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	<title>Stand &amp; Fight! スタンド・アンド・ファイト - みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。アーカイブ</title>
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	<updated>2009-07-06T20:14:08Z</updated>
	<subtitle>スタンド・アンド・ファイトは、市販の書籍から企業のＰＲ媒体、ウエブサイトの編集記事まで、いろいろなかたちの「コンテンツ」を制作する会社です。トップメッセージ制作、ブランドブック（社史）制作、パノラウンドムービー（QTVR）制作なども提供します。</subtitle>
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	<title>宮台真司さんの巻。</title>
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	<published>2009-06-25</published>
	<updated>2009-07-06T11:14:08Z</updated>
	<summary>インターネットも携帯電話も消費税もなかった、大学の1、2年生のころ。家庭教師のアルバイトをしていたことがあります。 小田急相模原駅前の富士銀行の中にあったホワイトボードの掲示板に 「家庭教師　週1回　...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>インターネットも<br />携帯電話も<br />消費税もなかった、<br />大学の1、2年生のころ。<br />家庭教師のアルバイトをしていたことがあります。</p>
<p>小田急相模原駅前の<br />富士銀行の中にあったホワイトボードの掲示板に</p>
<p>「家庭教師　週1回　月2万1000円　体育も教えます」</p>
<p>とインフォメーションしたのがきっかけでした。</p>
<p>「月2万1000円」というのは<br />わたしの6畳1間のアパートの家賃。<br />「体育も教えます」というのは、<br />わたしのセールスポイントのアピール。<br />同じ掲示板で家庭教師の案内をしていた<br />他の学生たちの大学名が一流どころばかりなので、<br />彼らとは差別化しなければと思い、<br />「体育も～」の一文をひねりだしたのでした。</p>
<p>すると、<br />まもなくアパートの黒電話が鳴りまして。<br />サッカークラブでフォワードをやっていて、<br />学校では2番目にかけっこが速いという<br />5年生の男の子の家庭教師になることができたんです。</p>
<p>で、<br />初めての「授業」。<br />いまでもよく憶えています。<br />2階の部屋にノックして入ると、<br />わたしの座る椅子が学習机のそばに準備してあり、<br />机の上には算数の教科書とノートが開いてあり、<br />その机に向かって男の子が緊張した様子で座っていました。</p>
<p>当時のわたしは<br />夜な夜な車を飛ばして友だちと大磯あたりまで出かけたり、<br />徒歩3分の銭湯にその車で通ったり（風呂なしアパートでした）、<br />ちゃらんぽらんの極みの大学生でしたので、<br />家庭教師についても「受注」できただけでこれ幸い。<br />とくだんの心の準備もないまま、<br />初日に臨んだ次第です。</p>
<p>ですので、<br />男の子の緊張した様子を見たとたん、<br />わたし、<br />輪をかけて緊張してしまいまして。<br />勉強はじめる前に<br />なにはともあれ仲良しになろうと<br />「算数って解けたら面白いよ」<br />とか<br />「クラスのみんなと競争だね」<br />とか<br />声掛けたと思いますけど、<br />反応いまいち。。</p>
<p>どうしようかと頭をかかえたとき、<br />そうだ、<br />「体育も～」のセールスポイントを<br />いまこそ発揮してみようと思いつき、<br />男の子の目の前で腕まくりして、<br />エイヤッと力こぶを出したんですね。<br />男の子はパッと笑顔になりました。<br />それでわたし、<br />調子に乗ってシャツまでめくりあげ、<br />割れた腹筋も出してあげたのでした。<br />（現在では跡形もありませんが）</p>
<p>それをきっかけに打ち解けることができ、<br />「授業」もスムーズにいきました。<br />成績も伸びて、<br />お母さんからクリスマスにセーターもらったり、<br />男の子とはサッカーの練習も一緒にしたり、<br />じつに楽しく家庭教師をやらせてもらったんです。<br />男の子は<br />「どうしたら筋肉がつくの？」<br />と何度も聞き、<br />それに答えてわたしは<br />「勉強すれば筋肉つくよ」<br />と真顔で冗談を言ってました。</p>
<p>社会学者の宮台真司さんは<br />著書の『14歳からの社会学』（世界文化社、2008年）で<br />こんなことを書いてます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="margin-right: 0px;">
<p>ぼくたちがものを学ぼうとするときに、どういう理由があるだろう。まず1つ目に挙げられるのが「競争動機」（勝つ喜び）。周りの子とテストの点数を競い合うとか、人よりも高い偏差値の学校に合格したいと思って受験勉強をするのは、この「競争動機」による。／2つ目に挙げられるのが「理解動機」（わかる喜び）。「自分の力で問題が解けた」とか「自分の考えをうまく説明できた」と感じる喜びだ。戦後の日本の教育は「競争動機」と「理解動機」に集中して議論がなされてきた。だが、実はもう１つ大切な動機がある。／それが「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」だ。直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう――そうやって学んだことが一番身になるとぼくは思う。（『14歳からの社会学』132ページ）</p>
<p>ミュージシャンは優れたプレーヤーの演奏を徹底的にコピーして、やがて自分の演奏スタイルを作る。小説家だって同じだ。優れた作家の作品を徹底的に読み、文体模写なんかしながら、いつしか自分の作品世界を作る。学問だって同じ。大切なのは「感染」だ。／①誰かに「感染」して乗り移られたあと、②徹底的にその人の視点から理解し、③やがて卒業して今度は別の誰かに「感染」する――。①→②→③を数回くり返せば、そのときにはすでに君自身が、誰かから「感染」してもらえる価値を持つようになっているだろう。（『14歳からの社会学』139ページ）</p></blockquote>
<p>筋肉をきっかけに<br />あの男の子は<br />家庭教師のわたしに「感染」してくれたんじゃないか<br />なんてことは思わないけど、<br />でも<br />わたしは男の子にとって「スゴイ大人」でなければと<br />「授業」へ出かける前には<br />腕立てと腹筋を欠かさなかったんです。<br />「授業」の準備もそこそこに<br />6畳のリビング兼ダイニング兼スリーピングルームで<br />筋トレをやっていた。</p>
<p>じゃあ「感染」するほど「スゴイ人」とは、<br />どういう人なのか。<br />宮台さんは<br />世間や親が「こういう大人が立派なんだ」というのとは、<br />次元が違う、と言います。</p>
<blockquote dir="ltr" style="margin-right: 0px;">
<p>ぼくも親から「こういう大人が立派なんだぞ」といわれて信じこんでいた一時期がある。けれど、それは経験によって裏切られていった。ぼくの仲のよかった友だちのお父さんは、背中にクリカラモンモンをしょうヤクザだったけど、その人がらにふれて「スゴイ」と思った。（中略）クリカラモンモンのおじさんに、大人たちは眉をひそめていたけれど、ぼくにとっては、「スゴイ人」だった。見ると聞くとじゃ大違いで「感染」した。だから、ぼくはヤクザに偏見がない。そのことが、のちに中高生売春やクスリの調査をするときにも、ずいぶん役に立った。（『14歳からの社会学』144～145ページ）</p></blockquote>
<p>子どものころ、<br />クリカラモンモンのおじさんに「感染」した宮台さん。<br />大学・大学院のころには<br />哲学者の廣松渉さん、社会学者で評論家の小室直樹さんに<br />「感染」したのだそうです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="margin-right: 0px;">
<p>彼らはぼくからすれば「この世ならざる存在」だ。そんな彼らに「感染」することで教養を身につけたぼくは、彼らに「感染」するときにこそ〈自由〉を感じていた。／ぼくは昔から「非日常体質」だった。早生まれで、体力も知力もおとり、学校でうまくやれなかったぼくは、屋上にのぼるのが好きで、お祭りが大好きだった。中学・高校ではアングラにハマった。いまでも、そういう「非日常」なものにふれるときにこそ〈自由〉を感じる。（『14歳からの社会学』191ページ）</p></blockquote>
<p>「感染」するときこそ〈自由〉になる――。<br />むずかしいけど、わかるような気がします。</p>
<p>しかし<br />わたしは<br />だれか「スゴイ人」に「感染」したことが<br />あったのか？<br />うーん。。。<br />もしかして、嫁はん？<br />でも彼女とは〈自由〉よりも〈不自由〉を感じるし...。</p>
<p>「感染」の経験って<br />気づかずに過ぎることもあるんだ、きっと。</p>]]>
	</content>
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	<title>畑村洋太郎さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2009:/test//7.622</id>
	<published>2009-04-23</published>
	<updated>2009-07-06T11:14:04Z</updated>
	<summary>新聞とかテレビで、毎日のように頭ぺこぺこ下げてる人たちを目にします。 「男はあんまり頭ぺこぺこ下げるもんやない」って高校時代、担任の先生（＝レスリング部監督）から言われたものですが、最近は、会社のエラ...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>新聞とかテレビで、毎日のように<br />頭ぺこぺこ下げてる人たちを目にします。</p>
<p>「男はあんまり頭ぺこぺこ下げるもんやない」って<br />高校時代、担任の先生（＝レスリング部監督）から言われたものですが、<br />最近は、<br />会社のエライさんから芸能界のスターさんまで、<br />不祥事やら逮捕やら<br />ぺこぺこのオンパレードであります。。</p>
<p>昔も、こんなだったっけかなあ？</p>
<p>謝罪会見なんて、<br />高校時代（＝30年前）に見た覚え、あんまりないんだけど。<br />今の世の中、<br />ミスったときは速攻でぺこぺこしないと<br />誰も許してくれないんでしょうか。</p>
<p>キツイなあと思います。</p>
<p>わたしも<br />失敗とか粗相したときは「すみません」と<br />すぐにぺこぺこするほうですが、<br />気分が落ち着かないうちにぺこぺこしてしまうと<br />なお気分が落ち込んじゃいますよ。</p>
<p>落ち込んでいるときに<br />メディアで責任追及され<br />謝罪会見に引っ張り出されてのぺこぺこは<br />キツイでしょうねえ。</p>
<p>そんなあわてて会見しなくても<br />しばらく時間を置いて<br />もろもろ落ち着いてから改めてぺこぺこしてもらえば<br />わたし的には全然ＯＫじゃないかと思うんですけど。</p>
<p>たとえば企業不祥事が起きると<br />よく危機管理のコンサルタントとかいう人たちが出てきて、<br />謝罪の仕方なんかについてあれこれ言いますが、<br />会社のイメージダウンを防ぐためにどう謝るか<br />という視点からの話が多くて。</p>
<p>会見でペコペコ謝る人のストレスには<br />目が向いてないんだもん。</p>
<p>「失敗学」で有名な畑村洋太郎さんは<br />こんなこと言ってます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>程度に差はありますが、失敗したときには誰だってショックを受けるし傷つきます。本人は気づかないかもしれませんが、直後はエネルギーが漏れてガス欠状態になっています。こういうときに失敗とちゃんと向き合い、きちんとした対応をしようとしても、よい結果は得られません。大切なのは「人（自分）は弱い」ということを認めることです。自分が、いまはまだ失敗に立ち向かえない状態にあることを潔く受け入れて、そのうえでエネルギーが自然に回復するのを待つしかないのです。／不思議なもので、人はエネルギーが戻ってくると、困難なことにも自然と立ち向かっていけるようになります。これは人間がもともと持っている「回復力」の為せる業です。<br />『回復力』（講談社現代新書）34ページ</p></blockquote>
<p>こないだ<br />ホームレスの方々の自立支援してる人を取材したんですけど、<br />その人も、<br />畑村さんと同じようなこと言ってました。</p>
<p>路上生活に困窮した人を<br />シェルターへ入れてあげると<br />「申し訳ない、すぐに仕事さがしますから」<br />と恐縮するんですって。<br />でも、その人は、<br />「いかんいかん、まず休め」<br />と諭して、<br />しばらくエネルギー充電させると。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>苦しいときにも頑張って、一時的に無理をするというのは、確かに窮地から脱するひとつの方法です。ただし、この方法が使えるのは自分にまだエネルギーが残っているときに限られます。エネルギーがないときに頑張ろうとするのは、勝つ見込みの薄いギャンブルに身を預けるようなものです。エネルギーがそれほど残っていないのに、自分に負荷をかけ続けたら、あっという間にエネルギーがなくなってしまいます。その挙げ句、潰れて再起不能になっている人は現実にはたくさんいます。<br />『回復力』37ページ</p></blockquote>
<p>畑村さんは、<br />エネルギーが回復するまで<br />苦しい場面から逃げ出したり、<br />失敗をしょうがないと考えたり、<br />人のせいにしたりしてもいい、<br />ということも本のなかで言ってます。</p>
<p>間違ったり、<br />失敗したりしない人なんて<br />どこにもいないし、<br />自分だってぺこぺこしなきゃいかんことを<br />いつ起こすかしれないんですからね。<br />人が失敗して<br />エネルギーダウンしてるときに<br />謝罪会見やれとか追及するのって、<br />いかがなものでしょう。</p>
<p>それにしても<br />畑村さんの「失敗学」ってすごいなあと<br />思います。<br />『回復力』のほかにも<br />畑村さん本、何冊も読みましたが、<br />いろんなこと教えてくれますよ。</p>
<p>畑村さん、<br />失敗との付き合い方を考えるうえで、<br />ベースになった出来事があるんだそうです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>私がまだ東大工学部の講師をしていた一九七〇年代のはじめのことです。／校舎内でお昼ご飯を食べているときのこと、突然、窓の外を大きな黒い影がさっと落下していくのが見えました。「えっ」と、びっくりした瞬間、続いて「ドスン」という何とも言えない重苦しい音が響きました。影の正体は飛び降り自殺をはかった学生でした。<br />『回復力』12ページ</p></blockquote>
<p>当時、学生の自殺は社会現象になるほど多く、<br />東大工学部でも複数あったそうです。</p>
<p>自殺をはかった学生の大半は<br />うつ病を患っていたと知った畑村さん、<br />専門家に学び、<br />対応策を講じます。<br />そして<br />うつへの対応が<br />失敗との付き合い方を考えるベースになりました。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>失敗が原因でうつになる人は大勢います。とくにそれが大きな失敗の場合、その人のふだんの性格などに関係なく、誰でもうつになる可能性があります。そうした場合は、周りも細心の注意を払う必要があるし、本人もそれを自覚して動かないと取り返しがつかなくなる場合があります。<br />『回復力』21ページ</p></blockquote>
<p>これは肝に銘じておかないと。<br />けっこう怖いご指摘です。。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>足立倫行さんの巻。</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/kodo/#000609" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2009:/test//7.609</id>
	<published>2009-03-26</published>
	<updated>2009-07-06T11:14:03Z</updated>
	<summary>中学・高校のころ。「取材」というのはハードルの高い仕事で、なんというか、物事の本質を見抜く能力があって、かつ、ずうずうしいぐらいの性格を持つ人でないとできないんじゃないかと思ってました。わたしの頭の中...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>中学・高校のころ。<br />「取材」というのはハードルの高い仕事で、<br />なんというか、<br />物事の本質を見抜く能力があって、<br />かつ、<br />ずうずうしいぐらいの性格を持つ人でないと<br />できないんじゃないかと思ってました。<br />わたしの頭の中では、<br />取材をする人といえば政治記者とか事件記者で、<br />いつも夜討ち朝駆けでスクープを狙ってる、<br />みたいなイメージだったんです。</p>
<p>で、<br />大人になって、<br />出版社に入ったところ......。<br />夏の盛りに、<br />月刊誌の女性編集者が<br />ひらひらのワンピースで、<br />かつ、<br />日傘片手に、<br />「取材、行ってきまーす」と<br />オフィスを出発していきました。。<br />すごい衝撃でした。<br />ああ、取材って、<br />あんな格好でも、<br />誰でもＯＫなのか。<br />ありふれた仕事なんだ！</p>
<p>新聞とか週刊誌の記者じゃなくても、<br />語学雑誌やウエブサイトの編集者だって<br />単行本や企業ＰＲ誌のライターさんだって<br />小学校の広報誌を作るＰＴＡのママさんだって、<br />いろんな人が取材してるのでした。<br />実力イマイチのライターさんなんかにかぎって、<br />取材がどうの、仕事がこうのと、<br />複雑なウンチクくださることもありますが、<br />べつに取材って誰でもやってるし、<br />できることなんですよね。</p>
<p>とはいえ、やっぱり、中高生時代に抱いたイメージは強いのか、<br />今でもわたし、<br />とくに取材旅行へ出発する日は<br />朝から落ち着かないんです。。<br />うまくいかなかったらどうしよう、<br />また遠くまで出かける時間もお金もないし、<br />自分なんかの取材で大丈夫なのかと、<br />あれこれ考えてしまうんです。</p>
<p>ノンフィクション作家の足立倫行さんも<br />こんなこと書いてます。<br />フリーの物書きになって13年目、<br />「最低でも月に一・二回は取材旅行に出て」いたころに<br />書かれた文章です。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>最寄り駅に向かう途上はいつも気分が重い。電車内では必ず腹具合が悪くなり、駅や空港に到着するやいなやトイレに駆け込む。尾籠な話だが決まって下痢をする。何もかもいやになり、そのまま回れ右して家に帰りたくなる。実に情けなく、心細い精神状態なのだ。（『人、旅に暮らす』現代教養文庫・1993年・313ページ「シリーズのためのあとがき」）</p></blockquote>
<p>このころの足立さんは<br />『人、旅に暮らす』のほかにも<br />『日本海のイカ』（情報センター出版局・1985年）<br />という大宅壮一ノンフィクション賞候補になった本も書いていて、<br />すでに名うてのノンフィクションライターさんでした。<br />なのに、<br />まだ取材旅行には。。。<br />駅のトイレに駆け込むのは<br />わたしと同じであります。</p>
<p>でも、<br />いったん取材のスケジュールに乗ってしまうと、<br />足立さん、<br />「急に蘇生する」んです！</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......僕もいっぱしの"職業としての旅人"に変貌する。好奇心を最大限にまで膨らませながら油断なく、素速く、精力的に行動する。少々の危険は厭わないし、面倒で複雑なこともあえて避けようとはしない。机の前で置物のように坐ったきり動かないふだんの自分を考えると、我ながら別人のようだと思う。そして、能力の限界に挑戦するようなそうした取材の旅から自宅に戻ってくると、ドッと疲れ、しばらくは痴呆のごとく眠るだけなのである。（中略）毎月何度も家を離れ、自分が興味を抱いた対象を納得のゆくまで追い駆けるようになって初めて、僕は取材の旅が一期一会の真剣勝負だと思い知らされるようになったのだ。（『人、旅に暮らす』315ページ）</p></blockquote>
<p>取材がはじまってもダメダメなわたしとちがって、<br />さすが、一流のノンフィクションライターさんです。</p>
<p>『人、旅に暮らす』という作品は、<br />競輪選手や養蜂家やプロ球団スカウトなど、<br />旅をしながら仕事をしている人たちをルポしたものです。<br />週刊誌の記者を辞めて、<br />フリーの物書きになった足立さんの<br />最初の作品なんだそうです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>これは僕にとっては処女作だった。誰にとっても最初の作品というのは、さまざまな思い出と愛着があり、たとえ未熟でも忘れがたいものだろうが、僕の場合も同様である。／何年か若者向け週刊誌の取材記者をやってきて、どうにも苦しくなって辞めたものの、展望はなかった。三十歳を過ぎて、妻子があって、まったくの無名だった。フリーのルポライターの看板を掲げたのはいいが、仕事らしい仕事の依頼はほとんどなかった。（中略）半年、いやもっとだろうか、鬱々として過ごした。毎日のように子供たちをアパートの近くの公園に連れて行き、明るい笑顔を、ぼんやりと暗い気持ちで眺めていた。／夏も終わりに近づいたある日、知り合いの編集者から電話があった。一年間の連載ルポをやらないかと言う。それも「職業で旅をしている人間に密着同行して日本中を歩く」のだと言う。僕は、跳び上がって喜んだ。（『人、旅に暮らす』301～302ページ「あとがき」）　</p></blockquote>
<p>足立さんは鳥取県出身、<br />自衛官のお父さんの転勤とともに<br />境から横須賀、川崎、佐世保と引っ越したり、<br />大学のころにアメリカと北欧を回ったり、<br />若い時代に「旅」があったのだそうです。<br />『日本海のイカ』もスルメイカの回遊を追いかけて旅したルポで、<br />また、<br />『1970年の漂泊』（文春文庫・1991年）<br />という自伝ノンフィクションも書いてます。</p>
<p>取材記者を辞め、生活の安定を捨てて、<br />足立さんは自分に合った取材の仕事を<br />やろうと決めてたんですね。<br />わたしはそう思います。<br />しばらく時間かかったけど、<br />自分のテーマが向こうからやってきた。</p>
<p>わたしも<br />しばらく待ってみようかな。<br />取材の仕事の自信は、まだないけど。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>中坊公平さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.580</id>
	<published>2008-12-05</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:59Z</updated>
	<summary>わたしの田舎は福井の小浜というところです。人口３万ほど、のんびりした雰囲気の港町ですけど、今年は、ＮＨＫの連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台になったり、アメリカのオバマ次期大統領さんのおかげで注目さ...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>わたしの田舎は<br />福井の小浜というところです。<br />人口３万ほど、<br />のんびりした雰囲気の港町ですけど、<br />今年は、<br />ＮＨＫの連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台になったり、<br />アメリカのオバマ次期大統領さんのおかげで注目されたり、<br />にわかに盛り上がったみたいでした。</p>
<p>東京から帰省するときは、<br />京都経由で新幹線と電車を乗り継ぎます。<br />で、<br />せっかく京都を通るんだからと、<br />そこで１泊旅行してから帰るんです。<br />宿はいつも、<br />京都大学の近くの「聖護院御殿荘」。<br />この旅館が中坊公平さん経営なんですね。</p>
<p>中坊さんは<br />日本弁護士連合会の会長も務めた人で、<br />10年前の司法制度改革審議会では委員として、<br />現在の裁判員制度の導入をリードしたそうです。<br />整理回収機構の社長として<br />住専の不良債権処理に手腕を発揮していたころは、<br />「平成の鬼平」と呼ばれてメディアにひんぱんに登場したり、<br />首相候補に名前があがったりしました。</p>
<p>一見、<br />すごく偉い人で、<br />エリートなのかなと思いきや、<br />著書を読むとそんな感じはぜんぜんありません。<br />さっきの聖護院御殿荘も、<br />１泊１万円前後で利用できる気さくな旅館です。</p>
<p>中坊さんの初めての著書<br />『罪なくして罰せず』（朝日新聞社、1999年）に<br />こんな一節があります。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......私は大事に育てられた。子守役のお手伝いさんがいつも遊び相手になってくれて、父も母も私が寝小便を繰り返しても決して怒らなかった。だが、学校では落ちこぼれで、なかなか友達ができない。今でこそ一千枚近くの年賀状をもらうようになったが、その時代には一枚も来ないことがあった。私は孤独で、知らず知らず「自分は弱い人間なんだ」と自覚しながら大きくなったように思う。（同書107ページ）</p></blockquote>
<p>司法試験は３回目でやっと合格。弁護士になってからも<br />仕事の依頼がぜんぜん来ない時期が<br />長くつづいたといいます。<br />でも、<br />やがて、<br />「裁判に負けない弁護士」と評判になって、<br />なんとかひとり立ち。<br />中坊さんは<br />「現場主義」に徹する独自の手法を体得したんです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>私は旧制中学の受験も高等学校の受験も滑った落ちこぼれで、もともと勉強嫌いである。しかし裁判では、相手方より現場を知り尽くし、裁判官より事案の本質を踏まえていれば勝てることを知っている。事案の本質と法律の条文を比べればどちらが強いか、軍配は必ず本質を知っている側に上がる。法律はあくまで裁判の「手段」でしかないからである。法律の論理だけで裁判官を説得することはできないが、現場の体験から弁論すれば納得してもらえる。（同書99ページ）</p></blockquote>
<p>どんな事件を依頼されても<br />中坊さんはまず事件の現場を見聞きして回り、<br />その状況を肌で感じ、<br />ときにはそこで依頼人と一緒に<br />会食したりするのだと。<br />そういうふうに視覚から触覚、味覚まで、<br />つまり五感をすべて働かせると、<br />たいてい現場から<br />「事実の本質」<br />とでもいうべきものが見えてくるんだそうです。なるほど。</p>
<p>そんな現場主義を武器に<br />中坊さんは数々の大事件に挑み、<br />たくさんの被害者を救ってきました。<br />森永砒素ミルク中毒事件、<br />豊田商事事件、<br />香川県豊島の産廃不法投棄事件......。<br />なかでも<br />わたしがいちばんスカッとさせられたのが<br />「千日デパートビル火災裁判」での中坊さんです。</p>
<p>大阪・ミナミの繁華街にあった<br />「千日デパートビル」が焼けたのは<br />1972年５月13日の夜。<br />118人が死亡した<br />日本のビル火災史上、最悪の大惨事です。<br />中坊さんは<br />焼け出された千日デパートのテナントたち、<br />具体的には<br />化粧品や婦人服や宝石や靴といった<br />小さな店を営む36人から依頼を受けて、<br />ビルを所有するドリーム観光を相手に損害賠償を求めました。</p>
<p>当時、<br />ドリーム観光は奈良や横浜で遊園地を運営する大企業でしたが、<br />「千日デパートビル火災で防火上の手落ちはない」<br />「ビルは滅失したからテナントの賃借権もなくなった」<br />などと主張して、<br />化粧品や婦人服や宝石や靴の店主に、<br />つべこべいわず、あんたら出て行け、と。<br />中坊さん、<br />これに怒りました。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>私は落ちこぼれで弱い子どもとして育ってきたせいか、横暴な強者を前にすると、とことん反発するところがある。私は勉強も運動もできず、十六歳まで寝小便をたれているような子どもだったが、ケンカをすれば負けなかった。殴り合いでは勝ち目はないから、相手の腕でも足でも服の上から噛みつくのである。いちど噛みついたら、叩かれようが蹴られようが、絶対に離れない。口の中に相手の血が滲んできても離さなかった。むしろ、その血は飲み込んだ。当然、相手はケガをして病院のお世話になった。寝小便には何も言わなかった母も、このときばかりは「公平さん、友達を傷つけてはいけません」と怒ったが、私には生来こうしたマムシのような闘争本能が宿っているのかもしれない。（同書103ページ）</p></blockquote>
<p>中坊さんは裁判で猛烈に反論、<br />８年におよぶ長い闘いに勝訴します。<br />その詳しい経緯は書きませんが、<br />わたしは<br />千日デパートビル火災裁判の中坊さんの話で<br />弁護士とは何をする職業なのか<br />はっきりわかったんですね。<br />弱い人たちを助ける仕事なんだって。</p>
<p>中坊さんは毀誉褒貶の多い人でもあり、<br />住専処理にあたっていたころの債権回収をめぐって刑事告発され、<br />それをきっかけに弁護士を廃業して、<br />現在は旅館経営に専念されているそうです。<br />債権回収でどんな問題があったのか、<br />わたしにはわかりません。<br />ただ、<br />『罪なくして罰せず』の「はじめに」のなかで、<br />中坊さん、こう書いてるんですね。刑事告発される前の記述です。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>私はこの三年間（住専処理にあたった三年間）、しばしば過激な姿勢で債務者や住専破綻の責任者と対決し、（整理回収機構の）社員たちには激励、号令、罵詈雑言を浴びせ続けて債権回収にあたってきた。冷静な指揮官というより頑固な職人みたいな仕事ぶりだったが、それに対する世間の毀誉褒貶はあまり気にしなかった。いま私には、私なりに納得のいく仕事ができたという充足感があるけれど、私のこの仕事が長い目で見て歴史の批判に耐えられるまっとうなものだったかどうか、その答えはすぐにはだせないからである。（同書２ページ）</p></blockquote>
<p dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">中坊さんは来年で80歳。<br />わたしが帰省の途中に京都で１泊するのは<br />そこで偶然でもいいから<br />中坊さんに会えないかなあと願っているからです。</p>]]>
	</content>
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	<title>久田恵さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.566</id>
	<published>2008-10-17</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:58Z</updated>
	<summary>中学２年と小学５年のふたりの娘に、子育てというほど、たいしたことはしてません。 面倒なことは、ほとんど妻まかせ、だめな父親だなあと思うだけで、なんにもしないんですけど、３つだけ、 「けがと病気に気をつ...</summary>
	<author>
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	</author>
	
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>中学２年と小学５年のふたりの娘に、<br />子育てというほど、たいしたことはしてません。</p>
<p>面倒なことは、ほとんど妻まかせ、<br />だめな父親だなあと思うだけで、なんにもしないんですけど、<br />３つだけ、</p>
<p>「けがと病気に気をつけるように」</p>
<p>「事故と事件にも巻きこまれないように」</p>
<p>それから、</p>
<p>「将来は仕事をもって、女性でも経済力をつけるように」</p>
<p>ということを、ときどき、いうようにしています。</p>
<p>娘たちは、<br />１つめ、２つめのことはともかく、<br />３つめのことは、あんまりピンとこない様子ですけど、<br />ま、大きくなってからピンとくればいいかと思って、<br />わたしの話をちゃんと聞いてくれそうなタイミングを見はからって<br />いいきかせてるんです。<br />そんなこという当のわたしの経済力が心もとないということは<br />たなにあげてますが。。。</p>
<p>で、<br />わたしが娘たちにそんなこというのは、<br />女性は、<br />男性よりもたくさん、<br />いろんなことを乗り越えなくちゃ仕事をつづけられない、<br />と思うからです。<br />いまのよのなか、<br />女性がずっと仕事をつづけて、<br />自力で生計を立てられるほどお金を稼ぐのは、まだまだたいへんだけど、<br />娘たちには、なんとかそれをやってみてほしいんですね。</p>
<p>久田恵さんは<br />ノンフィクションの書き手として、<br />『フィリピーナを愛した男たち』（文藝春秋）で<br />1990年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、<br />いまもって活躍をつづけている女性です。<br />最近では、<br />『私の仕事　私の生き方』という文藝春秋の季刊誌（2007年）にも<br />「女と仕事――そして『定年』後」<br />という題でエッセイを発表しています。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>思えば、私は団塊世代である。<br />同級生の男たちが、いよいよ定年期に突入して、これからなにをしようか、と考え始めているこの人生の節目に（フリーランスの私は定年とは無縁の立場だけれど）、一人の女として、「働いて、稼いで、自立して生きたことが誇りだ、後は、時々、楽しいことがあればもうなにもいらない」という境地に至っている自分に驚いている。（同書147ページ）</p></blockquote>
<p>もちろん、<br />久田さんがいまにいたるまでには、<br />山あり谷ありだったと思います。<br />久田さんは<br />ノンフィクションの仕事をなりわいとするまでに、<br />あれやこれや、いくつも仕事を経験してるんです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......そう、思い出すのも大変なほど、私はさまざまな仕事をして生計を立ててきたのだった。<br />　その「変転」は、「素手で、自力で、人生を切り開く！」と、一通の書き置きを残して家出をした二十歳の時から始まった。<br />　つまりは、女がそんな無謀なテーマを持ってしまうと、めまいがするほどめまぐるしく生きざるを得ないわけで、私はそんな世代の女の一人だったのである。<br />　トランジスター工場の女子工員に始まり、ウエイトレス、パン屋の店員、スーパーの試食販売、人形劇団員、フリーの人形遣い、放送ライター、東販の伝票整理、区役所のアルバイト、家庭教師、知人の家の賄い、キャバレーの衣装係、舞台照明の助手、業界雑誌記者、広告会社嘱託、サーカス団の炊事係、女性誌ライター......。<br />　どう考えても、行き当たりばったり。<br />　脈絡がない。ほとんど闇雲である。（同書146ページ）</p></blockquote>
<p>でも、<br />面白いのは、<br />いろんな仕事を転々とするなかでも、<br />若い久田さんがへんに落ち込んだりせずに、<br />すごく元気に毎日を暮らしていたんじゃないかと<br />思えることです。<br />久田さんが仕事を転々としていたのは、<br />高度成長時代の終わりのころですけど、<br />もし、いまの若い人たちが、<br />こんなふうにころころと仕事をかえて暮らしているとなると、<br />将来不安がどうとか、最低賃金がこうとか、<br />なんとなく暗い感じになっちゃうんじゃないでしょうか。</p>
<p>久田さんは暗い感じで仕事を転々としてなかった、<br />ということがわかるのは、<br />たとえば、<br />エッセイ集『愛はストレス』（文藝春秋、1996年）で、<br />その仕事のなかみについて、<br />こんなふうに披露しているからです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>ふと思いついて人形劇団をつくり......埼玉や千葉などを地図を片手に車で走り、保育園や幼稚園を見つけると、車を止めて訪問し、園長先生に「子どもたちに夢を」などと言って仕事をとるのである。<br />　私立の保育園や幼稚園の園長先生には基本的に人柄の良い人が多い。<br />「まあ、お若いのに......」<br />「素敵なお仕事ですこと」<br />　などと言って、ともかく話を聞いてくれて、一日回ればなんとか二つ、三つの園で「一公演、二万円から一万五千円」の仕事の契約がとれたのである。......儲かりはしなかったが、なんというか遊んでいるような働いているような、そんなわけのわからないお金の稼ぎ方が実に良かったのである。（同書86～87ページ）</p></blockquote>
<p>そんな久田さんも、<br />子どもが生まれてから、<br />どうやって仕事をつづけるか、つづけないのか、<br />ずいぶん悩んだ時期があったそうです。<br />初めての著書<br />『母親が仕事をもつとき』（学陽書房、1982年）<br />を書き終えたとき、<br />久田さんは夫と別れ、<br />ひとりで働きながら子どもを育てることになった<br />といいます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>私はフリーのライターという不規則な仕事をしていたこともあり、保育園だけではとてもおさまらず、一時は、友人、知人、ベビーシッター、と子どもを預けまくって育てた。<br />「おかあさん、今日は、ボクをどこに預けるの？」<br />　そう聞いた幼い息子の声が、いまも聞こえるようで、子どもの情緒が少しでも不安定になったりすると、あの時、この時のあれこれを思い出し、きっと私が悪いんだ、と罪悪感にさいなまれたことも多かった。それは、働く母親なら誰でも経験する心境でもあるが、この内面化された「母性神話」から私もなかなか解放されなかったのである。（同書文庫版あとがき、296～297ページ）</p></blockquote>
<p>それでも、<br />息子さんが12歳の中学生になったとき――</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>入学祝のＣＤプレーヤーでビートルズなんか聞いている彼の横顔を見ていたら、ふと、長かった子育ても一段落したなあ、と肩の荷が少し下りたような気がして、ふと、言ってみたことがあった。<br />　「ねえ、おかあさんはずっと仕事をしていて、小さい時からあなたにずいぶん苦労かけたのよね」<br />　その時である。息子はビートルズを聞きながらのどかに答えたのだった。<br />「小さい時の苦労なんか覚えてないよ。だけど、ボク、おかあさんと一緒で結構、面白かった」<br />　その「面白かった」の一言がどれほど胸にしみたことか。（同書文庫版297ページ）</p></blockquote>
<p>わたしは<br />久田さんに取材で合計４回、<br />お目にかかったことがあります。</p>
<p>３年前、<br />４回目の取材のときにいただいた名刺には、<br />片面にお名前だけ、<br />ひっくり返すと、<br />ご自宅の住所とともに<br />「花げし舎」<br />と刷ってありました。<br />久田さんが自宅を拠点に「花げし舎」を主宰して、<br />人形のお芝居の公演をしたり、<br />いろんなことをいろんな人たちと<br />はじめたんですよと、<br />楽しそうにおっしゃっるので、<br />わたしも楽しい気持ちになって、<br />自分もなにかはじめてみようと思ったのでした。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>鳥越俊太郎さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.548</id>
	<published>2008-09-23</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:56Z</updated>
	<summary>30歳になったときは、なんにも思わなかったけれど、40歳になったときは、「えっ、もうこんな年齢なんだ」と、ちょっと落ち込んだ気分になりました。 もう若くないんだし、これから人生の後半にさしかかるんだと...</summary>
	<author>
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	</author>
	
		<category term="みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>30歳になったときは、なんにも思わなかったけれど、<br />40歳になったときは、<br />「えっ、もうこんな年齢なんだ」と、<br />ちょっと落ち込んだ気分になりました。</p>
<p>もう若くないんだし、<br />これから人生の後半にさしかかるんだと思うと、<br />ちょっぴり、さみしい。<br />それに、<br />これまでに「これをやった！」という思いはなく、<br />むしろ、<br />「あれをやっておけば......」という<br />もったいない思いのほうがあったりして。。。</p>
<p>「不惑」の年齢というのに、<br />そんなことばっかり思ってる自分は、<br />やっぱ、だめかもしれないなあ。<br />と、<br />へこみぎみのときに読んで、元気をもらったのが、<br />鳥越俊太郎さんの<br />『あめりか記者修業』（中公文庫、1989年）<br />でした。</p>
<p>なんと、<br />鳥越さんも、<br />毎日新聞の記者として<br />40歳になろうというときに、<br />「次第に諦めと断念へ自分の気持ちを慣らし始めていた」<br />なんていうのです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>東京へ出てきたときすでに入社十一年目、三十五歳。やがてロッキード事件が始まり、私は国税庁担当記者として、口のかたい国税庁関係者宅への夜討ち朝駈けに明け暮れる中で三十六回目の誕生日を迎えた。<br />　あるとき、何がキッカケだったか忘れたが、同僚との会話の中で定年まで何年という話になった。<br />　私は自分に残された時間が、指を折って数えられることを知って愕然とした。<br />　このまま流されるように四十を迎え、五十を通りすぎ、五十五歳の定年に到達する。そして何が残るのか。特ダネ競争に身を削るのを空しいなどとは決して言わないまでも、自分の人生後半を受身でない側に立ってみたい。（同書21～22ページ）</p></blockquote>
<p>中年の一歩手前の年齢になると、<br />鳥越さんだって、だれだって、<br />大なり小なり、同じような気持ちに<br />なってしまうのかもしれません。</p>
<p>でも、鳥越さん、<br />ここで大きな挑戦をするんですね。<br />きっかけは、<br />新聞の夕刊にでていた<br />「米国郊外新聞協会で実習生募集」<br />という小さなお知らせ記事。<br />つまり、<br />おじさんだって留学しよう！と。<br />そのころ英語はぜんぜんだめ、だったようですが......。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>（実習生募集の）申込み用紙の中に経歴、趣味、希望を英文で書き込む欄があった。冗談じゃない。自慢じゃないが英作文などまるっきり無縁の衆生。えいっとばかり、英語力抜群の同僚、佐藤由紀嬢に書いてもらった。<br />　ある日会社の卓上にある電話が鳴った。これから電話で英会話のテストをやるという。<br />　おおいにあわてた。<br />　別室で中からロックした。<br />　シドロモドロの悪戦苦闘。今思い出しても肌に汗を覚える。<br />　それでも私は合格した。出発前のある日、このプログラムを主宰する池田吉和氏と雑談中、氏は何気なく言った。<br />「あなたの英語は、試験官のアメリカ女性が首ひねったんですがね。申込み用紙の文章が百パーセントのパーフェクトだったんで、結局合格にしたんですよ」（同書23ページ）</p></blockquote>
<p>毎日新聞社を休職して、<br />ペンシルバニア州の田舎町へ。<br />「クェーカータウン・フリープレス」<br />という新聞社で働きはじめた鳥越さん。<br />42歳の誕生日の直前だったそうです。</p>
<p>で、<br />１年後。<br />アメリカの田舎の新聞社で働いたことの充足感を味わいながら、<br />鳥越さんは、<br />サヨナラパーティの席上で、アメリカの人たちに、<br />長いお礼のあいさつをします。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>「みなさん、ほんとうにありがとう。これは多分、私がこの町、いやアメリカでする最後のスピーチになるはずです（だれかが「No,No,you come back soon」と声をかける）。だからみなさんがよくご存じのように、私の下手くそな、まちがいだらけの英語を聞く最後の機会となることでしょう。一年間、その難行に耐えてくださったみなさんの忍耐力に感謝します。<br />......私は一年間コラムを書き、この町の人びとに読んでもらったことを大変嬉しく思っております。そして私はじつに偉大な仕事をしたのではないかとも思っております。それは多くのアメリカ人が日本人に対して抱く偏見――日本には車のセールスマンしかいない――を私が打ち壊し、日本には新聞記者もいるという事実を証明したことです（大爆笑）。<br />......みなさん、ほんとにありがとう。私はいま大変エキサイトしています。こういうときは歌をうたうことにしています。これは日本の収穫の歌です」<br />　私は九州・宮崎の民謡「刈干切唄」を、ワインとビールとそして何かに酔って歌った。（同書277～280ページ）</p></blockquote>
<p>帰国後、<br />鳥越さんは毎日新聞社のテヘラン特派員となり、<br />サンデー毎日の編集長もつとめ、<br />そして新聞社を辞めてテレビのキャスターになったのです。<br />42歳でアメリカ留学に挑戦し、<br />それが転機になったんですね。</p>
<p>数年前、<br />ある雑誌の取材にかこつけて、<br />鳥越さんにお会いできたとき、<br />この『あめりか記者修業』を手にしているわたしに向かって、<br />「その本は、あなたのような年齢の人たちに書いたんですよ」と。<br />新聞記者さんが書いた本は寿命が短い<br />なんていわれますけど、<br />この鳥越さんの本は復刻されて、<br />いまもロングセラーとなっています。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>重松清さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.527</id>
	<published>2008-08-18</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:53Z</updated>
	<summary>学校の先輩とか、会社の上司とか、目上の人から若いころの話を聞かされたうえに、「だれだって苦労してるんだ」「おれも努力してここまで来たんだ」なんて言われると、素直に耳をかたむける気はしなくなるでしょう。...</summary>
	<author>
		<name>stand-fight</name>
		
	</author>
	
		<category term="みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>学校の先輩とか、会社の上司とか、<br />目上の人から若いころの話を聞かされたうえに、<br />「だれだって苦労してるんだ」<br />「おれも努力してここまで来たんだ」<br />なんて言われると、<br />素直に耳をかたむける気はしなくなるでしょう。</p>
<p>このブログでも、<br />「最初は、だめだった」という話を<br />教訓じみないように伝えるのは、なかなかむずかしいですが、<br />でも、<br />そもそも、<br />そういう苦労話って、<br />先輩や上司はともかく、<br />最近の有名人からは<br />なかなか見つからないんですよ。</p>
<p>たとえば、<br />一昔前のスポーツの有名選手なら、<br />長嶋茂雄選手がデビュー戦で４打席４三振だったとか、<br />ガッツ石松選手は世界チャンピオンになるまでに<br />10回以上も負けたことがあったとか、<br />だめ話のエピソードが<br />ついてまわっていたんじゃないかと思います。<br />ひるがえって、<br />最近のスポーツ選手には、<br />わたし、そんなだめ話、あんまり知りません。</p>
<p>重松清さんも、<br />『セカンド・ライン』（朝日新聞社、2001年）<br />で同じようなこと書いてます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......たとえばサッカーの中田選手や野球のイチロー選手、あるいは女性なら宇多田ヒカルさんでもいいのだが、不思議なくらいエピソードが少ないことに気づかされる。彼らのすごさを強調する材料はいくらでもあるが、彼らがいかにしてヒーローになったかについては、ほとんど伝わってこないのだ。<br />　だからこそ、彼らは「ヒーロー」よりも、むしろこう呼ばれることのほうが多い。<br />　天才――。（同書36ページ）</p></blockquote>
<p>で、<br />そういう重松清さんも、<br />いまのように作家として大活躍するまでのエピソードが<br />ほとんど知られてないと思うんですけど、<br />重松さんのエッセイやコラムをたくさん収録した同書のなかに、<br />いくつか語られていました。</p>
<p>大学卒業後、<br />出版社に就職した重松さん。<br />その会社をすぐ辞めているんだそうです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......ぼくはサラリーマン生活にわずか十一カ月で見切りをつけた。すでに結婚をしていたので、なにはともあれ飯を食うために働かなければならない。てっとりばやくフリーライターの仕事を始めてはみたものの、二十二、三歳の駆け出しに仕事がどんどんまわってくるほど、この業界も人材が払底しているわけではない。半年もしないうちに「こりゃあヤバいなあ......」と就職雑誌に手を伸ばすはめになってしまった。（同書223ページ）</p></blockquote>
<p>わたしは、<br />重松清さんが「田村章」や「岡田幸四郎」というペンネームで<br />雑誌原稿3000本を書き、<br />また、<br />「ゴーストライターの帝王」と呼ばれて<br />単行本100冊も書いた、<br />という話を耳にしたことはありますが、<br />そんなふうに名うてのライターになるまでに<br />「ヤバい」時期があったとは、知りませんでした。<br />重松さんは、<br />そのヤバい時期、<br />大学時代の同級生――「相棒」のような間柄だったＳさんに、<br />『女性自身』の仕事で救ってもらったといいます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>駆け出しの、しかもまだ二十三歳の若造ライターが老舗の週刊誌で原稿を書くチャンスを与えられた理由は、じつにかんたんなことである。ぼくの学生時代の友人――いまに至るまで最もたいせつな友人・Ｓが、『女性自身』編集部に在籍していたのだ。<br />　学生時代から、なにをやるにもコンビを組んできたぼくたちだった。毎晩のように酒を飲み、（中略）飲み屋で見知らぬ奴らと大立ち回りをしたり、薬師丸ひろ子の駅貼りポスターを盗みに行って西武池袋線の電車に撥ねられそうになったり、ビニ本の局所に塗られた墨をマーガリンでこすって消したり、ＳＭごっこと称して大学の同級生を椅子に縛りつけてキャンパス内に放置したり......バカなことばかりやってきた。<br />　そんなコンビの片割れが、せっかく入った出版社を一年たらずで辞めて、新婚間もない妻のヒモ同然の暮らしをしているのを見かねたのだろう、Ｓは「ウチの仕事をやってみないか？」と声をかけてくれたのだ......（同書231～232ページ）</p></blockquote>
<p>ところが、<br />『女性自身』の仕事の紹介をきっかけに、<br />重松さんはＳさんと、<br />学生時代のようには話せなくなってしまいます。<br />仕事を受ける側とまわす側の関係が、<br />重松さんとＳさんのなかに、でてきたからです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>一九八九年の年明け、ひさしぶりにＳと会社の外で会ったときに「フリーの生活はどうだ？」と訊かれた。その頃のぼくはフリーライターとしてじゅうぶんに生活は成り立っていたが、まだＳの仕事をあてにしなければ多少不安な、そういう中途半端な時期だった。いつもならためらうことなく自慢話を披露する傲慢なぼくが、そのときはＳに気を遣った。駆け出し時代の恩を忘れてはいないからと言いたくて、ことさらに苦労と感謝を強調した。「おまえがいなかったらアウトだったよ」と芝居がかったことを言い、「フリーになんかなるもんじゃないさ」と媚びたふうに笑った。<br />　Ｓは黙ってうなずくだけだった。<br />　そして、その二カ月後、黙って自ら命を絶った。<br />　会社の仕事に行き詰まり、フリーになることも心の片隅で考えながら、いやそれでも俺は会社の中でしか生きられないんだと自分に言い聞かせたすえの決断だった――と通夜の席で知った。（同書224ページ）</p></blockquote>
<p>それからも重松清さんは、<br />『女性自身』を中心にライターの仕事をつづけ、<br />その一方で小説も書きはじめます。<br />そして、<br />山本周五郎賞や直木賞など、<br />文学賞をつぎつぎと受賞して大活躍となりますが、<br />いちばん最初に受けたのは坪田譲治文学賞で、<br />対象となった本は<br />1999年の中編作品集『ナイフ』（新潮社）でした。</p>
<p>その『ナイフ』のなかの、<br />「エビスくん」という作品、<br />これが、<br />小学６年生の「ぼく」と転校生の「エビスくん」の物語、<br />相棒の物語なんです。。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>「エビスくん」を書くのは、ほんとうにキツかった。すぐに立ち止まり、へたりこみそうになる主人公の背中をどやしつけながら、物語を紡いでいった。それは、ぼくにとってのリハビリテーションだったのかもしれない。<br />「エビスくん」は、小説としての出来不出来はともかくとして、いまに至るまで、ぼくのいっとう好きな作品である。一編の末尾近くの言葉――「会いたいなあ」は、物語からはみ出した、ぼく自身の声だった。「どこにおんねや、きみはいま」は、Ｓに向けた言葉でもあった。（先の『セカンド・ライン』225ページ）</p></blockquote>
<p>わたしも、<br />わたしの中学２年の娘も、<br />重松さんの本のなかでは『ナイフ』がいちばんで、<br />とくに「エビスくん」を愛読しています。<br />どうして、この作品に引かれるのか、<br />やっとわかった気がします。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>沢木耕太郎さんの巻。</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/kodo/#000526" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.526</id>
	<published>2008-08-04</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:53Z</updated>
	<summary>20代半ばのころ、留学生という身分でアメリカの田舎町にいたことがあります。 そのとき、食べ物とか着る物とか、衣食住で困ったことは何もなかったんですけど、やっぱり、言葉には困りました。。英語よりも、日本...</summary>
	<author>
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		<category term="みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>20代半ばのころ、<br />留学生という身分でアメリカの田舎町にいたことがあります。</p>
<p>そのとき、<br />食べ物とか着る物とか、<br />衣食住で困ったことは何もなかったんですけど、<br />やっぱり、言葉には困りました。。<br />英語よりも、日本語に困るんです。<br />日本語で書かれた文章がすごく恋しくて、<br />留学生センターに届く日本の新聞を心待ちにしていました。</p>
<p>これはほかの日本人留学生も同じみたいで、<br />仲間うちで日本語の本を回し読みしたりするんです。<br />で、<br />そのなかでも、ひっぱりだこになっていたのが、<br />沢木耕太郎さんの本。<br />とくに、わたしは、<br />おない年の女の子から回してもらった<br />『敗れざる者たち』（文藝春秋、1976年）に<br />夢中になりました。</p>
<p>ボクシングや陸上など、スポーツ選手をルポした短編集ですが、<br />そのうちの「さらば 宝石」という一編を、<br />ひとり、夜中のベッドで読み終えたときに<br />背筋がぞぞっと、怖くなったことをいまでも覚えています。<br />プロ野球の往年の名選手が、<br />じょじょに精神を病んでいく話です。<br />沢木さんは、<br />その選手の名前を最後まで明かさないまま、<br />すごくリアルな、選手の狂気を感じさせる話を展開します。<br />わたしは、<br />この選手はいったい誰なんだろうと、<br />沢木さんの文章に乗せられてどんどん読み進むうちに、<br />やがて選手の狂気の様子が目の前に浮かんできてしまい、<br />薄気味悪くなったんですね。</p>
<p>それから沢木さんの本を何冊も読みましたが、<br />そういう怖くなるほどの本を沢木さんが20代から書いていた、<br />と知って、わたしは２度怖くなりました。<br />当時の自分自身も20代でしたが、<br />こんな年齢でこんな本を書けるとは。<br />沢木さんは22～23歳のころに、<br />月刊誌に書いた「防人のブルース」というタイトルの、<br />自衛隊をルポした作品でデビューしたそうです。<br />もちろん、わたしはそれも読みましたが、<br />おもしろかったというより、もう、打ちのめされました。<br />20代前半という年齢で、ここまでできる人がいるんだ、<br />それに比べて自分なんて、って。</p>
<p>でも、沢木耕太郎さんも、<br />じつは最初は、ぜんぜんだめだったんです。。。</p>
<p>エッセイ集『地図を燃やす 路上の視野Ⅲ』（文春文庫、1987年）に、<br />こう書いています。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>ぼくは一日だけ会社づとめをした。しかし、入社した日が退社した日でもあった。（同書211ページ）</p></blockquote>
<p>沢木さんは、大学を卒業する直前に<br />「どうしても就職はするべきではない」<br />と思い込んでしまい、初出社の日、<br />「電車に乗り、東京駅で降り、丸の内のオフィス街に<br />傘をさして黙々と歩む群衆の中に身を任せているうちに、<br />どういうことか、自分にもわからないが、<br />会社へ行き、やめると告げることに勇気が湧いてき」て、<br />それを実行してしまったのです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>会社づとめは放棄したものの、だからといってこれから何をしたらいいのか、いや自分が何をしたがっているのかまったくわからなかった。......家庭教師をして辛うじてなにがしかの金を得ていた。卒業と同時にやめようとしたのだが、就職しないと知ると「自分のやりたいことが決まるまで、話相手としてでいいからつづけて来てほしい」と頼まれた。願ってもないことだった。（同書211～212ページ）</p></blockquote>
<p>沢木さんを救ったのは、大学時代のゼミの教官で、<br />その紹介で沢木さんは月刊誌にルポを書くことになります。<br />それが「防人のブルース」として発表されることになるのですが、<br />沢木さん、こんどはルポの取材の初日に、だめだったんです。。。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......編集長からテーマを与えられ、よしやってみようと勇み立ったのはいいのだが、ルポルタージュを書くということにまったく経験のなかった私は、取材の第一日目でつまづいてしまった。卒業する際に破棄し忘れた学生証でも使わないかぎり、私には自らを証するなにものも持っていないことに気がついたのだ。せめて名刺でも作ろうと思ったが、どういったものを作ればいいのか見当もつかない。取材がしやすく、それでいて少しは格好のいいものが欲しいがどうしたらいいだろう......（同書132ページ）</p></blockquote>
<p>そうして初めて書いたルポがそのまま月刊誌に掲載される、<br />というのは、さすが沢木さんと思いますが、<br />最初はこんなふうに、いろんなことがあって、<br />書きはじめたんですね。</p>
<p>その後、沢木さんの名刺は、<br />偶然に放送局のロビーで出会った黒田征太郎さんに相談して、<br />デザインしてもらったそうです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>......その名刺は実に素晴らしいものだった。白い艶やかな紙に、黒く美しい文字がプリントされている。名前の横に小さくルポライターとあり、あとは住所と電話番号がさりげなく記されているだけという単純なものだったが、私にはまるで輝いているように映った。簡潔で清々しく、それでいてどこかにしなやかさを秘めている。こんな素晴らしい名刺は見たことがないと思った。（同書133ページ）</p></blockquote>
<p>沢木さんは、その名刺の持っている雰囲気に<br />自らを同一化しようとした、といいます。<br />しんまいの沢木さんに、<br />ルポライターたりつづけることを意志させたその名刺、<br />いちど拝見したくて、たまりません。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>藤沢周平さんの巻。</title>
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	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.506</id>
	<published>2008-07-22</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:50Z</updated>
	<summary>わたしの会社も住まいも、東京の練馬区の大泉学園という町にあります。 妻の実家もこの町にあります。で、おばあちゃんちと味噌汁の冷めない距離のところに住めば、まあいろいろ好都合ということで、結婚後、大泉在...</summary>
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	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>わたしの会社も住まいも、<br />東京の練馬区の<br />大泉学園という町にあります。</p>
<p>妻の実家もこの町にあります。<br />で、<br />おばあちゃんちと味噌汁の冷めない距離<br />のところに住めば、<br />まあいろいろ好都合ということで、<br />結婚後、大泉在住15年です。</p>
<p>都心から電車で30分。<br />駅前からつづく桜並木は<br />春になるとすごくきれいですし、<br />近くには映画館もフィットネスクラブもあるし、<br />おいしい食べものやさんとかケーキやさんもたくさんあるし。<br />いまでは、<br />この町がすっかり気にいりまして、<br />なにか用事でもないかぎり、都心にはでていきません。<br />いつも大泉で<br />ぶらぶらしてるんです。</p>
<p>あるとき、<br />取材で有名な翻訳家の方とお会いして、<br />そんなふうに大泉で暮らしてますという話をしたところ、</p>
<p>「いい町ですよね、藤沢周平さんも住んでらっしゃいますしね」</p>
<p>といわれて、へえっ！　と思ったんですね。<br />藤沢さんの本は読んだことありましたが、<br />近くにお住いとは、知らなかった。。。<br />で、<br />藤沢さんの時代小説ではなく、<br />エッセイ集『小説の周辺』（文春文庫、1990年）<br />を買って読んだら、</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">朝の十時になると、私は喫茶店に行くために家を出る。私が住むＧという町は、にぎやかなところは表のバス通りだけで、まわりにはまだ畑や芝生が残っているような場所である。そこで喫茶店に行くにも、バス通りをずっと北に歩いてＳという店に行くか、反対側の南に歩いてスーパーの中のＪという店に行くかということになるのだが、家の者はＳはともかく、私がＪに行くのをあまり好まない。<br />　というのはＪはコーヒー専門店ではなくて、アイスクリームやたこ焼きも売っているからだ。つまり子供向けの店なので、代金の支払いは品物と引き換えになる。コーヒーはＳが二百八十円、Ｊは二百円である。そういうこととか、私が子供たちにまじって、カウンターの止まり木でコーヒーをすすっている恰好がはなはだいかさないとかいうことが、家の者に嫌われる理由のようである。（同書71ページ）</p></blockquote>
<p>そこでわたしも、<br />藤沢さんみたいにＳやＪという店で<br />コーヒーを飲んでみたら、<br />なにかちょっとひらめいたりするんじゃないかと思って。<br />大泉の町をうろうろ、<br />それらしき店を探しまわったことがありました。<br />（でも見つかりませんでした。。）</p>
<p>藤沢さんは出身地の山形で<br />中学校の先生をしていましたが、<br />20代なかばで結核にかかり、<br />その手術と療養のために東京にでてくることに<br />なったのだそうです。</p>
<p>そして、<br />ようやく結核の療養所を退院した藤沢さん、<br />山形へもどったものの、<br />すでに年齢は30歳。<br />「病み上がり」の人だとも見られてしまい、<br />再就職がうまくいきません......。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>ちょうどそのころ、東京から一枚のハガキが来た。それは病院とは無関係の、Ｏさんという東京に住む知人からのハガキで、Ｏさんはその中に、小さな業界紙の仕事がひとつあるが働いてみないかと書いていた。私は東京にもどって、その業界紙に勤めた。私はそのころ、働いて金をもらえるなら、日雇い仕事もいとわないという気持になっていた。私はそのとき三十歳だった。三十になって職もなければ金もない、むろん住む場所も結婚する相手もいない、社会的には一人の無能力者にすぎなかったのである。<br />　業界紙というものがどういうものか、皆目見当もつかなかったが、私は物を書く仕事だということに気持を惹かれた。日雇いよりは多少知的な感じがしたし、また書くことが嫌いでなかったからである。その小さな業界紙で、私は記事を書くだけでなく、あとでは広告取りもやらされたのだが、その仕事は予想以上に快適だった。新聞記事を書いているとき、私は少し大げさに言うと、自分を水を得た魚のように感じることがあった。（同書105～106ページ）</p></blockquote>
<p>それからの藤沢さん、<br />44歳のときに「オール讀物」の新人賞を受賞、<br />46歳で直木賞を受賞して<br />47歳で会社をやめて作家の仕事に専念するようになり、<br />49歳のとき、1976年に、大泉に自宅をかまえたのでした。</p>
<p>でも、<br />さっきの『小説の周辺』のなかに、<br />こんなことも書いてあるんです。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>好き嫌いは別にして、いちばん忘れがたい小説をあげるとすれば、私の場合やはり『オール讀物』の新人賞をもらった「溟い海」ということになろう。<br />　三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても、仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的な中身のものだった。私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。<br />　そういう場合、手っとり早い解消の方法として、酒を飲むとか、飲んだあげく親しい人間に洗いざらい鬱屈をぶちまけるやり方があるだろう。だが私は古い教育をうけたせいか、そういうやり方は男らしくないと考えるような人間だった。自分の問題は自分で処理すべきだと思っていた。当時はまだ、そういう考え方が出来る気力と体力があったのだろう。<br />　さて、そういう気持のありようは、べつに小説に結びつくとは限らないわけだが、私の場合は、小説を書く作業につながった。<br />「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。......（同書188～189ページ）</p></blockquote>
<p>小説を書きはじめるまでの人生のなかで、<br />藤沢さんは、<br />世の中に絶望するほどの、<br />どんな経験をしたんでしょう...。<br />若くして結核にかかったものの、<br />30代で業界紙に職を見つけて、<br />そこで「水を得た魚」みたいになっていたのに。。。</p>
<p>藤沢さんは<br />自分自身のことを語らない作家だったといいます。<br />でも、<br />60代になってから書いた自叙伝<br />『半生の記』（文藝春秋、1994年）のなかで、<br />業界紙に就職したあと、同郷の三浦悦子さんと結婚し、<br />その後、<br />わずか４年あまりで<br />悦子さんをがんで亡くしたと――</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>昭和医大病院では、医師も看護婦も親切だった。治療のしようもない病妻を献身的に看護してくれた。子供は田舎に預けたので、私はそこから会社に出勤し、夕方には病院に帰る生活をつづけた。しかしそれからふた月ももたず、昭和三十八年の秋に悦子は亡くなった。二十八歳だった。<br />　そのとき私は自分の人生も一緒に終ったように感じた。死に至る一部始終を見とどける間には、人には語れないようなこともあった。そういう胸もつぶれるような光景と時間を共有した人間に、この先どのようなのぞみも再生もあるとは思えなかったのである。下宿で小人数の親しい人たちにあつまってもらって密葬を済ませ、田舎でする葬儀に帰るまでの間骨壺と一緒にいると、時どき堪えがたい寂寥感に襲われることがあった。（同書108～109ページ）</p>
<p>しかし胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持は、どこかに吐き出さねばならないものだった。私は一番手近な懸賞小説に応募をはじめた。そしておそらくはそのことと年月による慰藉が、私を少しずつ立ち直らせて行ったに違いない。昭和四十四年一月に、私は現在の妻高澤和子と再婚した。私はそのころ病弱な老母と幼稚園に通う娘をかかえて疲労困憊していた。再婚は倒れる寸前に木にしがみついたという感じでもあったが、気持は再婚出来るまでに立ち直っていたということだったろう。<br />　......和子は私の家の状況を見さだめると、右に老母左に娘の手をひいて銭湯に連れて行き、車を呼んで病院に連れて行くことからはじめた。（同書109～110ページ）</p></blockquote>
<p>『半生の記』のなかから<br />引用したこの文章には、<br />「死と再生」<br />という題名がつけられています。</p>
<p>藤沢さん、<br />「死と再生」の文章、<br />こんなふうに結びます。</p>
<blockquote dir="ltr" style="MARGIN-RIGHT: 0px">
<p>先妻と死産の子供の骨を納めた墓は、高尾の墓地群の一角にある。すべて同型同規模と定められた墓である。そこに時どきお参りに行く。墓を洗い、花と線香を上げてから家内が経文をとなえる。お参りが済んで墓前の芝生でそなえた菓子などをたべ終わると、私は立ち上がる。墓地は丘の中腹にあって、そこから八王子の市街や遠い多摩の町町が見えるが、風景は秋の日差しに少し煙っている。<br />　私と結婚しなかったら悦子は死ななかったろうかと、私は思う。いまはごく稀に、しかし消えることはなくふと胸にうかんでくる悔恨の思いである。だがあれから三十年、ここまできてしまえば、もう仕方がない。背後で後始末をしている妻の声が聞こえる。二十八だったものねえ、かわいそうに。さよなら、またくるからね。私も妻も年老い、死者も生者も秋の微光に包まれている。（同書110～111ページ）</p></blockquote>
<p>藤沢周平さんが亡くなって<br />もう10年。<br />わたしの自宅から徒歩５分の大泉図書館には<br />藤沢さんの特設コーナーがあるんです。<br /></p>]]>
	</content>
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	<title>糸井重里さんの巻。</title>
	<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.stand-fight.com/blog/kodo/#000503" />
	<id>tag:www.stand-fight.com,2008:/test//7.503</id>
	<published>2008-07-07</published>
	<updated>2009-07-06T11:13:48Z</updated>
	<summary><![CDATA[はじめまして。Stand &amp; Fight！ともうします。 編集の会社をつくって仕事したり、ふたりの女の子の父親をしたり、シンプルだけど、それなりに楽しい毎日を暮らしています。 でも、ときどき、...]]></summary>
	<author>
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		<category term="みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
	
	
	<content xml:lang="ja" xml:base="http://www.stand-fight.com/"><![CDATA[<p>はじめまして。Stand &amp; Fight！ともうします。</p>
<p>編集の会社をつくって仕事したり、<br />ふたりの女の子の父親をしたり、<br />シンプルだけど、それなりに楽しい毎日を暮らしています。</p>
<p>でも、ときどき、<br />弱気になったり、不安になったりするんです......。</p>
<p>「会社を、ちゃんとつづけられるかなあ」<br />とか<br />「大学卒業まで、学費の面倒をみるのはえらいことだ」<br />って。</p>
<p>経営業も、父親業も、しんまいですから、<br />ふっとそういう気持ちになってしまうのは、<br />仕方ないのかもしれません。<br />とくに、<br />仕事でちょっとでもつまづくと、<br />その傾向がすぐでてきます。</p>
<p>で、<br />そんなとき、どうするかというと、<br />だれか、同じように弱気の虫や不安を抱えていて、<br />そしてそれをなんとか乗り越えた人、の話を読むといいんです。</p>
<p>糸井重里さんが、<br />『ほぼ日刊イトイ新聞の本』（講談社文庫、2004年）<br />で書いています。</p>
<blockquote>
<p>なんだか、ダメだ。無力だ。疲れた。苦しい。そういう気持ちになったときには、先人たちの経験を知っているだけで、ずいぶん励まされる。<br />ぼくは、「最初はダメだったんだよ」という話をする人が大好きだった。<br />（同書164ページ）</p></blockquote>
<p>糸井さんは、<br />１日100万アクセスという超人気のホームページ<br />『ほぼ日刊イトイ新聞』をつづけていますが、<br />1998年６月にそれを開設したころは<br />「えらいことはじめちゃったなあ」<br />という気持ちもあったといいます。<br />２年目の秋から冬になると、<br />ちょっと疲れも見えてきて......。</p>
<blockquote>
<p>......『ほぼ日』以前のぼくは、いまからするとかなり優雅な生活を送っていた。表参道駅徒歩五秒の事務所で、金銭的にもある程度余裕があったし、毎日とはいわないけど、結構いい食事もしていた。<br />ところが、事務所を引っ越し、『ほぼ日』をはじめたとたん、仕事量は倍以上。そのくせ、金銭的にはぴーぴー、外食といえば弁当やらファミリーレストランやらで、以前とは格段の差だった。<br />（同書204～205ページ）</p></blockquote>
<p>でも、糸井さん、<br />偶然のように会った『ぴあ』の社長の矢内廣さんから聞いた話が、<br />とくにうれしかった、と。</p>
<p>矢内さんのこんな体験談に、糸井さんは元気づけられたのでした。</p>
<blockquote>
<p>『ぴあ』は四畳半の安アパートの一室からスタートしたという。スタートした当初、まったく雑誌が売れず、四畳半の部屋は返品の山で埋まり、寝るためのスペースもなかったという。<br />自分が精魂傾けてつくった雑誌が読まれないのがくやしい矢内さんは、バイトの学生と一緒に雑誌を背負い、山手線や地下鉄の電車の網棚に置いていった。四畳半の部屋に寝るスペースを確保することと、宣伝にもなるという一石二鳥の策だったのだそうだ。買われなくてもいい、買われもしないし読まれもしないよりはずっといい、と言う。少ない資金でバイトの学生にまともに給料を払えずずいぶんつらかったらしい。<br />あまりにもつらい毎日だったので、深酒をしないと眠れない。酒代にも事欠いていたが、飯代で安酒を買って飲んでいたものだから栄養失調で入院したこともあった。<br />『ぴあ』が軌道に乗るようになったのは、創刊四年目に紀伊國屋書店の田辺茂一さんから応援してもらえるようになったからだ。<br />創刊から四年か、短くないなぁ。<br />ぼくは矢内さんの話を聞いたとき、「俺はまだラクじゃないか」と心強かった。四年もガマンできる自信はなかったが、いまでもメシくらいは食えていたし、初期の『ぴあ』と比べれば、『ほぼ日』のほうが育つ速度もはやいと思えたからだ。......<br />（同書164～165ページ）</p></blockquote>
<p>矢内さんも、糸井さんも、<br />みんな、最初は、ぜんぜんだめだったんです。<br />そんな話を、いくつもいくつも、ここで紹介していきます。</p>]]>
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