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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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しらぬい

2009/12/27

しらぬい 古来の用字は「{不知}《火」
陰暦七月の末の夜、九州の八代(ヤツシロ)海の海上に見える火。夜光虫のせいとも、漁船の火が点滅するように見えるものともいう。しらぬひ。

 昼寝から目覚めればひとりだった。
 いつの間にか奥座敷に寝かされていた。障子もふすまも閉め切って畳の上が仄暗い。仄暗い沼に浮かぶ舟のように、蒲団が白い。頭をもたげれば、障子に当たる淡い光が夕暮れ時を示していた。
 なにか様子がおかしい。なぜおかしいと感じるのか、しばらく正体がつかめずにいたが、やがてふすまの天地がひっくり返っているのに気づいた。
 ふすま絵の「紅白梅図」が、逆さま。ふくよかにうねる銀箔の川は下から上へと流れ、両岸の紅梅白梅も、細い枝をみな下に向け、点々と花を散らしている。
 狐狸に化かされている心地がした。厨(くりや)のほうから物音がするので、ふすまを開け閉め、ふすまを開け閉めして、囲炉裏の間から土間に下り厨をうかがうと、醤油(しょうゆ)の匂いのする湯気がもうもう立ち籠め、女たちが集まって大根を煮ている。白い割烹(かっぽう)着(ぎ)をつけ手拭いをかぶり、口もきかずみな怖い顔をして立ち働いているものだから、誰が誰なのか、どれが母親なのか見分けがつかない。
 取りつく島もないので庭に出ると、立ち枯れた蓮ばかりの池に白いものがうごめいている。しらさぎ。池の魚をつついているのか。足音を忍ばせそっと近づこうとしたら、しらさぎはついと頭をもたげ水音も立てずに飛び立った。くちばしにくわえた赤いものが夕空に水滴を散らす。金魚かもしれない。
 しらさぎの行き先を目で追い空をあおげば、わらぶき屋根の上に竿が立てられ、そのてっぺんに自分の寝間着が案山子みたいなふうに掛けられてある。洗濯ものを干しているのか。洗濯ものならなぜわざわざ屋根の上に。夕方なのになぜ取り込まない。そして、どうしてわたしの寝間着だけなのか。
 なぜか、この家から放逐されたという思いが強くなり、門の外に出てみれば、門のすぐ横に乳母が立っている。乳母はわたしが五歳になるまで世話をしてくれたのだった。
 乳母はわたしに微笑みかけ、柄杓(ひしゃく)をくれた。柄杓は底が抜けていた。
「これをお持ちなさい。なにがあっても手放してはなりませぬ」
 そう言ったきり足早に去っていった。
 わたしは底の抜けた柄杓を遠眼鏡のようにして乳母を見送った。柄杓を目から離していくにつれ、木の枠に円く縁取られた視界で、乳母の背中も小さくすぼんでいくように見えた。
 わたしは心細くなり、泣きたい心持ちで乳母の後を追った。乳母は漁民の集落に住んでいるのだった。
「わたしの生まれたところは葦ばかり生い茂って、そのような土地には神様も仏様もおりませぬ」と、かつて乳母は話していた。たしかに乳母の家には神棚も仏壇もなかった。
「それではなにを拝んでいるのか」わたしは訊いたことがある。
「そうですねえ。お盆と正月には海を拝みます」と乳母は答えた。
 集落にはお寺がないから、死人が出たら小舟に乗せて海に流すのだそうだ。
「河童が神様ではないのか。河童は拝まぬのか」
 わたしは学校で耳にした噂を乳母にただした。乳母は悲しい顔になり、
「河童は神様ではありません。河童は子供の霊がなるものです」と話した。
 乳母の集落へ行くには葦原を渡らねばならない。沼地にびっしりと葦が生い茂り、橋があるにはあるのだが、細長い板を棒杭に乗せて結わえた粗末な橋で、ところどころ棒杭が腐っているものだから、うっかり体重を乗せると板がきしんで沼に沈み、暗い水が足下に及ぶのだった。
 千鳥がしきりに鳴き交わしている。かさこそ、かさこそ、橋の上をうごめくのは蟹。踏みつけぬように気遣いながら、踏み場を誤れば板がぎいと沈む。体が傾いで、草履が水につかる。いまにも足首を掴まれそうで心が細る。水音がするたび肝を冷やしたが、それは沼の魚が羽虫を狙って跳ね上がる音。
 水音が水面を暗くしていく。背中の空には夕映えが残っているものの、正面の空は夜の色を濃くし、群雲がほんのり白んでいるのは月明かりらしい。陽が暮れきれぬうちにと焦りに憑かれ、底の抜けた柄杓で葦の葉を掻き分けながら橋を渡りきったが、乳母の姿はとうに見失っている。

 海辺の集落はしんと静まり、篠竹を生け垣にした漁民の家々の間をぬって小径は曲がりくねり、どれが乳母の家だか、途方に暮れた。
 群雲に波音が重く轟く。波音に誘われ、松林を抜けて海辺に出れば、漁民の子らが浜に集まって遊んでいる。砂に輪を描いて押しくらまんじゅうをしているのだった。彼らは百姓の子よりも汚らしく、貧しい身なりで、痩せて顔つきも険しかったが、とにかく人に出会った喜びで、わたしは柄杓を手にしたまま駆け寄り仲間に加わった。
 夕闇に砕け散る波の白さばかり凄まじい。
 漁民の子は気性が激しく、押し合う力も荒々しかった。しかしわたしも相撲は強いほうなので負けてはいない。波音がわれらを鼓舞する。砂に描いた輪はほとんど消されて勝ちも負けもなくなり、みんなもう闇雲に押し合いへし合いしているだけなのだ。
 誰もわたしを怪しまないのは、わたしも彼らと同じ、漁民の女の乳を飲んで育ったからか。ひょっとして同じ匂いがするのかもしれない。
 汗ばみながら、松林の向こうに暮れていく空を見上げているうち、もう家に帰れない、二度と帰れないという思いが強くなった。
 そのうち、漁民の子らが口々に言い出した。
「おんでこ座が来てるぞ」「おんでこ座」「芝居だ、芝居だ」
「旅の一座」「また来た」「今年も来た」
「どこだ」「どこだ」「どこだ」
「あまもり山だそうだ」「あまもり山」「あまもり山のてっぺん」
「芝居はなんだ」「芝居は」「演し物は」
「西郷どん血風録」「西郷どん」「西郷どん」「いよいよだ」「いよいよ」
「西南の役」「田原坂」「一歩も引かぬ」「合戦だ」「合戦」「合戦だ」
 いっせいにわっと叫んで押しくらまんじゅうの輪をほどき走り出す。彼らを見失わぬようわたしは懸命に後を追った。

 あまもり山というのは聞いたことがなかった。とにかく息を切らして海岸沿いの道を走れば、目の前にお椀を伏せたような山がこんもり現れ、石段の両側に紅白の提灯がともっている。「おんでこ座」「おんでこ座」漁民の子らは息も切らさず石段を駆け上がり口々に叫ぶ。「おんでこでんでこへをひってぷう」「おんでこでんでこはなもげてぴい」。
 長い石段を上り詰めれば森に囲まれた原っぱがあり、ふつうなら神社かお寺かありそうなところに旅の一座が芝居小屋を掛けている。
 原っぱを提灯がぐるりと囲んでやたら明るい。ここだけ夜空に浮いてるみたいな。
 芝居小屋には大きな芝居絵が掛けてある。怪しく血なまぐさい絵ばかりで、西郷隆盛が狐の化けた女を縛り、軍刀で斬りつけていたりする。あらわな乳房に血が垂れており、子供の観る芝居ではなさそうなのだが、漁民の子らはかまわず木戸銭を払い我先にと中へ入っていく。わたしも入ろうとすると、木戸番がただでは観せぬと言う。これでよいかと底の抜けた柄杓を見せると、木戸番がそれでよいと言うので、わたしは底の抜けた柄杓を渡し小屋の中に入った。
 芝居はすでに始まっていた。座敷は満員だが、漁民の子らは白酒やおでんを買い、客の頭を踏むようにしていちばん前へと進みむりやり陣取ってしまった。わたしはそこまでずうずうしくなれず、いちばん後ろで立って観ることにした。
 それにしてもおかしな芝居だ。いがぐり頭の大男が西郷どんらしい。彼の連れている犬に観客は手を打って大笑いした。人間が犬の着ぐるみを着て四つん這いになっているのがあまりに不格好だからだ。
 その犬は、政府のお役人に猟銃で撃たれて死んだ。赤い布が犬の口からどんどんどんあふれ出て舞台いっぱいに広げる。西郷どんは血の海に沈む犬の亡骸を抱き上げ日本政府への敵討ちを誓うのだが、どうやらそれが西南の役の始まりらしい。
 西郷どんが同志を集め、男の契りを結ぼうとふんどしひとつになり、みなで組んずほぐれつ始めるとさすがに辟易した。こんな話は馬鹿げてる。嘘っぱちもいいところだ。しかし他の観客は腹を抱えているし、漁民の子らにいたっては立ち上がって飛び跳ねているくらいだから、わたしひとり首をひねっているのは損な気もする。
 芝居は進むにつれて無茶苦茶になり、田原坂の血戦など鬼(おに)蜘蛛(ぐも)が出るわ大蝦蟇(おおがま)が出るわの妖術合戦。西郷どんも着流しの兵児帯(へこおび)、下駄履きの格好でいくさに出るなどおよそあり得ない。こんな芝居と知っていれば観るのではなかった。乳母にもらった柄杓を簡単に手放したことを悔やんだが、いまさら木戸番のところへ行って返してくれとも言えない。
 やがて西郷どん切腹の場面となる。西郷どんが太鼓腹をさらして白刃をへそに突き立てる。同志が剣を振り下ろし介錯する。人形とすり替わる暇もなかった。血飛沫が上がり西郷どんの首がごろんと転がり、なまぐさい血の臭いまでしてくるので本当に人が死んだかと目を疑ったが、同志が拾い上げた西郷どんの生首はやはりハリボテの作り物だ。
 幕。
 観客はさっさと引き上げていく。座布団が集められ、ゴザが巻かれ、舞台が畳まれ屋根が下ろされ、小屋全体が瞬く間に消えてなくなり、提灯も端から消されていく。大道具小道具を詰めた木箱も、役者もろとも森の中へ消えていく。
 漁民の子らも帰った。夜はとっぷりと暮れた。森に囲われた暗い原っぱに、わたしは茫然と立ち尽くした。
 石段の縁から海が見渡せた。月明かりが海の上にひと筋の道を作っていた。
 海岸沿いの道に、提灯の明かりが列をなして歩いていた。葬式の行列らしい。しかし、こんな夜中に野辺送りなどするものだろうか。
 先頭に立って提灯を提げているのはどうやら乳母らしい。もちろん遠いし暗いしで顔など見えるわけはないが、そんな気がしてならない。
 じっと見ていると、
「あれは河童のとむらいだ」と後ろで声がする。振り向けばさっきの木戸番が煙管をくわえている。「見てはならんぞ。見てはならん」
 しかしわたしは駆け下りていく。石段を踏み外して前のめりになり、たまらず二、三段転げ落ちるが、痛いと思う間もなく宙に浮き、体ぜんたい丸まりながら石段に少しも触らず滑るように落ちていく。石段の下にとむらいの行列が差しかかる。まっすぐに落ちていったわたしは、気がつけば提灯の中にいるのだった。
 見上げれば、提灯の口輪の先、仄かに照らされた乳母の、襟の合わせ目から頤にかけての生白い肌が見え隠れした。
「柄杓はどうしました」乳母の悲しい声がした。「あれほど、手放してはならぬと申し上げたのに」
 それを聞くとわたしも悲しくなった。
 わたしは乳母の提灯からすいと離れた。
 月明かりに照らされた白砂の道を提灯の行列がしずしずと歩く。老人ばかり、わずかにうつむきながらそれぞれの顔を提灯の明かりに照らしている。白木の舟を担ぐ若者、海鳥の羽根を手にした娘たちがそれに続く。行列が終わるとわたしは魂の緒が切れたようにふわりと浮き上がる。松林の枝先をかすめ、梢からも離れて宙に伸び上がる。眼下に行列が遠退いていく。松林の向こうに砂浜は細長く伸び、打ち寄せる波の白い泡立ちが、ゆるく弧を描いてはるかな彼方まで続いていく。陸地に目をやれば、あまもり山はすでにこんもりとした黒いかたまりでしかない。漁民の集落で子供らがわたしを見上げている。遠く、遠く、わたしの家のある集落が点々とかすかな灯をともしている。
 海原に目を向ければ、水平線の向こうに二つ三つ光があらわれ、海月(くらげ)の火の玉かと思えば五つ六つ、七つ八つと数を増やしてたちまち数百数千の光の帯となり水平線を埋め尽くしていく。赤い火もあれば青い火もあり、揺れ動きながら、ぼうっと膨らみ、あるいはすうっとしぼみ、光が息をしているようにも思える。
 あれが不知火か。
 竜神の灯明と聞いていたが、いや、灯明などではない。命が瞬いているのだ。
 強い力を感じ、わたしは吸い寄せられるようにして、不知火のひとつになるべく海原へ下りていった。

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