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みんな、最初は、ぜんぜんだめだった。。

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糸井重里さんの巻。

2008/07/07

はじめまして。Stand & Fight!ともうします。

編集の会社をつくって仕事したり、
ふたりの女の子の父親をしたり、
シンプルだけど、それなりに楽しい毎日を暮らしています。

でも、ときどき、
弱気になったり、不安になったりするんです......。

「会社を、ちゃんとつづけられるかなあ」
とか
「大学卒業まで、学費の面倒をみるのはえらいことだ」
って。

経営業も、父親業も、しんまいですから、
ふっとそういう気持ちになってしまうのは、
仕方ないのかもしれません。
とくに、
仕事でちょっとでもつまづくと、
その傾向がすぐでてきます。

で、
そんなとき、どうするかというと、
だれか、同じように弱気の虫や不安を抱えていて、
そしてそれをなんとか乗り越えた人、の話を読むといいんです。

糸井重里さんが、
『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社文庫、2004年)
で書いています。

なんだか、ダメだ。無力だ。疲れた。苦しい。そういう気持ちになったときには、先人たちの経験を知っているだけで、ずいぶん励まされる。
ぼくは、「最初はダメだったんだよ」という話をする人が大好きだった。
(同書164ページ)

糸井さんは、
1日100万アクセスという超人気のホームページ
『ほぼ日刊イトイ新聞』をつづけていますが、
1998年6月にそれを開設したころは
「えらいことはじめちゃったなあ」
という気持ちもあったといいます。
2年目の秋から冬になると、
ちょっと疲れも見えてきて......。

......『ほぼ日』以前のぼくは、いまからするとかなり優雅な生活を送っていた。表参道駅徒歩五秒の事務所で、金銭的にもある程度余裕があったし、毎日とはいわないけど、結構いい食事もしていた。
ところが、事務所を引っ越し、『ほぼ日』をはじめたとたん、仕事量は倍以上。そのくせ、金銭的にはぴーぴー、外食といえば弁当やらファミリーレストランやらで、以前とは格段の差だった。
(同書204~205ページ)

でも、糸井さん、
偶然のように会った『ぴあ』の社長の矢内廣さんから聞いた話が、
とくにうれしかった、と。

矢内さんのこんな体験談に、糸井さんは元気づけられたのでした。

『ぴあ』は四畳半の安アパートの一室からスタートしたという。スタートした当初、まったく雑誌が売れず、四畳半の部屋は返品の山で埋まり、寝るためのスペースもなかったという。
自分が精魂傾けてつくった雑誌が読まれないのがくやしい矢内さんは、バイトの学生と一緒に雑誌を背負い、山手線や地下鉄の電車の網棚に置いていった。四畳半の部屋に寝るスペースを確保することと、宣伝にもなるという一石二鳥の策だったのだそうだ。買われなくてもいい、買われもしないし読まれもしないよりはずっといい、と言う。少ない資金でバイトの学生にまともに給料を払えずずいぶんつらかったらしい。
あまりにもつらい毎日だったので、深酒をしないと眠れない。酒代にも事欠いていたが、飯代で安酒を買って飲んでいたものだから栄養失調で入院したこともあった。
『ぴあ』が軌道に乗るようになったのは、創刊四年目に紀伊國屋書店の田辺茂一さんから応援してもらえるようになったからだ。
創刊から四年か、短くないなぁ。
ぼくは矢内さんの話を聞いたとき、「俺はまだラクじゃないか」と心強かった。四年もガマンできる自信はなかったが、いまでもメシくらいは食えていたし、初期の『ぴあ』と比べれば、『ほぼ日』のほうが育つ速度もはやいと思えたからだ。......
(同書164~165ページ)

矢内さんも、糸井さんも、
みんな、最初は、ぜんぜんだめだったんです。
そんな話を、いくつもいくつも、ここで紹介していきます。

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