わたしは笑う。
仏壇にお供えした五日の間に、死んだ人が桃の中に忍び込んだようなような気がする。
都会の庭とちがって、田舎の庭はいろんなものを吸い込んでいく。日差しや、セミの声や、人の影や、夕立。そして、桃の汁。それらが、土の中に染み込んでいる。母の兄の記憶も、きっと染み込んでいる。わたしたちのことも、染み込むだろうか。そう考えると泣きたくなった。
いもうとの手を引いて庭に下り、桃の種をふたつ、ならべて庭の隅に埋めた。
「いい、憶えておいて。この場所に種を植えたからね。うまいこと木が生えて、実がなったら、好きなだけ桃を食べられるんだよ」
いもうとは興奮して息を荒くした。でもきっと、すぐに忘れるんだと思う。
わたしだって、たぶん、もうこの家に来ない。桃の種のことも、きっと忘れる。
でも、それでいい。
何年かして、誰にも忘れられた木が育ち、桃の実がなっとしたら、それはそれはすてきなことなんだと、そう思う。