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みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。

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中坊公平さんの巻。

2008/12/05

わたしの田舎は
福井の小浜というところです。
人口3万ほど、
のんびりした雰囲気の港町ですけど、
今年は、
NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台になったり、
アメリカのオバマ次期大統領さんのおかげで注目されたり、
にわかに盛り上がったみたいでした。

東京から帰省するときは、
京都経由で新幹線と電車を乗り継ぎます。
で、
せっかく京都を通るんだからと、
そこで1泊旅行してから帰るんです。
宿はいつも、
京都大学の近くの「聖護院御殿荘」。
この旅館が中坊公平さん経営なんですね。

中坊さんは
日本弁護士連合会の会長も務めた人で、
10年前の司法制度改革審議会では委員として、
現在の裁判員制度の導入をリードしたそうです。
整理回収機構の社長として
住専の不良債権処理に手腕を発揮していたころは、
「平成の鬼平」と呼ばれてメディアにひんぱんに登場したり、
首相候補に名前があがったりしました。

一見、
すごく偉い人で、
エリートなのかなと思いきや、
著書を読むとそんな感じはぜんぜんありません。
さっきの聖護院御殿荘も、
1泊1万円前後で利用できる気さくな旅館です。

中坊さんの初めての著書
『罪なくして罰せず』(朝日新聞社、1999年)に
こんな一節があります。

......私は大事に育てられた。子守役のお手伝いさんがいつも遊び相手になってくれて、父も母も私が寝小便を繰り返しても決して怒らなかった。だが、学校では落ちこぼれで、なかなか友達ができない。今でこそ一千枚近くの年賀状をもらうようになったが、その時代には一枚も来ないことがあった。私は孤独で、知らず知らず「自分は弱い人間なんだ」と自覚しながら大きくなったように思う。(同書107ページ)

司法試験は3回目でやっと合格。弁護士になってからも
仕事の依頼がぜんぜん来ない時期が
長くつづいたといいます。
でも、
やがて、
「裁判に負けない弁護士」と評判になって、
なんとかひとり立ち。
中坊さんは
「現場主義」に徹する独自の手法を体得したんです。

私は旧制中学の受験も高等学校の受験も滑った落ちこぼれで、もともと勉強嫌いである。しかし裁判では、相手方より現場を知り尽くし、裁判官より事案の本質を踏まえていれば勝てることを知っている。事案の本質と法律の条文を比べればどちらが強いか、軍配は必ず本質を知っている側に上がる。法律はあくまで裁判の「手段」でしかないからである。法律の論理だけで裁判官を説得することはできないが、現場の体験から弁論すれば納得してもらえる。(同書99ページ)

どんな事件を依頼されても
中坊さんはまず事件の現場を見聞きして回り、
その状況を肌で感じ、
ときにはそこで依頼人と一緒に
会食したりするのだと。
そういうふうに視覚から触覚、味覚まで、
つまり五感をすべて働かせると、
たいてい現場から
「事実の本質」
とでもいうべきものが見えてくるんだそうです。なるほど。

そんな現場主義を武器に
中坊さんは数々の大事件に挑み、
たくさんの被害者を救ってきました。
森永砒素ミルク中毒事件、
豊田商事事件、
香川県豊島の産廃不法投棄事件......。
なかでも
わたしがいちばんスカッとさせられたのが
「千日デパートビル火災裁判」での中坊さんです。

大阪・ミナミの繁華街にあった
「千日デパートビル」が焼けたのは
1972年5月13日の夜。
118人が死亡した
日本のビル火災史上、最悪の大惨事です。
中坊さんは
焼け出された千日デパートのテナントたち、
具体的には
化粧品や婦人服や宝石や靴といった
小さな店を営む36人から依頼を受けて、
ビルを所有するドリーム観光を相手に損害賠償を求めました。

当時、
ドリーム観光は奈良や横浜で遊園地を運営する大企業でしたが、
「千日デパートビル火災で防火上の手落ちはない」
「ビルは滅失したからテナントの賃借権もなくなった」
などと主張して、
化粧品や婦人服や宝石や靴の店主に、
つべこべいわず、あんたら出て行け、と。
中坊さん、
これに怒りました。

私は落ちこぼれで弱い子どもとして育ってきたせいか、横暴な強者を前にすると、とことん反発するところがある。私は勉強も運動もできず、十六歳まで寝小便をたれているような子どもだったが、ケンカをすれば負けなかった。殴り合いでは勝ち目はないから、相手の腕でも足でも服の上から噛みつくのである。いちど噛みついたら、叩かれようが蹴られようが、絶対に離れない。口の中に相手の血が滲んできても離さなかった。むしろ、その血は飲み込んだ。当然、相手はケガをして病院のお世話になった。寝小便には何も言わなかった母も、このときばかりは「公平さん、友達を傷つけてはいけません」と怒ったが、私には生来こうしたマムシのような闘争本能が宿っているのかもしれない。(同書103ページ)

中坊さんは裁判で猛烈に反論、
8年におよぶ長い闘いに勝訴します。
その詳しい経緯は書きませんが、
わたしは
千日デパートビル火災裁判の中坊さんの話で
弁護士とは何をする職業なのか
はっきりわかったんですね。
弱い人たちを助ける仕事なんだって。

中坊さんは毀誉褒貶の多い人でもあり、
住専処理にあたっていたころの債権回収をめぐって刑事告発され、
それをきっかけに弁護士を廃業して、
現在は旅館経営に専念されているそうです。
債権回収でどんな問題があったのか、
わたしにはわかりません。
ただ、
『罪なくして罰せず』の「はじめに」のなかで、
中坊さん、こう書いてるんですね。刑事告発される前の記述です。

私はこの三年間(住専処理にあたった三年間)、しばしば過激な姿勢で債務者や住専破綻の責任者と対決し、(整理回収機構の)社員たちには激励、号令、罵詈雑言を浴びせ続けて債権回収にあたってきた。冷静な指揮官というより頑固な職人みたいな仕事ぶりだったが、それに対する世間の毀誉褒貶はあまり気にしなかった。いま私には、私なりに納得のいく仕事ができたという充足感があるけれど、私のこの仕事が長い目で見て歴史の批判に耐えられるまっとうなものだったかどうか、その答えはすぐにはだせないからである。(同書2ページ)

中坊さんは来年で80歳。
わたしが帰省の途中に京都で1泊するのは
そこで偶然でもいいから
中坊さんに会えないかなあと願っているからです。

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